旧友が亡くなった。小生とちょうど同じころに小役人を辞めて大学に戻ったので、似たような道を歩く同志というか、気になる人物ではあり続けた人だ。ただ、その友人は関西の旧帝大に職を得たのに対して、小生は北海道にある小規模な大学に移った所が違っていた。また、小生は市場メカニズムの効率性や創造性を活用するのが経済運営の第一歩だと思うし、政府の失敗は酷いものだと思っている。友人は、自己利益に支配される市場経済の醜さを嫌悪し、利益とは別の人間愛に基づく「ノンプロフィット・エコノミー」を信奉する公共政策重視の立場にいたので、友人と小生はイデオロギーとしては真逆の立場にいた。それでも、その友人にミゼラブルな人生を送ってほしくはないという感情がずっとあったから、人間交際というのは実に不思議なところがある。
そんな友人、ここではY君と呼んでおこうか、Y君の思い出を本ブログでも記録しておこうと思うのだが、実は「旧友」と云うものの、Y君について、自分はどれほど多くの事を知っていたのだろうと振り返ってみると、改めて自分の無知に驚いているのだ。若い頃には多くの時間を会話し、数人の仲間も含めた「英会話研修」の帰途、とある喫茶店で経済学上の論争に長々と時間を費やしながら、興じあった事もあった。数多くの飲み会やハイキングもあった(ような気がする)。二人で小笠原の父島まで船旅をしたこともあった。小生がカミさんと結婚した時には披露宴の司会をやってもらった。青春の貴重な思い出である。かといって、その友人が何を願いながら生きて来たのか、何が希望であったのか、どんなことに悩んでいたのか、小生のことを本当はどう思っていたのかも含めて、自分はほとんど何も知っていない。
ただ今でも忘れられない「出来事」というのはあった。若い頃の友情が、友情というべきものが最初にはあったとしてだが、ずっと続いたわけではない。だから、記録だけはしておきたい。しかし、整理したい。そんな感覚がある。思い出話を書くのはまだ早いようだ。
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それで今朝もいま世間で物議をかもしている「サンデーモーニング(=サンモニ)」を途中から視たのだが、終わってからネットを眺めているとYahooにこんな記事があった。
浜田氏はこれらの点を受け「私たちは、トランプ氏は非常に特殊で過激な政治家で、『彼が大統領になっている間は、まあ、いろいろ仕方ないよね』って、そんな感じで見ていたと思うのが、完全に共和党はトランプの党になってしまって、アメリカの友人に聞くと、『仮にトランプが当選したら、4年間はもう仕方ない。次にかけるんだ』ということも言うんですけれども、その4年で終わらない可能性が出て来たなと思います」と指摘。「それはやっぱり、副大統領候補のバンス氏を指名したということで、やっぱりネクストトランプという世代が出てきてしまって、自国第一主義であったり、排他的であったり、労働者の味方と言いながら大企業や富裕層を優遇するというような、こういった政権がもしかしたら当分続く可能性がある、ということが、今回の党大会で非常に感じたことです」と語った。
URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/af1705853528e538b10003295e2bd6689f7c25b7
そういえば、今日は浜田敬子さんが出演していたかナアと思いつつ読んだのが上の記事だ。
ただ、どうなんでしょう……。これって、
私もそうなんですが、私の友人もトランプ嫌いなンです
一言、これだけを語れば必要かつ十分でしょう。そう思います。言は簡潔を要す。多弁宜しからず、と感じます。
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トランプ候補が主張している政策綱領や政治姿勢には大いに問題があるのだろうが、視聴者が聴きたいのは、それでも共和党が「トランプの党」になっているのは何故か?『4年間はもう仕方がない』と思う人はいるでしょう、それでも、いま「ほぼトラ」から「確トラ」にアメリカ社会がなりつつある、それは何故か?
最初からオーディエンスに「へつらう」、イヤイヤ「楽しませる」のを目的とする娯楽ならいざしらず、社会を語るとき、万人にとって有益な議論はただ一つ。<因果分析>だけである。万人に意味をもつ有効な問いかけは<Why?>だけである 。「何故?」を積み重ねることだけに意味が生まれる― これさえも立場によっては議論が分かれるだろうが。「どう思うか?」などを語って、単なる「所感」を無料の公共の電波に乗せても、それは(日本語空間なら)1億分の1の意味しかない「感想」ではないか。
つまり
公共のメディアの出演者から聴きたいのは、<事実か、フェイクか>、事実ならば<Why?>に対する意見であって、「好きか、嫌いか」、「いいか、悪いか」という感想ではない。感想ならば読者、視聴者の一人一人が自分の感想をもっている。いくらメディアでも「好きだ」、「嫌いだ」という感想を上から目線で話して、「あなたは間違っています」とばかりに否定しないでもらいたい。画面(紙面)の向こうにいる個人、個人の感想は感想としてリスペクトするべきだ。
小生としては、こう言いたいところでゴザンス。
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