2023年8月22日火曜日

断想: 「それは税金のお陰だ」という時のロジックを考えると・・・

標題のテーマは暑さをしのぐには頃合いの深さをもっているかもしれない。 

前稿ではこんなことを書いている:

この伝で言うと、京都大学で学び、大阪大学、京都大学で研究をつづけた湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのは「私たちの税金」のお陰である。というより、ノーベル賞級の研究には大体が公費が入っているから、日本人が授与されたノーベル賞はほぼ全て「私たちの税金のお陰」である……

まあ、そんな理屈になるのだが、このレベルの世迷言を語る日本人は(幸にしてまだ)出現してはいないようだ。

これに対して、『国立大学に勤務する人には税金が入っている。これ自体は否定できない事実だ。だから「ノーベル賞級の研究ができるのも税金のお陰だ」と言うとして、これのどこが間違っているの?』と。こんな疑問が出てくる気配があるのが、今の日本社会の世相であるようで、小生、この点からも全般的な理解力の劣化を感じる。

よく考えてごらんなセエ……と、こんな喋りを落語家ならしそうだ。

湯川秀樹に限らず、実際にノーベル賞を受賞した日本人は少ない。レアケースである。問いたいのだが、

湯川秀樹は税金を支給されて(見事?)ノーベル賞を受賞した。とすると、それ以外の大半の国立大学教職員は、税金を支給されたにもかかわらず、期待した成果(=ノーベル賞?)を上げられなかったのだ、と。そう考えるべきなのだろうか?

それは明らかに違うでしょう、と思う。


国立大学教職員に支給されている俸給は、ごく一般的な教職員に期待される授業や学内運営、平均的な研究活動に勤めるための対価であると観るのが適切だろう。

中には、結果が大いに期待される特定の研究活動には多額の研究補助金が入っているかもしれない。しかし、ノーベル賞級の研究は、結果がかなりの確度で見通され、経費を積算しやすいタイプの研究ではあるまい。新奇かつ独創的な着想段階から多額の税金が国から支援されることはない(はずだ)。

湯川秀樹や朝永振一郎をはじめ日本からは多数のノーベル賞受賞者が輩出されているが、こういった人たちに「税金」を支給することから期待されていた結果は、ごくごく平均的な国立大学教職員に期待されていた職務を果たすことであった。こう考えるべきだと思うのだ、な。

だとすれば、何人かの(これからも現れる可能性があるが)ノーベル賞受賞者は、「税金」のお陰で研究成果を出せたのだと考えると、それは少し筋が違う。投入された公費を遥かに超える成果を出せたのは寧ろ「嬉しい誤算」であったと言うべきだろう。主たる成功要因は本人の才能と努力である。こう理解するのが筋道である。


故に

金銭面で(多少の)世話になっているとしても、「……のお陰で」という風な義理を感じるだけの筋合いはない場合がある

要するに、世の中それほど単純なものではありませんゼ、ということだ。別に小生は精神主義者ではないが、成功したのはカネのお陰、公費のお陰、税金のお陰と強調する世相をみていると、

カネの寄与度はそんなに高くはありませんゼ。大事なのは本人の才能と根気です。

そう言いたくなるのだな。だから、精神主義が横行した頃の日本に小生はかえって懐かしみを感じたりもする。

ま、へそ曲がりだからこんな社会観をもっているのだ、な。 

前稿でも書いたが、現代日本人にとってカネは自分の血肉とも言える神聖なモノである。江戸時代に生きた武士・百姓にとってのコメと同様だ。ではあるが、そのカネを払うとき、期待できるのは「期待して当たり前のリターン」であって、期待を遥かに超える結果は「嬉しい誤算」と言うべきで、それはカネ以外の要素が働いたが故である。カネの成果だと考えてはいけない。

税金で何かを支援し、偶々、支援された人が望外の結果を残したとしても、それは支援した甲斐があったと考えるべきで、結果自体はその人自身の努力がもたらしたものである、と。リターンの大半はカネの出し手ではなく、努力した本人に帰属させるべきである、と。そう考えるのが理に適う。カネを出したという一点を強調し、あまり欲深になってはいけない。前にも書いたが、小生は労働価値説が本質的には当てはまっていると信じる立場にいるのである ― 反対に、カネの出し手からみて期待を遥かに下回る結果しか残せなかったなら、なぜそうなったかを検証しなければならないという理屈になる。


本日はロシアの戦争経済についてWall Street Journalが記事を載せていたので、それを話題にしようと思っていたが、偶々、気になったことをメモした次第。

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