2024年7月13日土曜日

ホンノ一言: 都知事選の「石丸現象」の一つの観方

先日の都知事選で無所属かつ(ほぼ)無名の石丸伸二氏が有力対抗馬の蓮舫・元参院議員をかなりの大差で破って第2位に食い込んだ、それも既存メディアを無視してYoutubeなどのネットを駆使した選挙運動が功を奏した、若年層では現職の小池百合子にも勝っていたというので、日本中が、というより政界、メディア業界が文字通り「蜂の巣をつついた」ようになっているのは、非常に滑稽だ。


何だか、石丸氏から「足蹴にされた」既存マスコミと既存政党の政治家が、懸命になって「石丸つぶし」に狂奔しているような観がある。

子供っぽいリベンジで、非常に見っともない愚景だ。


なぜこれほどまで既存のエスタブリッシュメントから反感を買うかと言えば、とりあえず二つの背景があるかネエ……と思っているところだ。


  • 少子化対策、定額減税、円安進行、安倍派の裏金作り、政治資金規正法改正等々、重要な問題を有効に解決できず、解決するかと思えばやり方が下手すぎる岸田首相や既存の政治家(政治屋?)に対して、フラストレーションを高める国民心理がある。既存のエスタブリッシュメントはそれを重々知っている。「あれほど無能でイイなら己にも出来る」。「あれほど無能な政治屋に任せるよりは石丸さんがまだマシだ」。居酒屋ではこんな話もあるはずだ。エスタブリッシュメントには分かっている。従来型政治家、従来型メディアはネット世界とは疎遠だ。そのネット世界で有権者のマスが形成された。10台から30代までを合わせると何と石丸氏がトップになった。源義経のヒヨドリ越えで大壊乱を起こした平家と同じだ。エスタブリッシュメントは怖くなったに違いない。そこで、大きくなり過ぎる前につぶしておけ、ということか。

  • 石丸氏の言動をみると、そもそも現代日本社会が尊重する価値(の一つ)である《コンプライアンス》に敬意を払っていないような所がある。ある意味で傲慢だ ― 引き合いに出すのは悪いがトランプ的である。前稿でも指摘したように、この場合の「コンプライアンス」は「遵法精神」という公式の意味合いではなく、NYTが日本のメディアは"compliant"(コンプライアント)だと揶揄した悪い意味。つまり、「石丸はイイ子じゃない、素直じゃない、言いなりにならない」、こんな印象が既存のエスタブリッシュメントを甚だしく苛立たせている。"VDP = Very Dangerous Person"、つまり放置してはいけない危険人物、でなければ理解困難なエイリアン(≒Alien)に仕立てる、ということか。

どうもそんな辺りなのかナア、と観ています。まるで組織化されたかのような一斉バッシングをみていると、そう感じてしまいます。


政界とメディア、これらのスポンサーである大企業群は、現代日本では一体の《勢力》である。そこで報酬を得ている人々も同じ集団に属する。総括的に《正規集団》、というか分かりやすく《日本の一軍》とでも呼べる集団である。アメリカのNYTやイギリスのBBCは、その「一軍」の内部で発生する表沙汰にはしたくない不祥事や古い因習を、<人権>に関連付けては、時々針のように突く。その度に日本の「一軍」、つまりメイン・ストリームはズキッと痛い思いをする。が、欧米にはコンプライアントであるしかないので我慢する。「外野からの批判」に対しては、国内で体裁をつくろいつつ耐えて、社会の大枠を守ろうとしてきた。しかし、より広い「日本の二軍」、「日本の三軍」といった自己認識をもつ中流未満の階層でフラストレーションが高まるのを抑えることができなくなってきている。そんな時に、既存メディアを無視したかのような選挙戦術とその後の言動で石丸氏が一気にブレークした。若年世代からブレークした。いずれ中高年に波が広がる。中高年こそ格差拡大の最前線なのだからフラストレーションの目がそこにある。

おしりも、国内メディアは失態が続き社会的信頼が地に落ちている。メディアはエスタブリッシュメントに保護され、独禁法上の例外的分野として活動している産業だ。変革を望むはずがない。日本のメディアは普段の言葉とは反対に実は現状保守なのである。若年層にはもう既存メディアの言葉が届かない。出来るのは中高年層を静かにさせておくことだけだ。うまく行くだろうか?


何か面白くなってきたネエ…、鎌倉時代末期のいわゆる<悪党>のような、現代日本社会なら<非正規集団>といった表現になるだろうが、そんな新勢力がこれから拡大するのか?既存の政党+メディアは没落するのか?官僚はどの勢力につくのか?経済界は割れるのか?


※補足:鎌倉幕府を打倒した主勢力(の一つ)となった「悪党」、つまり「非正規武士」は、名門・足利氏が覇権を握ったことで、結果としては下剋上に失敗した。本来は「古い勢力」であった足利一門が、曲がりなりにも新時代をつくり得たのは、<貿易>が生む利益に着目したからだ。既存勢力の革新が成功した好例として室町幕府をみる視点が小生は気に入っている。が、これは余りにも別の話題なので、改めて。


時代の分岐点では、しばしば旧勢力と新勢力との闘争がみられるものである。「コンプライアンス」とは、あくまでも旧勢力を基準とした価値である。「イイ子にしなさい」というのはそういう意味である。

基準が変われば善悪も変わる。正に、かつて経済学者・レオンティエフが言ったという

Only result comes.

私たちが目にするのは、(何かのプロセスの)結果のみである。既に実現した結果が悪であると認識することにヒトは耐えられないものだ。必ず目の前の現実には合理性があると考えるようになるし、何度も投稿しているようにそう考えるのが正しいと小生も思う。かくして善悪という価値判断も逆転することが時に起きる ― これまた余りに別の話題なので論じるのは改めて。

コンプライアントではない(?)人物が注目されるのは、今後の日本で《創造的破壊=イノベーション》が起きる前兆かもしれない。少なくとも、今の世間は「イイ子」などを本当は求めていない。そう思うと、日本もまだまだ捨てたものではない。


【加筆修正:2024-07-14】

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