2023年11月20日月曜日

断想:人権侵害をうながす気風はそもそも日本人本来の感性とは違うのかも

本年1年間を通して非常に目立ったのは数々の人権侵害事件が相次いで発覚したことだろう。何年か後に、2023年という年を振り返る時、今年という年が日本における《人権尊重元年》と呼ばれるようになるかもしれない。

というのは、例えばジャニーズ創業者社長による大規模な性加害行為があるし、最近になって世間の注目を集めている宝塚歌劇団内部の人権無視体質もある。スポーツ界の有名選手が結婚したところマスコミの<取材禍>に遭い、ごくごく短期間で離婚を決意せざるを得ないという顛末になったというのも人権問題の一つではあるだろう。

極めて社会部的な話題だが、以前から感じていた問題現象がまた反復されているとも感じるので日頃の感想をメモしておきたい。

世界では、人権>国家であり、人権>組織であり、人権>社会であって、(個人の)人権の尊厳が最優先で重視されるべきだ、そんな価値観が支持を集めつつある。小生はこれが単なる希望的観測であるのを怖れる。

かたや、日本では数々の過労死事件や人権侵害事件が次々に発生しているにも関わらず、まだなお

人権<会社であり、人権<社会である

これが日本社会の基本だと。そんな思考が支配的だと感じることが多い。つまり、基本的にみて、日本社会は「全体主義」的であると思うのだな、いまだに。

なるほど個人が組織に従属するという情況の下で相次いで悲劇が発生するごとに

人権>会社

であると、マスコミや世間では大いに声が出るわけだ。

しかしながら、本心から、原理原則として個人ゝの人権を尊重するわけではないことは、実際の社会の動き方をみていると直ぐに分かる。人権を尊重するというのは、社会の要望よりも優先して、当事者個人の個人的な状況と意志をより尊重するという基本原則を指して言う言葉である。そんな理念に帰着する言葉だ。

こんな原理に戻って見直すと、日本においては、「人権」も「民主主義」も単なる言葉として使われているに過ぎない所がある。


たとえば「報道の自由」という言葉の前ではプライバシーは忘れられてしまう。そもそもプライバシーが不特定多数者に露出されるのは、(犯罪行為の通報を除けば)人権侵害であろう。メディア企業は「報道の自由」を「民主主義の基盤」だと主張して、それが何よりも尊い価値であると主張している。しかし、メディアという民間企業の自由がいくら民主主義にとって重要であるからといって、企業が個人の人権を侵害してもよいという理屈にはならない。企業だけではない。個人が他の個人のプライバシーを侵害するのも不当である。

企業には企業理念があると言っても、だからと言って、過重労働を正当化する理由にはできない。いくら国家には正義があると言っても、戦争で敵国の非戦闘員を「多数殺害」してもよいという「戦術上の必要」を主張すれば、それは戦争犯罪者の言い分である。

自らの命を守るのは、普遍的に人がもつ基本的な人権である、と。そう考えられつつあるのは、現代社会も捨てたものではないと観ているのだ。

自ら守ることが出来るという普遍的な権利の対象は「命」だけではない。「人間としての尊厳」も対象の一つであるし、「幸福を追求する自由」、「(正当な理由なく)幸福が侵されない権利」もそうであろう。この辺りの考察と定着を改めて徹底するべき所が戦後日本社会には(ずいぶん)残っていると感じることは多い。

何ごとであれ、個人の人権を制限するには、真にその措置がやむを得ないと確認され、人権制限が認められる状況を列挙した上で、正当な法的手続きによらなければなるまい。手続きなき人権侵害は、全て(原理として)不当であり、犯罪であり、人権侵害を犯した当事者は(何らかの名目を与えた)刑罰の対象となる。

今後の世界でこんな風な価値観が有力になってほしいと小生は期待している。そうすれば、戦争という国家の行為も(理屈の上では)規制できる論拠になろう。

それに先立って、日本国内でも法務省・人権擁護局と全国に14000人もいる(はずの)人権擁護委員の権限を強化するべき時機が到来したと観るべきなのだろう ― そもそもの話し、検察庁と人権擁護局が同じ法務省に同居しているのは奇妙な気がしないでもないが。ともかく、国内行政で解決できる問題は多々あるはずだ。

でもナア……、日本はヤッパリ遅れるのだろう、と思う。日本社会で本質的に価値観が転換するには長い期間がかかるかもしれない。

日本社会では、しばしば個人による人権の主張は利己主義に基づく行為として見られる所がある ― 決してそうではなく、いわば「株主代表訴訟」と似た働きをするのだが。そして

利己主義は悪である

そう断定する価値観には今なお一定の信奉者がいる。

自己利益ではなく、社会への貢献を志すべきだ

こんな「ド正論」が日本では今なお支配的である。


誰でも自由に行動することを通して、結果としては社会に貢献しているものである。

しかし、日本社会では、そもそも最初の動機が利己的であることを恥じる風潮が強い。強すぎるのだ。故に、自己犠牲と社会貢献を求める意識が支配的になる。余りに支配的であるのだ。そのことに当の日本人自身が辟易として、困惑し、閉塞感に落ち込むというのは、実にまったく滑稽を通り越して、

面白うて やがて悲しき 鵜飼かな

で頑張る鵜さながら、人に求められるがままに懸命になって働く鵜の哀しさと、日本人の閉塞感とは、どことなく相通じるものがあると感じるのだが、どうだろう?

この明治以降の近代日本社会の伝統とも言えるような日本人の気風(=エートス)が、自らに降りかかる人権侵害を自ら訴えることを後ろめたく感じさせ、一人一人の日本人に自分の人権を守ろうとする決意を難しくさせている。そう思う今日この頃であります。

宝塚音楽学校と歌劇団を今までの姿を保ちながら構造改革を進めることがおそらく困難を極めるだろうと同じように、《日本社会の理念転換》もまた困難を極めるに違いない。


しかし、凡そ150年間にわたって継承してきた日本人の気風(=エートス)は、古典・古文をひもとけば分かるように、ずっと昔から受け継いできた感覚や習慣、常識とはまったく異なるものである。まず間違いないと思っているのだが、現代日本人の間で共有される気風は明治以降の近代日本政府が努力をして意図的に形成したものである。そもそも最初から日本人がもっていた気風や美意識がどんなものであったのかを知る上でも、現代の学校制度における教科カリキュラムの中に《古文》が置かれている意義がある。そう考えるべきなのだろう。

こう考えると、「古文」という教科科目が配置されているのは、決して役に立っていないわけではなく、大いに意義がある教育努力である、と。そうも思われるのだ、な。

今日は、人権侵害から学校教育にまで話が広がってしまった。この先はいずれまた、ということで。

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