2024年10月13日日曜日

断想:浄土思想からキリスト教の世界観、さらには民主主義に思いが至って……

先日にもふれた「五重相伝」を満行して、今日はヤレヤレとした感じで怠惰を貪っているところだ。

ネットにも体験談が幾つかアップされていて、大半は「受けて良かった」というもので、小生自身にもそれが当てはまっているから、我ながら変人至極というわけでもないと安心している。

正伝法については前伝、後伝ともオンラインの「浄土宗大辞典」にあるから、その場では内容をメモしないようにと説明があったが、概略は秘密ではないのだろう。例えば、前伝である「要偈道場」は次のように概説されている:

灌頂洒水・伝巻伝授—受者は教授師に従い、釈尊前に一拝し、白道を踏んで本尊前に進む。その間は一唱一下の念仏を唱える。白道上で灌頂洒水と伝巻頂戴の儀を受ける。左脇師は灌頂洒水を行い、受者は低頭合掌して受ける。この間、低声念仏する。右脇師は伝授作法をする。偈文は省略し念仏中に授ける。受者は両手で頂戴する。つぎに本尊前に一拝して退堂する。

Source: 浄土宗大辞典 

白道とは、(浄土真宗では重用していないと推測するが)「二河白道」の白道のことで、矛盾に満ちた人間の生と浮世の本質をイメージ化した話しである。絵画としては、どれも同じ構図になっていると思うが、例えば奈良国立博物館所蔵の作品がみられる。

要点は、炎のような「怒り」と激流のような食欲、物欲、性欲、名誉欲、権力欲、知識欲等々の様々な「欲望」が自らの心をこがす中で、いかにして落ち着いた平穏な生を送ればよいのかという問いかけにある。

浄土宗は、周知のように「他力」思想に基づく救済宗教である。阿弥陀如来を「南無阿弥陀仏」とその名を声に発して呼ぶことで苦から解放される浄土へと逝ける。阿弥陀如来は、我が名を呼ぶ声に応じて呼ぶ人を救済するわけである。浄土宗の全体はこんな世界観で一貫していると小生は理解している ― この答え方の評点がどうなるかは分からないが。

ちなみに、親鸞の浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と声を発して呼ぶ行為よりも阿弥陀如来による救済を堅く信ずるという心の中の信仰の強さを強調する。つまり、浄土宗では「十念」とか、「念仏一会」のように、何百、何千、何万回と反復して念仏を唱える行為を通して、阿弥陀如来が念仏の声に応じると考えるのだが、浄土真宗ではそうではない。この辺り、どちらが信仰として純粋かという議論がなお続いているようだがここでは掘り下げない。

なお、小生は『歎異抄』が大好きである。悪行を重ねる悪人こそ業と汚辱にまみれ、時に苦悩し、苛立つ憐れむべき存在であって、阿弥陀如来はそういう者をこそ優先して救うのであるという悪人正機説は、大乗的な他力思想の精髄であると思う。が、好きではあるのだが、現世(=穢土)から来世(=浄土)へと通じる道は、怒りや欲望に満ちた空間に細く通じている一本の白い道のみであるとする浄土宗の世界観もまた好きなのだ。人が自分の生を生きる人生の真実はこちらの方がより近しいと思っている。

翻って、キリスト教の『新約聖書』には次のような下りがある。

13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

Source:新約聖書「マタイによる福音書」第7章、第13~14節

URL:https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/nt/matt/7?lang=jpn

「二河白道」の白道を歩んで浄土に達することが出来る者は、ただ阿弥陀如来が声に応ずるものと確信して、念仏の声を発し続け、怒りや欲望に落ちるとも再び白道に立ち戻る人間のみである。この認識と、救いに至る道に入る門はそもそも「狭き門」であり、門をくぐってから続く道は「細い」というキリスト教的世界観、人間観には、重なるところがある。

遠く離れた地で形成された宗教思想が、その世界観で共有する一面をもっている。直観的にそんな認識が形成されている。小生は、空海の「両部不二」とも言えるような世界観を持つようになったことは本ブログにも何度か投稿している。とすれば、この宇宙、もしくは138億光年の果ての「宇宙の地平線」を超えた彼方かもしれないが、宗教的救済という概念に対応する実在がどこかにある、と。こう推量しているわけだ ― もちろん「推量」ではダメで、「確信」でなければ文字通りの「信仰」にはならないわけであるが。

話題はまったく別になるが、上の話しと「民主主義」との関連をつい考えてしまうのだ。


大多数の人間が「滅びの道」を選び、様々の欲望に従い、怒りに我を忘れるのが現実である世界において、全ての住民の投票によって統治者を選ぶというのは、どういう社会哲学に立っているのだろうか?


民主主義思想は、ヨーロッパ近代の社会を前提にして生まれた ― 古代ギリシアの民主主義社会では平等で兵役の義務を負う市民と兵役の義務なき奴隷という階層区分があった。

新教徒抑圧を忌避してメイフラワー号に乗って自由なアメリカに移住した英国の清教徒達(Pilgrim Fathers)は、世間に順応するための改宗を拒否し、いわば「狭き門」から入り、「細き道」を歩もうと決意した人々であったのだろう。このような人々から始まる社会は、民主主義思想を受け入れる基盤を持つ社会になりうる。

フランス革命は(神ではなく)理性に基盤を置く啓蒙思想から生まれた文化大革命であった。伝統の中にはカトリック教会も含まれていた。教会が代弁する「神の声」よりは、すべての人間に平等に与えられている(はずの)「理性の声」に信頼を置く社会観に立てば、確かに民主主義は肯定されるという理屈になる。こんな社会であれば、初等教育から高等教育まで、どんな市民を育てればよいかという結論は容易に合意されるであろう。


自らを律する精神的基盤を共有することなく、天然自然の人間が生まれながらに持つ欲望と怒りの感情を肯定する社会で、近代ヨーロッパの民主主義思想は、本当に受け入れられるのだろうか?社会がくれるというものはもらい、社会に納めるべきものは納めたくない、そんな凡夫の感情が支配する民主主義社会にしかならないのではないか?というより、現になっているのではないか?そして為すべきことが為せない民主主義社会にしかなれない。同じ「民主主義」の名称で呼ぶにしても、発祥の地とは異質の民主主義社会になるのではないだろうか?

ここまで書いて来ると、日本文化発展史における仏教と神道の関係について、考えたくなる。

宗教文化史にも国学にも小生は専門外だ。が、以下の印象をもっている。

日本古来の神道を大乗仏教の思想に吸収して理解する「本地垂迹説」は、奈良時代以来の日本の伝統文化となった。それを否定した点では、明治維新が政治体制としてはともかく、日本史を通じて稀に見るほどに破壊的な文化大革命であったことが分かる。 

神仏分離令が施行された後、廃仏毀釈運動により多くの文化財を亡くしたことに止まらず、一般国民の間に「神州日本」という気風が広まり、さらに「国体護持」という政治路線の正当を大半の日本人が信じ、最後には破滅的な結果をもたらした明治的理念は、敗戦を機にいったん否定されたはずだ。 

が、日本人の心理的な深部は、そのまま文化の核心にもなって、戦後は戦後で戦後風の色合いに染まりつつ、いまでも戦前期そのままに継承されて、堅く守られているところがある(と感じる時が多い)。日本人の社会観や人間観、倫理観が、貧しく、痩せたものになる過程は、戦前期にも進行していたが、同じプロセスは戦後になっても進み続けている。これが小生の歴史観である ― もう今さら元には戻せないが。

そもそも仏教には「一切衆生」という思想が根本にある。それに対して、神道では清らかで曇りなき心、これを「大和心」と言ってよいと思うが、そんな純粋な清明を重んじる。国家神道が戦前の対外侵略を精神的に支えたことは自明だ(と観ている)。 

であるので、江戸以前と明治以後を分ける境界で、日本文化発展史における大きな断層が生じたと考えておくべきだ。この時期を境に、日本人の道徳観、人生観、自然観、社会観、国家観は一変した。

なお、西洋文明の流入をどう見るかという論点がある。この変化は、明治維新で始まったのではなく、幕末の開国によって始まった変化である ― それ以前にも長崎のオランダ商館を通して入って来てはいたが。

なるほど幕末の開国も日本社会の色々な面に破壊的影響をもたらした。とはいえ、それが日本人の精神や気風(=エートス)を本質的に変えたのか、それとも表層的な変化だけを与えたのか、これを検証するのはライフテーマになるほどの問題だ。


書き過ぎかネエ…過激かネエ…、思想史や文化史はともかく、明治維新の創造性と破壊性についてまとまった議論を聞くことが一般にあまりないのは、驚きものだと思っている。全面肯定か、全面否定の二択問題ではないでしょうに。

であるから、よく言われる「岩盤保守」という言葉だが、この「保守」とは、何を指して日本の伝統と言っているのか。ここは厳格に二分化して正確に認識する方がよい。

残念ながら、これが今日この頃の心境であります。

後半はとりとめのない雑談になってしまった。一応メモしておく次第。

【加筆修正:2024-10-14】



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