2024年7月5日金曜日

断想: 「親がちゃ」が訴えているメッセージは何だろう?

世間や身の回りが何だか騒がしい時は、ロイド・ウェバーの"Jesus Christ Superstar"を愛聴するのが習慣になっていたのだが、最近になってまた久しぶりに聴き直している。どうもそんな世相なのだ、な。

Youtubeには20周年を記念したロンドン・キャスト版がアップされているし、手元には1973年の映画版サウンドトラックCDもある。が、劇団四季のジャポネスク版も中々イイと思っていて、再生リストをYoutubeで探しているのだが、見つかっていない。

その日本語版でユダが歌う『スーパースター』だが、歌詞がまたイイわけだ。中に

〽私は理解ができなイ~

〽大きな事をしなければア~

〽こんなにならずにすんだのに

〽時代も所も悪かったア~

〽 今なら世界も動かせエたア~

〽 昔のイスラエルじゃ テレビもないしサ 

自死したユダの亡霊がロック調で絶唱する舞台は、まさに最高で、日本文化とイギリス発のロック・ミュージカルの相性の良さは驚くほどであった。

この『時代も所も悪かったア~』を現代日本語で言い直すなら、

〽親がちゃ、国がッちゃア、時代がちゃア~ 

響きは悪いが、こんな辺りになるであろう。

想うに、その人の人生を幸福なモノにするか、不幸なモノにするかで決定的な要因は、文句なく《国と時代》であって、誰が親であるかはずっと小さなウェイトしか占めないと思っている。

考えても見たまえ。今の日本で最低の親に育てられているために不幸のどん底にいる児童がいる。いま中東のガザで暮らしているパレスチナの児童も不幸であるに違いない。では不幸な児童がより頻繁に見られるのはどちらだろうか?酷い親というのは、どこの国でも、いつの時代でも、いるものである。決定的なのは、育った時代と国である。戦中の日本で召集された神風特攻隊員が御国のために喜んで死んでいったとは思えない。

ガザやウクライナ、日本の特攻といった極端な例をとるまでもない。世界の大半を占めるグローバルサウスで生きている児童と、日本の少年少女と、どちらが大きな人生のチャンスを身の回りで提供されているだろうか?

小生が大学で見聞した職業知識など極めて狭い範囲に限られたものでしかないが、1円も支払うことなく3人の兄弟が大学に入学し、順調に4年間の修業を終えて、良い会社に就職したことがあった。なぜなら、この兄弟はすべて「授業料全額免除(全免)」の対象者になったからだ。家計状況が理由である。小生が勤務した大学では、(確か)全免対象者が(資料は手元に保管しておらず曖昧な記憶に頼るしかないが)5%か、ひょっとすると10%弱ほどいたのではないか。「授業料半額免除(半免)」となると、全学生の25%から30%ほどは該当していなかったかと思う ― 記憶違いかもしれないが、大きくは間違っていないと思う。とにかく、こんなに認定されるのかと、感じ入ったものである。

国内の大学の就学環境は、小生が視てきた限り、「親がちゃ」をそれ程なげくほどには、不公平かつ劣悪なものではなかった。貧困世帯を支援する就学措置も(十分にというには判断基準作りがまた必要だが)提供されていた ― 必要十分かどうかは別の話しになる。こんな感想が一寸あるのだ。

もちろん勉強について行けず、最長修業年限である8年を超えたため、退学を余儀なくされた学生は、ゼロではなかった。留年をして授業料免除が打ち切られる学生も少なからずいるものだ。しかし、制度として就学を支援する制度は(小生の感想では)機能していたと思う。

全世帯で平均した『家計調査』などでは、教育費の高騰が家計を圧迫しているのは事実だ。しかし、地方圏では公立学校が今も圧倒的に主流で、国立大学も(医学部を除けば)それほど激烈な競争にさらされているわけではない。

こういった事情に目を向ければ、「イイ大学に入るには塾やお稽古ごとにお金が要るんです」という訴えが嘘であるとは言わないが、これが全国向けにテレビ電波にのって放送されると、「それはちょっと違うんじゃないかナア、それって東京の話しでしょ」と感じる時も多い ― 地方でピアノを稽古しながら大都市の師匠に通う少年少女がいるのも事実だが、絶対人数で大きな集団ではないと推測する。


大体、こうした話しは、《東京一極集中》、というか《大都市志向》の副産物としての一面をもつのではないか。正直、そう思うことは多い。むしろ

なぜ東京一極集中が進むのか?

この原因分析の方が求められている。

大雑把な憶測だが、地方圏が生産する商品は多くが競争価格で取引されているが、一方(特に)東京圏では、《寡占企業の本社》や《開業規制》で保護されているサービス産業が多く、ここから発生する独占レントが高賃金をもたらす。故に人が集まり高密度化する。消費社会が形成される。それがまた人を集め周辺社会が形成される。が、ここで集まる人が従事する活動は生産性、収益性とも低い。大都市経済の生産性向上の停滞も中枢部門に対する競争圧力が弱いことの現れだろう、と。そんなアタリを付けている。

マ、一つの仮説的想像に過ぎない。検証するとなると面倒そうなのでメモしておく次第。

明治が自主独立・立身出世の時代であったとすれば、大正はデモクラシー、昭和は戦前が財閥批判と国民総動員、戦後は一億総中流とド根性。平成は失われた30年。

それぞれの時代には《時代精神》を表現する適切な言葉を思いつくものだ。

明治・大正・昭和は歴史の彼方に去った。平成が終わって6年目になった。これらの過ぎ去った時代を支えていた理念と価値観は、いまは「昭和じゃあるまいし」の一言で否定されるようになった。


では令和の時代精神は何だろうか?

何だか霧の向こうにあるようだが、まだ見えないと思うのは、小生だけだろうか?

平成という時代は、過剰に保守的であったが、前時代の経済政策の誤りのツケと苦闘した30年でもあった。何もしなかった30年ではなかったが、多分、やり方がまずかったのだ。何らかの専門的学識の不足があったのだろうが、未解決課題というツケを令和に残し、一方で獲得した獲物は少なく、失うものが多かった。


令和という時代は、何だか《ボヤキと不満の時代》であるような印象がある。同じデモクラシーでも、大正には命をかけた民衆運動があった。権力から弾圧されても共産主義運動に立ち上がる根性が昭和前期にはあった。この非合理性が正に「昭和的」である。

共産主義という思想の本質的欠陥はともかくとして理想があったわけだ。理想は厳しい現実の前では捨てざるを得ない、というのが「親がちゃ」という言葉が伝えているメッセージなのだろうか?

確かに、みんなでユダになれば、損を避け、得をとる考え方で相互理解できる。そうなればイエスも救済も必要ではない。自分が死ねば無になるから、引き継ぐものはないし、将来の世界に関心を持ちよう筈がない。老後の貯蓄と社会保障を信頼すればだが、子供という次世代は作らない方が自分としては経済的だ。夫婦というキャンセル条件付き終身契約ではなく、スポットで選択肢を確保しながら交際する方式が主になるだろう。

実に現実的ではないか。理想は要るかと言えば、そもそも要らないモノである。

【加筆修正:20254-08-27】


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