2023年11月25日土曜日

ホンノ一言: 「政教分離」をいま心配するとはネエ

先日亡くなった池田大作・創価学会会長に弔意を示し弔問したことが政教分離という憲法規定に違反するのではないかとの指摘がネットを騒がせているそうだ。例えば、こんな具合だ:

「池田大作氏のご逝去の報に接し、深い悲しみにたえません。池田氏は、国内外で平和、文化、教育の推進などに尽力し、重要な役割を果たされ、歴史に大きな足跡を残されました」(岸田総理のXから)

 追悼文の最後には「内閣総理大臣 岸田文雄」と記名し、翌19日には、「自民党総裁」として、創価学会の本部を弔問に訪れた。これに対し、政教分離の原則に反するのではないかと批判の声が殺到。松野官房長官は「公明党の創立者である池田大作氏に対して、個人としての哀悼の意を表するため、弔意を示したものと承知をしている」(総理官邸・20日)と述べた。

 SNSでも「内閣総理大臣の記名はだめでしょう」「弔問は選挙のため?政権に公明党がいること自体が疑問」「これがダメなら伊勢神宮参拝も亡くなったローマ法王への弔意もNGでは?」などの声が上がり、議論になっている。

 果たして、岸田総理の弔意と弔問は憲法の政教分離に反するものなのか。23日の『ABEMA Prime』では、宗教学や宗教社会学の専門家を招き、政治と宗教の距離感について考えた。

Source: Yahoo! Japan ニュース

Original: ABEMA TIMES

Date:  11/24(金) 15:41配信

フランスは厳格な政教分離を原則としている一方で、ドイツのコール、メルケル政権はキリスト教民主社会同盟が与党であった。アメリカ合衆国の新大統領はバイブルに手を置いて就任式で宣誓を行う。そして、イギリスは……、もう、いいだろう。

世俗権力と宗教権力を分離したうえで、世俗権力が政権を運営するという「政教分離」は近代国家の基本骨格になっているのだが、国ごとの具体的な現状にはバラツキが見られる。


ただ、今の日本国でこんな話題は、どうなのだろう?

現代日本で岸田首相の行為が「政教分離」に違反していないかどうか? この問題提起だが、今の日本で国会・行政府・裁判所の三権に匹敵するような宗教権力が存在するのだろうか?あると言うなら、それはどこなのか?

宗教とは精神的に人々を支配することで政治権力となりうる。「創価学会」、「公明党」が日本人を精神的に支配できる(かもしれない)宗教勢力だと、真剣に心配するべき状況があるのだろうか?

それはちょっと違うと思います。

というより、現代日本ほど無宗教の、いや既存宗教組織が無力化した時代はかつてなかった。日本人の精神構造は大勢として余りに、よく言うなら「科学信仰」、悪く言えば「唯物論的」になってきている。宗教勢力警戒観とは真逆だ。そう思われるのだな。

大体、普通の日本人で、創価学会会長はともかく、天台宗座主や浄土真宗の法主、浄土宗門跡が誰か知ってますか?日本最大の信者数を擁する宗教はどこなのか、知っていますか?

そういうことだ。

現在の先進各国における対立構造は、世俗権力 vs 宗教勢力ではなく、むしろ票集めのプロである職業政治家(?) vs アカデミア・ジャーナリズム(=知的エリート層?)の対立が主になってきていると思う。何だかThomas Pekketyを連想させる表現だが、(今のところ)これが本筋だと観ている。

Pikketyの"Brahmin Left vs Merchant Right"(2018)で展開されている視点に沿って日本の政治を議論するなら、以下のような展望につながるかもしれないので、今回の覚え書きとしたい。


TV画面に数々登場してくる「専門家たち」の発言を多数の日本人は素朴に信じている兆候がある。宗教勢力が退潮する中で日本人の「信仰」、いや「精神的な信頼」の対象になってきているのは、自然科学と社会科学を含めた学識上の一流の人物達である。政治家の発言には疑いと反感(?)の眼差しを向ける一方で、一流の研究者・専門家の発言には理解できるにせよ、できないにせよ、聞き入れる耳を持とうとしている様子がうかがえる。

宗教は人々に信じてもらうからこそ権力をもちうる。科学も同じである ― もちろん政治も同じである。しかし、いま日本人の心情において、信じられているのは宗教界の発言ではなく、科学の側からの発信ではないだろうか?

確かに池田大作は創価学会会員に精神的影響力を行使してきた(と観られる)。信じられていたからである。それを以て「政治的影響力」だと批判するのは、普通の職業政治家の羨望と嫉妬だろうと観てきた。小生とは関係のない話しで、客観的に心配するべき状況ではないと思ってきた。

他方、コロナ禍の中の対応はまだ記憶に新しいが、足元では国際関係論の専門家がロシア=ウクライナ戦争の本質を語ったり、イスラエル対パレスチナの歴史的対立について語る場面が多い。一流の専門家が解説すればするほど世間的には喜ばれている、これはアカデミアの側からの発信である ― 個人的には、あの藤原定家が日記『明月記』に記したという

紅旗征戎吾が事に非ず

( 大義名分をもった戦争であろうと所詮野蛮なことで、芸術を職業とする身の自分には関係のないことである)

という姿勢が好きで、学問的研究は(芸術的活動もそうだが)世間とはあまり係わりを持たないのが本筋ではないかと思っている。たとえ自分自身の研究であっても、そこから得られる助言を世間に正しく伝える仕事は、(どんな事でも正しく伝えるのは難しいことだが)極めて言葉使いが難しい。かつ、一度始めれば文字通り「雑用」に追われ、途中で停めるのは困難だ。本来の仕事に集中できる時間こそ不可欠の生産要素であるにもかかわらず。

いま日本国内で、どんな仕事に従事している、どのように評価されている人物が信頼されているのか、事実が語っているというものではないか。


もちろん《社会の中の科学》、《社会の中のアカデミズム》に異を唱える気持ちはまったくないし、アカデミズムとジャーナリズムの一体化が悪いと思っているわけではない。寧ろ喜ぶべき方向なのだろう。

しかし、標題のように「政教分離」を心配する気持ちがあるのなら、よくよく考えるべきだと思う。

宗教を支える信徒たちは概ね悩みの深い一般大衆が主である。それに対して、科学に携わる人を支えるのは科学を理解し、論理を日常ツールとする人たち、いわば<エリート>たちであろう。

つまり、政治家 vs 宗教勢力という対立図式の下では<上層 vs 下層>の対立が基軸になることが多い(と思われるのだ)が、政治家 vs 知的エリート層という図式では、結局はエリート層内部の見解上の相違に帰する面がある ― 政界上層部もその支持基盤はマネーを支配する階層だから。

最近はこんな風に観ているわけで、日本の未来政治は<世襲の政界貴族 vs 知的エリート>の対立が政策を動かしていく。そう思ったりしているのだ。この秋、日銀総裁に東大の植田和男教授が就任したが、このような抜擢は一過性のサプライズ人事ではなく、今後の日本では次第に増えていく。そのうち、アドホックな(任期付き?)高級官僚任用も自在にできる方向で公務員制度が次第に改変されていくだろう。もしかすると、これは明治維新直後の政府人事のあり方に近づくのかもしれない。

仮にそうなったとして、中央省庁、公的機関の上層ポストに国際的評価の高い知的エリートが抜擢される動きを、日本人は忌避し、非難するだろうか? むしろ旧態依然とした年功人事、政治家に対する忖度だけが上手な叩き上げの官僚よりは余程評判がよい人事だと受けとめるに違いない。政と官との関係性も再定義され、日本政治の基本骨格がやがて「見える化」されるだろう。

であるので、エリート層内部の見解上の対立が今後の日本政治を動かす基本構造になる可能性が高いかもしれず、中下層の人々の毎日の苦悩を代表するような政治勢力は影響力のない周辺部に追いやられ何の権力もなくなるかもしれない。

将来のいつの時期にか、こんな状況がやって来るなら、日本社会は21世紀前半を通して、《権力の偏在化》が進行したと後になって歴史的に認識されるだろう。

つまり、言いたいことは

政治 vs 宗教の対立は現代日本の政治構造としては良い面もある。宗教組織が一定の政治的影響力をもつことは日本社会の改善に望ましい面もある。

実はそう思っている。

しかしながら、現実はそうでなくなりつつある。そんな印象をもっている。


さて、それはともかくとして、


ネット上で発言される意見や批判はほぼ全てが匿名だ。なるほど匿名アカウントでSNSにアクセスする権利はあってもよいし、便利でもある。しかし、こと政治に関することはチャンと顔と名前を出して意見を言うべきだ。

匿名の意見表明は《怪文書》と同じ扱いでイイと小生は思う。怪文書が影響を与えるような社会は民主主義の衣をかぶった暗黒社会である。誰がこんな事を言っているのか分からない社会は、気色が悪い。そう感じるのですがネエ……。

この点だけは、あわれ逮捕されるに至ったが、ガーシー被告は筋を通していたと思う。

実は、本日は、これが一番言いたかった事である。

※ なお、本ブログは外観は匿名だが、実はそうではない。念のため。


【加筆修正】イタリック部分

2023-11-26


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