2023年11月24日金曜日

感想: 養老孟司氏の「生きるとはどういうことか」について

養老孟司氏は『バカの壁』の筆者として著名である。「壁シリーズ?」の全巻を読んだわけではないが、読んだ巻から伝わってくるのは、知性と忖度は違うということだ。

「忖度」とは自己の言動に対する相手側の(世間の?)反応を予期したうえで自己の、あるいは共同の利益を増やすという、いわば「打算的行為」であるのに対して、「知性」はある話題について自分はどう考えるのかという「認識」を形成するのに役立つものだ。

知性とは知るための性。虚偽と真実とを見極める人間本来の力である。虚偽に基づく意思決定をすれば必ず迷路に陥る。真実を直視して行動を決めなければ生き続けることはできない。その意味で忖度 ― 実は、正確には阿諛、追従と言うべきだが ― は悪い行為なのである。正に孟子の昔から

是非之心、智之端也

是非の心は、智のはじめなり 

二千年以上の昔から分かっていたわけだ。

もちろん養老氏が、世間の反発や反応にはまったく目を向けない超俗的な人柄ではなくて、実は「こうすれば売れる」というもっと俗っぽいキャラクターなのだという穿った見方も不可能ではない。が、文章を読んだり、TV画面から伝わってくる印象と総合すると、やはり信用できる人じゃあないか、と感じている。

その養老氏が標題のような話題について書いているので読んでみた。

例によって、Evernoteに保存した全文で下線を引いた部分を引用する形で要約としておきたい。

人はなぜ生きるか。こう訊かれると、すぐにいいたくなる。そりゃ、人によって違うでしょうが。

べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く。そう書いたところで、信じる教義を訊かれることはない。でも仮に訊かれたとしたら、「欲を去れ」だという。そう聞きましたという。如是我聞である。

「世界はイヤなところだと思え」。そう書いていたのは関川夏央氏である。こういう点では、私もそう思う。いまでは世界は人間でできているというしかない。その人間の悪いところを無限に拡大するようなことは、勘弁してほしいと思う。でもそうはいかないといいつつ、欲望は無限に増大するように見える。やっぱりお釈迦様は偉い。

 現代人は「仕方がない」が苦手である。何事も思うようになると、なんとなく思っている風情である。コロナに関する議論をテレビで聞いていると、しみじみそう思う。ああすればよかったじゃないか、こうすればいいだろう。ほとんどの人が沈む夕日を扇で招き上げたという平清盛みたいになっている。「ああすれば、こうなる」というのは、いわゆるシミュレーションで、ヒトの意識がもっとも得意とする能力である。それがAIの発達を生んだ。これは右に述べてきたような私の人生観と合わない。

……面倒くさいなあ、AIに考えてもらいたい、と思ったりする。やっぱり話はいまではAIに尽きるのである。

宗教は衰退しているといわれるが、AIが宗教に変わったという意見もある。未来をもっぱらAIに託すからであろう。AIは碁将棋に勝つだけではない。なんにでも勝つのである。

 自殺が多いのは、人生指南のニーズが高いであろうことを示唆している。日本でいうなら、コンビニより多いとされるお寺の前途は洋々である。若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない。

 Source: 文春オンライン

Date: 2023-11-19

Author: 養老孟司

URL: https://bunshun.jp/articles/-/66991


思わず

ハイ、いまの発言に一票を投じます

そう言いたくなった。

現代人は「仕方がない」が苦手である。

何度も本ブログに投稿しているが、この点に最も強く同感する。

ずっと以前、旧友と盛んに議論をまだしていた年代であったが、

お前が言っていることは、そもそもこの社会は人間の知恵でより良い方向に持っていけるということだろ?「設計主義」って奴だ。しかし、そんなことは不可能なんだヨ。社会を思うように変えられる人物がどこにいる?どこにもいない。日本の総理大臣でやりたいことを成し遂げた総理がいたかい?ナポレオンはヨーロッパ社会を思い通りに変えたか?負けただろ、最後には?社会は変えるものじゃなくて、変わっていくものなんだヨ。

何度言ったかしれない。だから旧友との議論はいつも水掛け論で終わったものである。

社会が変わるのは「仕方がない」し、悪い方に変わっても、仕方がないものなのだ。生きる時代のめぐり合わせが悪いと思うしかない。「仕方がない」。イスラム教徒ならインシャラーと言うだろう。「神が望むなら」という意味だ。

人事を尽くして、天命を待つ

最後にはこう認識するしかない。いくら自然科学が進歩しても、社会科学が進歩しても、宇宙を思うがままに制御するなど決してできない。

一定の時間が経過すれば、太陽は膨張するし、地球は消失する。その後で太陽自体も小さな白色矮星かなにかに退行するのである。これは天文学的に正確な予測である。もちろん、その前に人類は進化上の必然性から消滅しているに違いないと思われるが……

人は、結局、何かを信じたいのである。人が、信じているもの、それ即ち「信仰」であり、「宗教」である。こう定義づけても間違いではないかもしれない。

この流れで議論すれば、現代日本人の多くが信じている宗教は「科学」という宗教である。「数学」という宗教である。もちろん具体的教義(=理論)については理解が及ばず、無知である。

神が救ってくれるという思いは、科学は人を救うという思いと、質的にどこが違うだろう?

しかし、少し前の投稿で述べたが、科学に可能な事は主として「生活水準の向上」であって、人間を救うことではない。生きるうえでの不安を取り去ることは科学にはできない。おそらく永遠にできないと確信している。

その科学に、AI(=人工知能)が加わった。AIのサジェスチョン。古代ギリシア人が信じたデルフォイ(Delphi)の神託とどこが違うだろうか?

これで人類は「安心」というものを得られるか・・・?

まあ、養老氏は

お寺の前途は洋々である

と考えているようだが、生身の住職の代わりに<AI住職>が声明を流したり、読経をしたり、深い問題について説法をしたりするようになるかもしれない。その意味では、お寺の未来は明るい。

しかし、そもそも神や阿弥陀如来という超越的存在を信じないのであれば、AIを搭載したお寺に行って説法を聴いても、その人の不安は救済されないであろう。

科学を信仰する人にとって自分の生を救ってくれるのは医学以外にはない理屈だ。そのようなタイプの人は、寺院や教会ではなく、病院やホスピスを訪ねるべきであろう。

神や阿弥陀如来ではなく、科学を信仰する限り、生きることへの不安は決してなくならない。そんな理屈になるのではないか。

養老氏は、

現代人は「仕方がない」が苦手である。

と指摘しているが、「仕方がない」と認識できる民族、国民は地球上に数多いる(はずだ)。日本人の中にも、そう認識できる人は多数いる(はずだ)。しかし、過半数の日本人は、いま確かに

仕方がないで済ませてはいけない

と、考えているのかもしれない。

小生は、

人間に可能なのは努力である。しかし結果は天命によるものだ。人事を尽くして天命を待つ。仕方がないと認識するべき余地は多い。

そう認識している。

ヒトは努力する限り、迷うものだ。

なるほどゲーテは本筋をついている。どんなに努力をしても、仕方がないでは済まされない余地は残る。だから真理を求めて常に迷う。迷いが努力を生む。故に進歩するのである。つまり、努力は人間の行為、進歩は神の贈り物。神が何を贈るかは人間にとっては「仕方がない」ものである。

「欲しいものが得られない」、「努力をするにはもう疲れすぎた」、日本人の不幸や閉塞感を生んでいる根因はこんな思いにあるのかもしれない。しかし、これまた「仕方がない」と考えるしかないのではないか。

そもそもの話し、どこまで努力をするか、それは個人ゝが決めることで、幸福追求の自由という個人ゝの人権に属することだ。社会的に望ましいとか、望ましくないとか、こんな議論自体が全体主義的なのである。

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