2024年10月21日月曜日

断想: これも「斜陽・日本」の現れなのか?

仕事に費やする時間は、ある年齢を過ぎると、次第に減少してくる。体力、集中力に限界を感じ始めるし、結果を出すまでに予想される時間が次第に足りなくなってくるので、新規に始める仕事が小粒になるからだ。もちろん手足になってくれる多数の部下に恵まれる企業経営者は話が別だろう。

仕事に投入する時間が減れば、それ以外の時間が増え、若い時分から読むのを我慢してきた大部の本の読書や、最小限の時間消費に抑えてきた趣味活動をしたりする。そして、傍らではTV画面がある。そんな時間が多くなる。

気の付いたこと。

一番組当たりに投入されている出演者数が非常に増えてきている感覚がある。特に「ニュース番組」はアナウンサーが2人か3人、現場に出演するコメンテーター、リポーターの員数も数人いることが多い。以前はニュースキャスターは一人。アシスタント的なサブが一人いることもあったが大半は一人のMCが伝え、コメンテーターなどはいなかった…、そんな記憶がある。バラエティ番組も最近は出演者数が非常に多い。

要するに、一番組当たりの出演者が増えていると思うのだが、一方で番組当たりの収入は増えているのだろうか?


ミクロ経済学の基本には利潤最大化の必要条件として《限界原理》というのがある。これに沿って考えると、番組出演者を一人削減した時のコスト節減とそうした場合の収入減少を比べて、もしコスト節減額が大きければ、出演者を減らすほうが良いという判断になる。

思うに、民放TV各局の人的資源投入は過大で利潤最大化条件を満たしていないのではないかと感じるのだ、な。

にも拘わらず、出演者数を増やし、資本集約的な番組編成上のイノベーション追求に消極的であるような印象があるのは、「出演者」という人的資源供給サイドが供給過剰に陥っている。換言すると

TV業界(及び報道業界も?)は、最近では珍しい「人手過剰産業」ではないか?

こんな疑問をもつようになっている。

個人情報保護、政治的中立性、安全保障上の要求等々、メディア活動への有形無形の規制がアウトプットを押さえている面もあるのだろうとは思う。

が、こうした面もひっくるめて要するに、TVメディア華やかなりし時代から引き継いだ「関係者集団」の相互扶助的な業務をいま継続しているのではないか、と。

何だか、そんな印象を感じ、客の減った老舗温泉宿のような哀愁を感じさせるのだ。これまで頑張って来た人達にも、

その人たちの人生ってものがあるでしょう

こう言われれば、そうですヨネエ、としか言いようがないのが日本人の国民性かもしれない。義理(=理屈)と人情(=同情)との板挟みは日本人が大好きな舞台設定でもある。


どの産業にあっても状況は大同小異で、「何とかしたい」という現場の思いと、「何ともできない」という客観的状況のせめぎ合いで ― このせめぎ合いを放置する無能ぶりにこそ日本の中枢部門の特質が窺われるのだが ― 、結果としては経済資源の再配分が円滑に進められない。《硬直化》・・・、そんな日本社会の弱点が「視える化」されている。

昭和30年から40年代の日本は、まだ若く、新産業への挑戦精神も旺盛だった。動脈硬化と俊敏性の低下は、年齢がまねく最近の小生の健康ぶりだけにしてほしいものだ。


・・・こんな風に感じる今日この頃であります。

【加筆修正:2024-10-22】


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