最近日本で流行している言葉の一つに《第三者委員会》がある。宝塚歌劇団でも「第三者委員会」に組織改善のあり方検討を委嘱したいとのことだ。何か不祥事を引き起こしたり、解決困難な問題に悩んでいる場合に、内部の委員会ではなく、純粋の他者による調査委員会に解決策を委ねようという方法は、問題解決に向けた最近の<定石>になりつつあるようだ。
まあネエ……とは思います。
組織運営には平時もあれば非常時もある。何であれ問題解決に十分な能力をもっている人物が組織運営の中枢にいない、だから外部の人間に考えてもらう、これ自体が可笑しいじゃないか…そういう日頃の感想であります。問題が紛糾して当事者間で合意や和解に至らない場合は、日本は法治主義であるから、司法の場で法律に則した解決を得る。これが標準的な進め方である。
司法ではなく、第三者委員会に結論を出してもらう。この方がコスパがいいのか?得をしている人間がいるのか?Why?、そんな疑問は随分前からあるのだな。
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内部の人間による調査、外部の人間による調査。問題発生時の調査ではないが、評価に関して、ずっと気になっている論点もある。
小生は役所と大学で仕事をしてきたので、双方の評価システムが余りに異なっていることに困惑したことがある。
役所では基本的に自己の評価は上司が行う。下部セクションの評価は上部の中枢が行い、人事配置でその評価が反映される。そんな組織で深刻な問題が発生したとき、組織外の専門家に解決策を検討してもらおうというのは、自然な延長線上にある選択だと思う。
だから、役所を辞めて大学に戻るまでは、
評価とは外の人間がやることだ ― 仕事も自分で決めるのではなく、上から降ってくるものだ
そう思い込んできた。
他方、大学では学生を評価するのは教師の側である。つまり個々の教師の授業が評価されることはない。大雑把に言えば、大学教師は職務を規定した公募を通して任用されるという意味では、《ジョブ型雇用》に近い形になっている ― 同じとは言えない。そういう建付けである。
だから、学生による授業評価が行われるようになったのは、外部の人達の想像を超える思い切った決断だったわけだ。しかし、いざ実施してみると、授業評価結果の公開は、学生側だけではなく、教師側にとっても有用であることが分かった。なるほどアメリカの大学で学生による授業評価が先に定着しているのは当然だと思ったものだ。
学生による授業評価と併せて、教師による自己評価もまた同じころに導入された。始めてみると、学生による授業評価と同じように、自己評価もまたWebLogのような自己モニタリング記録として実に有用であることが分かった。
どちらも現場での評価活動である。
話しは別になるが、《外部評価》を導入する大学が増えている。小生が勤務した大学でも、何年かに一度は外部評価対象になり、評価委員が来訪する前後は「電話待機」を要請されたものである。
思うのだが、この《外部評価》というのは、実際の役に立つことがあるのだろうか?正直なところ、そう感じることがしばしばあった。確かに、本省が予算配分を行う時に、こうした外部評価結果があれば有益だろう。本省が財務省に予算要求する際にも役立つはずである。その位の事は直ちに分かる。しかしながら、外部評価結果が被評価大学のパフォーマンスを改善するモメンタムになるのは、いかなるチャネルを通してそうなるのか?そんな疑問は当然にあったわけだ。
正直なところ、小生が担当する統計関係科目の授業設計をどうこうするという意味で外部評価結果が役に立ったことはない。仮に、ヒアリングの場で統計関係科目の授業内容に立ち入って、「現在の授業内容よりは……という内容の方が教育効果があるのでないか」と質問されたならば、「その提案には十分なエビデンスがありませんし、現在の授業内容は学生に十分評価されています」と、マアそんな風にヤンワリと回答し、提案をそのまま受け入れることは拒んだと思う。
もちろんその外部評価委員が、小生と専門分野が同じ統計領域で、質問のレベルが明らかにhigh qualityであるなら、それは小生にも直ちに分かるので、ヒアリングの場は実に知的に充実した丁々発止のやりとりとなったろう。その会話は授業内容の改善に大いに寄与したはずである。しかし、そんなことは一度もなかったのだ、な。
つまり、言いたいことは、
外部評価をするなら、外部評価をする人たちの能力評価は、誰がするのか?外部評価委員の能力評価をする人の能力評価をする人は誰か?……
こんな無限ループをなぜ一般の人たちは心配しないのだろう、という疑問がある。
そして、外部評価委員会に言えることは、第三者調査委員会にも言えることだろう。
小生は統計分析の現場で育ったせいか、現場の問題解決に専門外の外部の人間が首を突っ込んで、責任を負うことなく提案をすることには抵抗感がある。
内部の人間には内部であるが故のバイアスがあるし、外部の人間は現場を知らないという弱みがある。これは普遍的に当てはまることで、オールマイティの問題解決法はないというのが真実である。有能な外部人材であれば、委嘱された問題点に一般的に導出できる結論が当てはまるかどうかという点を正しく洞察できるだろう。故に、第三者調査委員会が機能するかどうかは、外部調査委員、特に委員長の能力に帰することで、こう考えると、外部であれ、内部であれ、
結局は、有能なヒトなら問題を解決できる。無能なヒトは問題を解決できず、状況は悪化する。
こんな当たり前の結論になるわけで、太平洋戦争中に大本営から作戦指導などと称して中枢部から参謀が出張って来ては現場の作戦指導を混乱に陥れた史実を思い起こせば、みな知っていることである。
教室や学級をそのままにしてクラス替えで人を入れ替えても、授業でやっていることが同じであれば、学校としては何も改革されていない。改革とは人が毎日する仕事そのものを変えることなのである。仕事そのものを変えながら同じ理念を追求し続ける……、易しいことでないのは当たり前だ。外部の人材なら解を見出すだろうと期待する理由は何なのだろうか?
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最近聞くことの多い《第三者委員会》も、それが信頼できるというロジックは内部調査ではなく、外部調査の方がより信頼できるというものだ。調査であれ、評価であれ、委員たちがやる仕事は似ている。
司法ではなく、外部人材から構成される第三者委員会を選ぶというのは、何故か?法廷の場であらゆる証拠を吟味し、関係する全ての証人から正確な証言を得て、厳正な判決を得るのは嫌なのだろうか?
AならAという組織があって大きな問題が発生する時、Aという組織をBという組織に改革してでも組織を存続させる。これが目的なら外部の人材に構造改革案を提案してもらうという選択肢がある。しかし、Aという組織に所属する人物には、それはそれで創業の理念、伝えるべき価値があるかもしれず、AをBに改革する意志はないかもしれない。
組織改革を担当する人物は、組織内に所属し、人生をかけて努力できる人物でなければなるまい。人生をかける程の意志を持たない人物は他社に転じる方を選ぶ。組織改革に失敗すれば、その組織は消滅する。こんな自浄機能を社会がもっていれば、それはそれで良いはずだ。わざわざ第三者委員会という場に外部の人的リソースを割いて、問題が発生した組織の存続について「考えて差し上げる必要性」はないのではないか?
ただでさえ、日本は消失するべき組織がゾンビ組織となって存続しがちであるという問題がつとに指摘されているのだ。問題を引き起こして市場から退場する事例はもっとあってもよいと考えるべきだろう。
組織の問題とその解決、組織の改革と存続への努力、努力の成否、組織存続の可否まで、全てを含めて、組織の経営はその組織の経営者に全ての責任がある。外部の人間が責任を負うことはないし、責任があると考える筋合いでもない。
【加筆修正】2023-11-22
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