2023年8月10日木曜日

断想: アピールはするが実質のない言葉のいくつか

小生がまだ経済学部の学生であった頃、ガルブレイスと言えば結構著名な学者であった。ガ氏の『豊かな社会(Affluent Society)』は一世を風靡したし、消費者の選択が民間企業の宣伝・CMに歪められてしまうという「依存効果」は同氏によって学術用語となり、世間でもとても重宝に使われる言葉になった。ところが、いまガルブレイスの学術的業績を引用するアカデミックな論文はほとんどない ― 小生の不勉強かもしれないが、実際そんな印象を受けている。

多くの人が思わず「そうだよネ」と納得する「学術的説明」が、実は「観察日記」と同レベルの「ジャーナリズム」であり、真のリアリティを解明したものではない例は大変多い。

古くは古代の大哲学者アリストテレスが説明した「重いものは軽いものより速く地面に落下する ≒ 2倍の重さをもった物体は2倍の速さで地面に落ちる」。この説明ももっともらしい学説だった。ガリレオが主張した「全ての物は同じ速さで落ちる」という「落体の法則」の方こそ目で見た印象とは違う。しかし、高校(中学の理科でも?)の物理で勉強するように、全ての物体に働く重力は等しいという意味で、正しかったのはガリレオの側であった。

「観察」と「洞察」とはしばしば逆の内容になるのである ― こんな当たり前のことは、ミステリー・ファンならとっくの昔から分かっているのだが。

もっともらしい説明、もっともらしい概念、もっともらしい術語。どれほど多くの人を惑わし、間違った世論を形成しているのだろう?

間違った概念は、長い時間の中で化けの皮がはがれて消えて行くものである。

最近の例では、たとえば『知る権利』。これはどうだろう?

最近はマスメディアが「知る権利」と口にすることがあまり目立たなくなったように感じる。

小生は、もともと「知る権利」という概念はメディア事業から自然発生したもので

知る権利 = 取材をする自社の側が正しいとする理屈

こう考えてきた。知る権利と知らせる義務、知られる義務は表裏一体であるロジックだ。怪しいことは誰でも分かる。そもそも日本国憲法が定める基本的人権の中に「知る権利」は規定されていない。だからマスコミが使わなくなれば、やがて消えて行く運命にある。そうなるだろうと予想してもいる。やはり「個人情報の尊厳」、「安全保障の重要性の高まり」が軽視できない論点として認知されると、「知る権利」の居場所は見つけにくくなるものだ。そういう事情になってきた。

どう知るか、どう知らせるか、どう知られるのかという問題は、権利=義務の問題ではなく、もっと精緻に行動科学の観点に立ってその最適化を考えなくてはならない問題なのである。

これがすぐに思いつく一例だ。

もう一つは「公費は私たちの税金です」という認識だ。この認識が何かの主張と合体すると結構強力な説得力を発揮するのが昨今の世相だ。たとえば、自民党女性局主催のパリ研修旅行も同じ言葉で批判されている。

これについても小生自身の見方は既に投稿したが、以前にもこんなことを書いている。

「原資は税金」という点が、それほど重要なのであれば、より多くの税金を納めた国民はより多くの貢献を日本国にしていることになるのではないか。

より多くの貢献をしているのであれば、より多くの権利を持っても不思議はないのではないか。

投票権だって納めた税金額に比例するようにしたほうが良いのではないか。理屈が通るのではないか。実際、株式会社はそうしている。税金を納めていないのであれば、参政権もなくて仕方がないのではないか。そもそも多額納税者が真っ先に参政権を得たのだ。

カネに話しを戻すなら、必ず上のような話になる。格調が低いことおびただしい。

非課税証明の対象になっている人は、「原資は税金だから」という言葉を(自称)ジャーナリストから聞くたびに、肩身の狭い思いをしなければならないということか・・・。いやいや、税金を一切納めていない人はいない。消費税は必ず納めているはずだから。しかしねえ・・・。

どちらにしても、よく聞く「これも税金なんですから」という表現、実にデリカシーのない言い方だと思う。

日本人というと、海外の人と比べると、淡々とした生き方が好きで、成功した創業者を尊敬するというより「カネの亡者」と揶揄したりするところがあったりする。世界の中ではかなりの変物かもしれない。ところが、何としたことか、これも国際化の副作用か、日本のマスコミはすぐに金の話しをするようになっている。

本当に、一般視聴者もマスコミの編集現場と同じ感覚をもちつつあるのだろうか?

就活の場、転職の場で、最も知りたいと思うのは(ぶっちゃけた話し)「勤務時間」と「報酬」であろう。 タイパ、コスパで仕事を決めたい。そう思う人は確かに増えている。

いくらやりたいと思う職業でも、安月給と長時間労働ではいくら自主性、多様性があるとはいっても、心は折れるものである。

だから、最後は《カネの話し》になる。それは分かる。「……には私たちの税金が入っているんです」という主張で伝えたい気持ちもわかる。

マスコミ現場で働いている人も、所詮はビジネスマンだ。ビジネスマンにはビジネスマンの行動基準、価値基準がある。損益計算書と貸借対照表で成績評価される世界だ。カネは生きる糧である。武士にとってのコメは、現代ビジネスマンにとってのカネと同じだ。

カネほど神聖なるものはなし。一銭のカネをもおろそかにするべからず。

無意識で是認している価値は、番組内容、記事内容にもにじみ出て来るのだ。

とはいえ、カネの話しばかりしたがる人は嫌がられますぜ。カネは自分の血肉だが、日本人は生臭いモノが嫌いなんですぜ。

最近のマスコミには品がない理由の一つは、すぐに「カネの話し」に持っていきたがる所だ。

これもまた

貧すれば鈍す

という格言の現れであろうと思って視ている。だから

これは私たちの税金です

という指摘も、指摘自体は誤りではないが、「だから何?」となるわけだ。

この道路には税金が入っているんだよネ

この橋って、税金で出来たんでしょ?

この会社、多分、研究開発支援で税金もらってますよネ?

うちのお婆ちゃん、税金で暮らしてるんだヨネ…… 

幾らでも出てくる。しかし、「だから何?」、"So what?"を考えるのが、報道でも、ドキュメンタリーでも第一歩になるはずで、そこで何を書くかで知的能力の違いが出てくる。そう思っているところです。

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