2024年10月4日金曜日

断想: 自分自身の来世での救済を願うのは利己主義なのか?

早朝、生ごみをゴミ・ステーションに出そうと坂を下りながら考えた……というと、漱石の小説のようだが、山道とは違ってそれほど時間がかかったわけではない。

法然や親鸞の他力信仰では(善ではなく)悪にまみれた自分の来世における救済を願って阿弥陀如来に祈るわけである。

要するに、自分が助かるために祈るわけですヨネ。他の人たちはどうなるんですか?自分が救済されればイイんですか?自分勝手ですヨネ。

と。こんな質問があっても、決して愚問ではない。

親鸞になると

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。

とまで『歎異抄』の第5章では話している。自分勝手な利己主義にならないかと質問する人がいるとしても、その人は決してバカではない。


現代は(特に欧米では?)「理屈」の文化が支配的だ。前にも投稿したようにラッセルの分類によれば、理性で到達できる結論は科学と哲学のみにある。科学で未知の事柄については、哲学的なロジックを展開して何とか結論を出している。

が、理屈による合理的議論は直観による宗教的認識とは融け合わない。科学、哲学、宗教は、人類が有する「知」の三つの領域を為している、というBertrand Russelの方法に小生も賛成している。難解な哲学用語にあふれる哲学書を理解すれば、阿弥陀信仰の直観的受け入れや禅における悟りを超える真理にまで到達できるのか?極めて疑問だろう。人間の理性や理屈には(今後もほぼ恒久的に)越えがたい限界がある、というのが小生の立場である。

それに最近では、西洋流の物質と精神とを分ける世界観より、物質と精神は不可分であると考える立場をとりたいと考えている。まるでヘーゲルのようだが、別にヘーゲル哲学にかぶれたという自意識はない。このテーマは前にも投稿したことがある。だから、たとえ直観的認識であっても、現にそのような概念を言葉にして議論している以上、その言葉で指している存在はある、と。こういうロジックは否定しがたいと考えているのだ。


以上は断り書きだ。

話しを戻そう。

親鸞の立場が単純な利己主義ではないことは、この後の下りを読むと伝わってくることだ。

そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父 母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ 候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

以上を現代日本語に訳すと、以下の様である。

 この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも称えたことは、いまだかつてないのです。  

なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。

そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。

それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。

ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。

Source:「歎異抄」入門講座 

URL: https://xn--6quo9qmwi.com/gendaigo.html#section5


このような認識には『私は正しい』という主張、というか思想はまったく含まれていない。自分自身は悪であるという認識から出発し、であるが故に、現世では懺悔と悔恨があるのみで、善行など積みようがない。来世において仏性を得てはじめて両親といわず、一切衆生の救済に力を尽くせる。ここに他力信仰という直観的理解がありうる……両親の追福を願って回向をするのは自分の考えに拘っているからで、それが自分の心を平穏にするからである。しかしこれこそ自力作善(≒自らの力で善を為す)の考えで、自分は善を為しているから救われる資格があるとする自力救済の立場に立つことを意味する。しかし悪にまみれている人間存在に自力救済はできないのだ……救うことができるのは阿弥陀如来だけである ― これほど徹底している人は稀だと思うし、この辺り、究極の悲観論であるキリスト教ジャンセニズムに似ているかもしれない。

だからこそ、日常的な勤行は

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴

従身語意之所生 一切我今皆懴悔

このように、自らの悪業を懺悔する懺悔偈 (さんげげ)から、南無阿弥陀仏の十念を始めるわけである。

継承してきた浄土宗と親鸞の浄土真宗とは基本理念が多少異なる様だが、大略、以上のような理解でよいのだろうと思っている。

来週は浄土宗の五重相伝がある。東京・芝の増上寺などでは結構高額の参加費を求められているが、月々のお布施や護持会費を納めているせいか、思いの外の低額で驚いている。

【加筆修正:2024-10-05】


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