2024年7月9日火曜日

断想: 一様かつ均質に混ざり合うかどうかの問題?

例えばこんな議論をみることがある。

世界には男と女がほぼ同数存在するわけで、生来の能力に違いがあるわけではない以上、何も人為的制約を加えなければ、どの学校、どの職業、どの区域にも、男性と女性がほぼ同数いるはずなンです。

極めて理に適った「立論」である。このロジックによれば、現実に男女比率が50パーセントと有意に異なる場があるとすれば、その違いは何らかの制約、つまり「性差別」によってもたらされている。こういう思考になる。

ロジックは通っている。しかし、古来、ロジックが通っているからと言って、その認識が真でなかった例は山ほどある ― 中世の神学を瞥見したまえ。あれほど論理が透徹した学問はない。真理か否かはともかくとして。

論理が一貫している現実認識は、哲学と宗教を別とすれば、本来はすべて「科学的仮説」に過ぎない。

男女の違いが習慣的な意識だけによるものなら、実質は両性で均質であることになる。もし実質によらない意識だけの違いなら、男女の区別も偶発的であるはずで、具体的な発現は《対称性》をもつだろう。例えば、「一夫多妻制」が慣習化されていた国や時代があったのだから、逆の《一妻多夫制》も理屈で言えばあってよい。どちらも均質なのだから。

しかし、小生の勉強不足もあるが、後者の例はあまり見聞することがない。

その理由は、ほぼ明らかで「婚姻」という制度は、男女の愛を制度化するものではなく、子孫や家族を制度化するものだからだ、というのは歴史学派の経済学者として著名なウェルナー・ゾンバルトが『恋愛と贅沢と資本主義』でも強調している点である。

つまり

母親が誰であるかは自明であるが、父親が誰であるかは自明ではない。

なので、男性が後宮(=ハーレム)を形成して、自分以外の男性との没交渉を強制的に実現できれば、後宮にいる女性が生む子供の両親は直ちに確定する。

両親が、父親と母親とも確実であることは、人の社会生活において、一見するより遥かに重要な事柄である。

もし、反対に「一妻多夫制」の下で、女王が多数の男性からなる「逆ハーレム」を形成したとして、自分が子を出産するとする。この場合、母親は自明だが、父親が誰であるかは(女王自身にも)不明であろう。

男性ハーレムが全体として共同父権を有すると立法することは可能だが、おそらく機能しない。男性相互で排除しあう動機が生まれ、最後に残った男性が真の父であるかどうかは不明のままである以上、正統性が保証されないからである。

マア、この辺の事情も「DNA鑑定」が普及した現代では、かなり陳腐化した議論になった。でも「DNA鑑定」をして父親捜しをするなんてネエ……という感性は残ることでありましょう。そんな辟易する感性こそ「男性中心社会」の古いモラル感の痕跡であるとされる時代が果たして来るのかどうか、これはもう小生には分かりませぬ。

ただマア、こうした簡単な思考実験からも言えると思うが、男性と女性は単なる外形の違いを超えて、人類社会の中で異なった位置にいる。すべての性差を否定して、男性と女性を抽象的な一人ずつの均質な人格として認識するのは、法的概念としては可能だが、それは経済学の完全競争市場と同じで、学問的概念として存在するわけだ。人間社会の現実と法的モデルの違いは必ず残る。その残りの部分が無視できない程に大きい場合は、理論モデルと現実との違いを説明し、理解するための学問的努力が要る。理解するとは、合理性をそこに認めるということだ。

小生は「ミソジニスト」ではないが、自然や社会を操作しようとする学問は、すべて経験的実証に基づく科学であるべきだとは、思っている。

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