2023年11月30日木曜日

覚え書き: 日本的な「報道の自由」の情けない現実を知った一年であった

本年も残すところ後一月になった。顧みると今年一年程<人権>という単語を使った一年も珍しい。人権は、現代日本社会でずっと空気のような存在感をもってきたが、もし空気がなくなるとすればという恐怖心を感じさせたのが、本年という年であったのかもしれない。

11月の最後はまったくの覚え書きということで人権保護に関する海外の制度についてメモしておきたい。

というのは、こんな記事をネットで見つけたのだ。

同質性が極めて高い島国の日本は戦前戦中に秘密警察(思想警察)の歴史があるだけに、「表現の自由」に基づく「報道の自由」や国民の「知る権利」は最大限に保障されるべきです。中国やロシア、北朝鮮と日本の最大の違いは「報道の自由」が認められているか否かです。

報道による二次被害やメディアスクラム(集団的過熱取材)への対応は英国のような独立報道基準機構(IPSO)を設けたり、警察や行政、民間団体によるリエゾンオフィサー(メディアと遺族の間に入る家族連絡担当者)を養成したりするのが良いと思います。

英国の民間団体「被害者支援(VICTIM SUPPORT)」はサイトで「報道被害への対処法」を詳しく紹介しています。メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

日本でもメディアによる人権侵害が甚だしい場合は侵害差し止めの仮処分を起こして、訴訟費用も含めてメディア側に請求し、判例を積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。

Source:ニューズウィーク日本版

Date:2019年09月18日(水)18時30分

URL: https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2019/09/post-62.php

前稿でも述べたが、マスメディアという民間企業の自由がいかに日本の民主主義に必要だと言っても、だから個人の人権を侵害してもよいことにはならない。人権は常に守られるのが原理原則である。

同じ記事は以下のように続いている:

インターネットやソーシャルメディアの普及で報道機関とメディアの境界が曖昧(あいまい)になってきました。「報道の自由」が認められるのは、伝えることに「公共の利益」がある場合に限られます。

公共の利益に沿うと判定する作業は、自社利益を追求しているメディアではなく、第三者でなければならない。

ドイツについても紹介されている:

ドイツ・プレス評議会のガイドラインはかなり詳しく被害者保護について定めています。

「事故や自然災害が発生した場合、報道機関は被害者と危険にさらされている被災者に対する緊急支援が『知る権利』に優先することに留意しなければならない」

「被害者は身元に関して特別に守られる権利を持っています。一般的に被害者の身元に関して知ることは事故の発生、災害や犯罪の状況を理解するのに役に立ちません」

「被害者や家族、親族、権限を与えられたその他の人の同意がある場合か、被害者が公人である場合にのみ、被害者の名前と写真を報道することが許されます」

ルールはもっとあるが「後略」としておく。ともかく報道の「知る権利」が制限されるケースが具体的に列挙されている。 

やはり日本社会でも 上のイギリスが既に採用しているように

メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

過度な取材の対象となった個人による人権擁護の申請に応じてメディア企業に取材の禁止を命令できる余地を設けておくことは日本の民主主義にとって何もマイナスにはならないだろう。

イギリス社会より日本社会の方がより民主主義的であるというザレ言を口にする人はいないはずだ。また、人権擁護のために取材制限を行えるイギリスの方が「報道の自由」が制限されていると主張する人もいないはずだ。

実際、報道の自由ランキングにおいて、日本は2023年に多少上昇したと言っても世界で68位。台湾の35位、韓国の47位よりずっと下である。ましてイギリスの26位とは比べるべくもない。

日本のメディア企業が言う「報道の自由」は、弱者である一人ゝの個人に対して行使される自由に過ぎない。

相手が、日本政府や警察・検察・最高裁、ジャニーズ事務所、旧・統一教会になると、決して報道の自由が行使されることはなかった。

本年一年で明らかになった事実は

個人は最も弱く、マスコミは個人より強く、日本国や(スポンサー)企業はそれよりも更に強い権力をもつ

日本社会を支配しているそんな《力の序列》である。人権侵害が蔓延するのは、序列で認められている力が社会的権威にもなって働き、個人が素のままでは決して尊重されないという序列観が日本人で共有されているからだろう。

確かにすべての個人は平等であるが、個人を超える権威が日本社会には多々ある。個人の人権は実のところ序列が上位にある権威に立ち向かう程には尊重されない……日本社会は歴史を通してずっとそんな階層構造であったのかもしれない。

国や政府、会社や団体など全ての組織は生きている人間が考えて創った擬制的存在で、自然に存在するものではない。その擬制的存在が制度として継承され、定着し、権威になるに伴い、生きているリアリティである一人一人の個人を下位に置き、支配し始める。生きている人間は変えることすらできなくなる。

いずれこの日本では、AI(=人工知能)までも権威性を帯び、日本人を支配し始めるだろう。バカといえばバカとも思えるが、独立を嫌う日本人には確かにそんな情けない所がある。

哀しく厳しい現実である。


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