2025年2月28日金曜日

ホンノ寸評: 日本伝統のイイとこ取りの発想で行き詰っているのかも?

2月最後の投稿は寸言だけ。

最近、この日本で暮らしている人たちは

増税が話題のときは、政府不信の無政府主義者

授業料無償化、医療費補助、少子化になると、国の役割を重視する社会主義者

政府のあり方について話すときは民主主義者

大企業を語るときは、独占排除、競争促進の自由経済論者

中小企業の経営苦をみるときは、公的支援を主張する積極的介入論者 

といった具合に、何を話すかで色々な《イデオロギー》を使い分けている、一言でいうと《イイとこ取り》で国や制度と自分の生活とを関係づけている(という印象を受けてます)。


日本社会を造ったときの柱や梁、屋根、壁といった基礎部分が、古くなり、互いに整合しなくなり、つぎはぎを繰り返している内に、スパゲッティ化して絡み合い、もつれあい、もう日本人自らも合理的な建て替えができない ― 散らかり放題の中で平気で暮らしている人たちの低い知性を物語っているようで実に恥ずかしいのだが。まるでモンスターのような複雑怪奇な法制度・文明の国になっている……、そんな感覚がする……、これは小生だけだろうか?

マア、「だけ」なのかもしれないネエ。


2025年2月24日月曜日

ホンノ一言: 「共通の見方」をこそ疑うべきだという一例

トランプ米政権のスタートを契機に、ロシア=ウクライナ戦争停戦への道筋が見えてきたというので、大仰にいえば世間は《騒然》としている。

どうもこんな世情を見聞きするにつけ、日露戦争を知らなかったという日本の天文学者に、たまらなく羨ましさを感じる。

先日も投稿したように、新聞、TVについては基本的に《情報絶ち》をして、それなりに快適なのだが、ネット・アクセスを遮断するわけには中々いかない。どうしても情報の断片は視野に入って来るのだ。


こんな断片もあった:

国際社会は外交と制裁を駆使し、ロシアのプーチン大統領による「力による現状変更」を阻止しようとしてきたが、戦況はロシア優位に傾いている。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original: JIJI.COM

Date: 2/24(月) 0:46配信

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/1c42f042d27ba64824eb46bc6938632e82fe40df

この文中にある「国際社会は外交と制裁を駆使」という所だが、何も国際社会が一致して対ロシア制裁をしているわけではない。多数派ですらない。間違った事実認識だ。「少なくとも価値観を共有する西側社会は……」とでも言い直すべきところだろう。

自らが立脚する立場を無条件に肯定して、その前提には何も触れることなく、特定の判断を押し付ける報道は、《自省とは無縁の独断》というもので、もう卒業してもいいのではないだろうか?


真っ赤な嘘を嘘と知るのは簡単だ。しかし、本当らしく語られる意見が嘘であると見破るのは難しい。語る本人がそう思っているならなおさらだ。

社会が混乱する時代には、その昔、古代ギリシアの哲学者プラトンが《ドクサ》(=勘違い、思惑、独断、etc.)と呼んだ、こうした言説が広まるものである。

《多数者の見方を否定》することが出来る人、《真理》を語る人は、いつの時代でも少数である。ソクラテスはただ独りしかいなかった。少数の人が語ることに耳を傾けることこそ重要であるのが現代という時代だ。


2025年2月23日日曜日

断想: 自らが、自らに対して悪戦苦闘を強いるのは、パワハラではない

今日は月参りで近くの寺から住職がやってきて読経をして帰る。帰りしなには、拙宅が属する浄土系宗派の発行している新聞を置いて帰る。

その中の記事にこんな下りがあった:

授業で学んで以来、心に刻んでいる言葉がある。それは「一丈の堀を飛び越えようと思う人は、一丈五尺の堀を飛び越えようと思って励まなければならない」という法然上人の教えだ。

努力に努力を重ねて、自分の力で、未来を切り開いていくしかない。だから、私は悪戦苦闘という言葉が好きです。

NHKで放映されているアニメ『忍たま乱太郎』の原作・『落第忍者乱太郎』の作者である尼子騒兵衛の寄稿である。

何だかゲーテの名句

知恵は静寂の中で、力は激流の中で

を連想させる。


一丈の堀を超えるのを目的にしている選手に

一丈五尺の堀を超える練習をしろ

と。師の立場を利用して、弟子にこんな風な命令をすれば、弟子からパワハラだと訴えられて、指導者生命を失う師匠が増えているのが、現代日本の世相である。

とはいうものの、この寄稿の主旨は現代日本の世相を嘆くことではない。

先日は、法然上人が暗い夜に灯火がなくても、眼から光を放って読書をされるエピソードをとり上げました。それを覗き見していたお弟子さんに気づかれた法然上人は、『よく勉強なさい』というようなことをおっしゃるのです。覗いていたお弟子さんを叱るのではなく、『勉強しなさい』と優しく言うなんて先生っぽいですよね。土井半助のモデルにさせていただいてよかったなと思いました。

こんな下りも後に続いているので、《良い師匠》というもののイメージを表現したかったのだろうと推察できる。


一丈を超えようとすれば、一丈五尺の練習をする必要がある。それは師には分かっている。しかし、指導される弟子が自らそのことを理解しなければ、強制労働と同じだ。強いられた悪戦苦闘は苦しむ弟子にとってパワハラである。

しかし、自分の意志で自分に課するのであれば、同じ猛練習でもパワハラではない。

なぜこの練習が必要かという理解の代わりに、ただただ師を信じるという《信》であってもよい。とにかく

自分が自分にパワハラをすることは絶対にない

どんな荒行も、ヤル気になればやる。それが向上しようと決意した人間というものだ。名師匠というのは、むしろ弟子が無茶をするのを止めて、怪我無く才能を開花させることを唯一の目標にする人のことを言うのだろう。

一般に「ハラスメント」とは、本質的には、他人の人格の否定という形をとって表れる。

自分の不足する点を自覚し、向上心を感じ、自ら設定した理想を目指して、自らの意志で行う修行は、どれだけ厳しいものであっても、自分の意志のとおりに行為しているので、完全な自由を享受している。故に、ハラスメントの被害者ではありえない。

2025年2月22日土曜日

ホンノ一言: ニューヨーク・ダウ株価が暴落したってネエ・・・

昨日のニューヨーク・ダウ平均が▲748.63ドルと大幅に下落したというので、俄かに先行き不安が高まっている……。少なくともそんな報道である。

今朝の日経も

21日の米株式市場でダウ工業株30種平均は続落し、前日比748ドル(2%)安の4万3428ドルで終えた。下げ幅は2024年12月中旬以来、約2カ月ぶりの大きさとなった。同日発表の米景気指標が想定以上に悪化し、リスク回避の株売りと安全資産とされる米国債への買いが広がった。米金利の低下で日米金利差の縮小が意識され、円買い・ドル売りも加速した。

Source:日本経済新聞

Date:2025年2月22日 5:29 (2025年2月22日 6:29更新)

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFL21E710R20C25A2000000/

このように

米景気指標が想定以上に悪化

これが株価下落の背景だという。

いわゆる《万年悲観派》は、『株は必ず下がるもの』と信じ込んでいるので、株には手を出さない ― その代わりに、宝くじを買ったり、趣味の競馬で馬券を買ったり、釣り道具にカネをかけたりする。そうしたタイプの御仁は「それ見た事か」と思っているかもしれない。

ただネエ・・・

先行指標として小生が愛用している長短金利スプレッドは



URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/us_main_economic_indicators/

このように長期金利上昇によってスプレッドが上がっているが、しかし、そもそもずっと短期高・長期安の逆イールドが続いて来ていた。逆イールドは金融引き締め、景気後退の典型的症状だ。それが長期高・短期安の順イールドに転じてきている。これを悲観的に観なければならない理由を小生は知らない。

実際、アメリカの雇用状況だが「非農業雇用者数の対前月増加数」でみると


URL: 上図と同じ

ずっと継続していた低下トレンドから横ばい、反転と、足元では強めの動きが見てとれる。図は省略するが、失業率も昨年夏以降は、それまでの上昇トレンドが頭打ちに、昨年末からは明確な低下へと基調が変わってきている。

長短金利スプレッドという先行指標は強め、雇用動向という遅行指標も改善への動きを示している。
これで何故に先行き悲観的になるのでしょう?
そう見ています。

実際、アメリカの景気判断の老舗であるThe Conference BoardのLeading Economic Indexが1月分まで公表されているが、
“The US LEI declined in January, reversing most of the gains from the previous two months,” said Justyna Zabinska-La Monica, Senior Manager, Business Cycle Indicators, at The Conference Board. “Consumers’ assessments of future business conditions turned more pessimistic in January, which—alongside fewer weekly hours worked in manufacturing—drove the monthly decline. However, manufacturing orders have almost stabilized after weighing heavily on the Index since 2022, and the yield spread contributed positively for the first time since November 2022. Overall, just four of the LEI’s 10 components were negative in January. In addition, the LEI’s six-month and annual growth rates continued to trend upward, signaling milder obstacles to US economic activity ahead. We currently forecast that real GDP for the US will expand by 2.3% in 2025, with stronger growth in the first half of the year.”

Source:The Conference Board

Updated: Thursday, February 20, 2025 

URL:https://www.conference-board.org/topics/us-leading-indicators

このように解説されている。Google翻訳にかければ
「米国のLEIは1月に下落し、過去2か月間の上昇のほとんどを反転しました」と、コンファレンス・ボードのビジネスサイクル指標担当シニアマネージャー、ジャスティナ・ザビンスカ・ラモニカ氏は述べています。「消費者の将来のビジネス状況に対する評価は1月に悲観的になり、これが製造業の週労働時間の減少と相まって、月次の下落を牽引しました。しかし、2022年以降指数に大きく影響していた製造業の受注はほぼ安定しており、利回り格差は2022年11月以来初めてプラスに寄与しました。全体として、1月のLEIの10の構成要素のうちマイナスだったのはわずか4つでした。さらに、LEIの6か月および年間の成長率は引き続き上昇傾向にあり、今後の米国経済活動に対する障害が軽微になることを示唆しています。現在、米国の実質GDPは2025年に2.3%拡大し、上半期の成長率はより高くなると予測しています。」
和文として少々不自然な箇所もあるが、Googleによる英文和訳の信頼性は高いと評価できる。

要するに、先行きについては強気にみているようだ。

アメリカの国債市場で売りが殺到(→長期金利上昇)して、みな吃驚したというのが実相ではないか。 ← この箇所、勘違いです。以下書き直します。

引用した日経記事にあるように、市場参加者は
リスク回避の株売りと安全資産とされる米国債への買いが広がった。米金利の低下で日米金利差の縮小が意識され、円買い・ドル売りも加速した。
こんな風に行動したようだ。

しかし、上にみたように、景気の先行きについてリスクが高まっている景況ではない。『日米金利差縮小を意識して円買い・ドル売り』とな?ふ~~む、何か吃驚して狼狽している感じだネエ……


戦争に熱心だったバイデン前大統領のあと、トランプ現大統領も家計、企業向けに大規模な減税政策を予定しており、財政赤字拡大・国債増発・長期金利上昇がトレンドとなるであろうことは、既に予想済みである。

景気は良くなるが、金利は上がる ― おそらく物価も。

アメリカ経済のこんな歩みの中の一コマであるのだろう。そう観ています。


2025年2月21日金曜日

断想: 公選法違反の捜査(と判定?)を警察・検察が担当するという体制はありですか?

最近の投稿でも触れているが、民主主義社会の健全な運営は、次第に困難になりつつある時代だと思っている。それが、情報技術上の技術革新とその未成熟にあるのかどうか、まだ明確には分からない。移動や移民の拡大、宗教対立、経済格差拡大、教育の質低下など色々な要因がありうる。

それはともかく、

「政治家」(?)としてブレイク中の石丸伸二氏についてこんなネット記事がある ― ネットとはいえ、既存大手メディアがネット・チャネルで流している記事ではある。

昨年7月の東京都知事選で次点だった石丸伸二・前広島県安芸高田市長(42)は21日、記者会見を開き、決起集会をライブ配信した業者への支払いが公職選挙法違反の疑いがあることについて、「違反の恐れはあると思うが、(業者への)報酬として支払ったとは考えられない」と述べた。

 石丸氏側の説明によると、石丸氏の陣営は知事選投開票2日前の昨年7月5日に決起集会を開催した。集会の模様をライブ配信しようと、陣営幹部が都内の業者に約97万円で発注したが、陣営内から「法令違反になる」との意見が出たため、直前に発注を取り消し、キャンセル料として発注額の全額を支払った。集会当日は業者の代表らがボランティアで配信を行った。

キャンセル料が選挙運動の対価とみなされた場合、車上運動員らを除き選挙運動を原則無報酬と定めた公選法に抵触する可能性が出てくるとみられている。石丸氏は会見で、陣営幹部と業者が LINEライン でやり取りした記録を示し、業者はボランティアで配信を行ったことを改めて強調した。

この問題を巡っては、市民団体が同法違反(買収)容疑での告発状を東京地検に提出している。

Source:読売新聞オンライン

Date:2025/02/21 13:03

URL:https://www.yomiuri.co.jp/national/20250221-OYT1T50066/

いうまでもなく公職選挙法は、民主主義社会の基幹である公職の選挙において、各立候補者の選挙運動が合法であるか違法であるかを判断するための根拠である。

その判定を下すに際して、上の引用文にあるように

……陣営内から「法令違反になる」との意見が出たため、…キャンセル料…を支払った…キャンセル料が選挙運動の対価とみなされた場合、…… 公選法に抵触する可能性が出てくるとみられている。

このように、『〇〇が△△と見なされた場合、公選法に抵触する可能性が出てくる云々』という風に、権力機関が「見なしたり・見なさなかったり」することで、その立候補者の行為が不正であった「可能性」が出てきたり、なかったりする、・・・


こんな不明瞭な判定基準の運用を日本人はなぜ公的権力の裁量に委ねて平気なのでありましょう?小生の好みには全く合いませんが、大半の人はこれがイイと思っているのかな?

しかし、こうした姿勢は

監督する権力機関には性善説を、立候補している民間人には性悪説を

こんなモラル感覚を日本人はもっていることになる。「市民感覚」が薄弱にして希薄であること限りなしとはこのことではないか。


監督する権力機関に性善説をとるのは自由だが、現実には、これとは正反対の選挙例が世界には多いのではないか。日本だけが全くの例外ではないだろう。

また、立候補する民間人は、ホンネでは不正を考えており、統治機関に指導監督されて初めて選挙は清浄化されるのだ、と。日本国民をこう観るのがホントに正しいのだろうか?

日本人の自然な倫理に基づく行動が、法規上「不正」となるよう、そもそも条文がそう書かれている側面はないのだろうか?


むしろ為すべき事は、公権力が恣意的な判定をして、統治側にとって「望ましい状態」を意図的に実現しようとしているのではないかという「疑惑」を払しょくすることである。

統治機構に沿おうとする意図が、例えば「招かれざる人物を排除しようとする一部勢力」という形態をとるのであれば、それこそ昨今の海外事情に似てきている兆候である。

いずれにせよ選挙には、監督する側、立候補する側、これを取り巻く大衆、各方面に不正を犯す動機がある。だから海外では常態化しつつあるが、選挙は不正選挙である疑惑が常にあるというべきだ。故に、その疑惑を払しょくすることが非常に重要になる。


だれが疑惑を払しょくするって?

ジャーナリズムに決まっているでしょう。

なので、上に引用したような記事を読売新聞ともあろう大手マスメディア企業がネットで流すこと自体が、小生にはささやかな驚きであった。

立候補者の不正を疑うなら、告発者の不正をも疑うべきであろう。

公職選挙法そのものが、日本人の自由な政治参加と民意の自然な表れを阻害するものになっていないか。統治機構側の怠慢、というより隠された意図が働いていないか。

まさに眼光紙背に徹する目線が必要なのではないか。

以上、覚え書きまで。



2025年2月20日木曜日

ホンノ一言: ロシア=ウクライナ戦争にも「停戦」が見えてきたいま?

就任後まだ1カ月しか経っていないが、トランプ大統領によるロシア=ウクライナ戦争停戦への働きかけが活発になっている。

ただ、ト大統領の行動・発言は、奇抜。ロ=ウ戦争開戦後の、というより開戦前まで遡って以降現在までの「西側陣営」の理念と取り組みを文字通り「ちゃぶ台返し」するものだから、特にヨーロッパは唖然、困惑しているとも伝えられている ― おそらく退任したバイデン前大統領、ジョンソン元英首相辺りも怒り心頭というところだろう。

この戦争については、勃発直後に本ブログでも投稿しているところで、小生の(個人的)観方は一貫して変わらない。たとえば、こんな風である:

地域紛争は地域紛争として《局地化》しておけば、さして国際的なハレーションを起すことなく、一先ずは終息したに違いなく、ウクライナ発の過激派テロが予想されるにしても、それはモスクワにとっての危機、せいぜいがロシアにとっての危機としてマネージするべき事柄であったろう。

 一つの地域紛争が世界的な危機管理の対象にまで拡大したのは、言うまでもなく西側の軍事同盟であるNATOが(最終結果としては)一致してウクライナを軍事支援したからで、NATOに連なる親米勢力も様々な経済的支援に踏み切ったことによる。

なので、上に引用した投稿では現代世界版《応仁の乱》に例えてもみたわけだ。高尚な大義名分など、口先はともかく、最初からありゃあしませんて・・・

登場する人物構成についても、色々書いている: 

日本はアメリカの同盟国であるせいか、つまり「西軍」のメンバーであるせいか(ネットを含めて)世間の反応は「東軍憎し」で

正義は勝つ!勝たねばならぬ!!

の一色だ。が、本質的には滑稽の一言。要するに

政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

そうそう・・・ウクライナのゼレンスキー大統領。狂言回しの役回りだ。彼もまたホンネで何を考えているか分からない御仁だ。それと常に見え隠れする《イギリス》という世界歴史の黒子役、今回も仕事をしているナアという印象だ。

 ウクライナのゼレンスキー大統領を《狂言回し》にたとえているが、「選挙のことが心配な御仁」という点では、いまそれが口にされ始めていて、気がつけば崖っぷちというところ。イギリスのジョンソン元首相は暗闇に隠居して、それこそ文字通りの《黒子》と相成った。

政治には素人のゼ大統領の反ロ感情を利用して、対ロ戦争へと(手をとらんばかりに?)誘導していった米英の主要人物は今や選挙の洗礼を浴びたり、スキャンダルの沼に沈んだりで、すでに過去の人。とすれば、世のバランスを考えれば、主役のゼ大統領も選挙の洗礼を浴びるべき時が来たようだ。いよいよ「ここが年貢の納め時」ってことでしょうか。

開戦に至るまで、ゼレンスキー大統領にジョンソン元首相はなんと言ったのか?ジョンソン元首相はアメリカのバイデン大統領とどんな話をしていたのか?フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相はどんなふうに脅迫(?)されたのか?等々

小生はこの辺を知りたい。《歴史の秘話》というよりオラル・ヒストリーとして、どこかの国の歴史学者がインタビューをして記録を遺してくれれば、後世の人々が恩恵を享けること極めて大であろう。

今後、心配になるのはゼレンスキー現大統領の身の上、行く末であろう。英米は決して氏を見捨てるべきではあるまい。

2025年2月18日火曜日

ホンノ一言: 米メディア"substack.com"にサブスクしました

先日も投稿したように、Paul KrugmanがThe New York Timesに寄稿してきたコラム記事が昨年末を限りに終了してしまったことを、とても残念に感じていた。他の場所で自らの見解は公表し続けるということだったので、どこかを探索していたのだが、今日 "substack.com" を見つけた。

早速、Krugmanの投稿をサブスクライブした。同時に、彼が推薦するBrad de Long他数名もFollowしておいた ― こっちは全文ではない。毎月700円ほどである。

レディメイドの正解がないように思われる色々な問題をどう考えるか。基本的な社会観に違和感を時に感じるにせよ、というか、だからこそ、一流の専門家の意見は有益だ。それを随時読むことができるのは、それも1000円未満の購読料で読めるのは、普通の市民にとって価値あるリソースだと言うしかない。

英語圏で流通している知的資産の分厚さにはとても敵わない。英語が苦手のときは「Google翻訳」がある。もはや《言葉の壁》はないのである。


日本語文化圏にも歴史を通して蓄積された優れた遺産はあるが、あくまでも「遺産」であって、現世代が創造しつつある活動成果ではない。

今日を生きるには、今日どんな知的成果を出しつつあるかが、決定的である。英語文化圏の活力を見るにつけ淋しくなるのは小生だけではないと思う。


20世紀末まではこんな惨状ではなかったと記憶している。それは町の書店に入って書棚を一覧するだけで感じる。Amazonの日本語書籍を検索しても同じだ。酷いものである、新刊本は。

日本国内の学校教育、出版業界、新聞メディア界のどれもが内部から瓦解しつつあるということなのだろうか?

イチロー外野手、ダルビッシュ投手や大谷選手がMLBで、はたまた三苫選手や久保選手がサッカー界で、八村選手がNBAで、その他多くの人材がスポーツ界では才能を開花させている。これを思うと、現在の日本の知的衰退ぶりは、人材の枯渇では決してなく、制度的・システム的な欠陥によって潜在的な能力が花開いていない。そう考えるべきだろう。

2025年2月16日日曜日

覚え書き: 大方のテレビニュースは「なくとも可」のしろものであったと分かり・・・

先日の投稿で『ブラックボックス・ダイアリーズ』を話題にしたが、既存の大手マスメディアは(小生が視たり聞いている範囲では)「カン無視」を続けている。ところが、どうも此の作品の中の映像使用に関して「法的トラブル」が発生しているようで、ネットでは「事件」として段々と盛り上がってきている。

ドキュメンタリー映画として米国アカデミー賞にノミネートされた日本人初の作品に関わる不祥事であれば、普通なら民放TVがほうっておくはずがない。可笑しいなあ・・・と思って観ているところです。


ネット記事では、(いまのところ)集英社辺りが、映画を作成した伊藤さん側にかなり落ち度があるとか、守秘義務に違反しているとか、人権侵害をも犯している可能性がある、などと、何やら、兵庫県の斎藤知事に対して公選法違反疑惑がその後も報道され続けているのと似たアプローチで、というか(こんな単語はないが)同じ《報道モデル》を駆使して、対象を追っているように観える。

いずれスポーツ新聞や女性週刊誌が続くものと予想される。


外界からみていると、真相がよく分からない。一方は影で、一方の姿だけが見えていて、何やら格闘をしていて、しかし肝心な手足がよく見えない。そんな情景である。

追求する側も、追及される側も、報道をするなら氏名と写真・略歴を公開して、堂々とやりあってほしいものだ。

それが出来ないなら、公開法廷で決着をつければよい。

現代という時代は、尊厳をもって生活している個人が、余りにも簡単に名誉を棄損されたり、生活基盤を奪われたり、一場のドタバタ劇の登場人物に仕立てられたり、世間の興が覚めた後は、そのまま放置されるということが、あまりにも多い。

そもそも人であれ、企業であれ、理由の如何を問わず、契約もせず他人に損失を与えてはならない。損失を被った個人にその損失を受忍する義務はない ― 甘受するなら考えあってのことだろうから他人がとやかく言うべきではない。人の紛争で儲けるのは職業資格をもつ弁護士もしくは弁護士が経営する法律事務所に限るべきで、メディア企業が紛争から利益を享ける資格はない。紛争に関わる業務に第三者として従事するには資格が求められている。

報道が公益に資するというなら、コストのみを計上し、自社利益を含めるべきではない。

戦争を含むあらゆる紛争の報道事業が、プロフィット・センターになるのは、人間として守るべき倫理に反するはずだ。

本日は、この二点を覚え書きにしておきたい。


人に対して損失を正当に与えうるのは憲法・法律で認められた機関だけである。私刑は処罰の対象だ。この大原則を徹底するべきだろう。

戦後日本の民主主義は、《危険な民主主義》に劣化してしまったようだ。

特効薬は限られるが二つは直ぐに思いつく:

  • 《報道規制》を合法化する新法を設け、規制が認められる要件を定める。
  • 名誉棄損の《損害賠償額》として天文学的数字を(一度で十分だが)判決で示す。

上の二つのいずれかが実行できれば、今日のような憂うべき社会状況は原理的に消失するはずである ― 上の方法は副作用が大きいので、規制対象以外の報道は自由であることを徹底しなければならない。


小生は、最近になって早朝の読経が習慣になり、早寝早起きに徹している。だから、いわゆるTVのニュース番組、ワイドショー番組はほとんど視なくなった。朝にNHKの報道番組のあと、15分程度カミさんにつきあって「モーニングショー」を視るが、後はTV画面から離れる。

意外なことに、それでも、まったく何も困らないことに気がついた。情報は、いくらでもネットから集まってくる。興味がわけば、ちょっと調べれば、多様な見解があることが分かる。この方がずっと良い。

《情報絶ち》、一度やってごらんなせエ、健康にイイですよ。

ずっと以前、投資コンサルタントから、大学の同僚になった人と話している時、初心者の新規契約者には

当分の間、株価を毎日チェックするのは、絶対やらないでください

そんな注意、というかお願いをしていたそうである。

まったくその通り。

テレ東のWBSを視なくなったのは心残りだが、これもYoutubeでリカバーできる。大方のTVニュースは、なくとも可のしろものである。

【加筆修正:2025-02-17】

2025年2月15日土曜日

断想: 国制(=国の体制)で万古不易なものはない

前稿ではプラトンが『国家』の中で描写した民主主義の劣化・堕落について言及した。とはいっても、直ちにプラトンが反・民主主義者であったとはいえない。ただプラトンが生きた当時の民主主義の現実をみて、それを称賛する気持ちにはなれないという批判的心情が、著作からは伝わってくるだけのことである。

プラトンがまだ23歳であったB.C.404年、アテネはスパルタを盟主とする敵国に降伏し、27年間の長きにわたったペロポネソス戦争の敗戦国となった。

アテネでは早速に親スパルタの「三十人政権」が発足、「行き過ぎた民主制」は否定され、「貴族・富裕層を中心とする寡頭制」へと移行した。

ところが、一度は国政を主導する地位を得ていた民衆が「民主制の復活」を願ったことから、政情は常に不安定で、ついには政権内部で意見が対立、内部分裂し、粛清と暗殺が相続く事態となった。ついには、民主制支持派と寡頭制支持派との内戦に至ったが、調停が成立し、アテネは一応「民主制」へ戻ることになった。

しかし、内戦はアテネ市民を深く分断し、相互の猜疑心がながく尾を引くことになった。黄金時代が二度と戻ることはなかったのだ。

プラトンの師匠であるソクラテスの裁判と死刑判決は、そんな混迷した世相から発生した事件である。B.C. 399年、プラトン28歳の年であった。

『国家』でも詳説されているように、いわゆる「民主制」には良い所も悪い所もある。自由と平等、寛大な多様性、変化をおそれず進歩を求める気質の形成は、民主主義の最も良い所だと述べられている。反面、自由が善であると規定され、それが極端にまで行き過ぎると、行動を規制する者は全て悪となり、無政府状態を招く。一部を引用すると

先生は生徒をおそれてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し……若者は年長者と対等に振る舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者に自分を合わせて、面白くない人間だとか、権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て、機知や冗談でいっぱいの人間になる。

こんな社会状況を招くことになる。最後には、

人間たちに飼われている動物たちまでもが、……きわめて自由にして、威厳ある態度で道を歩く慣わしが身について、路上ではこちらからわきにのいてやらないと、出会う人ごとにぶつかってくる…

何だか現代世界の《ペット様のお通りでございます》といった風な「町の風景」を連想させるものとなる。

この辺りは、単に哲学書というより、『戦後アテネ世相編』と言えるような側面がある。

思うのだが、民主主義の長所が優勢な時代と短所が優勢な時代と、二つの時代は交互にサイクルを描くように交代するのではないかと思っている。

比較的、分配が平等な状態で、人口増加と経済成長が始まる時代は、成長の果実を広く薄く享受できる民主主義の方がうまく行く。自由を何より尊重する気風が広まる。

しかし、成長の持続は社会の不均一性を高める。

多様性の容認と社会の不均一化は、同じ現象の表と裏である。そもそも不均一であるにもかかわらず、全ての人間に等しい処遇を与えようとすれば、違いのマネジメントが必要になる。しかし「違いのマネジメント」は「区別のマネジメント」となり、やがて「差別のマネジメント」と識別困難になる。不均一を区別しながら、差別はせず多様化の名のもとにアウフヘーベンするなど、そもそも矛盾しているのだ。不可能とまではいわないが、そんなマネジメントは、自然なロジックとして、「統合されるべき社会」に最高の価値を与えることによって、肝心の「自由な個人」を否定する結果になりやすい。「リベラル左派」にとってのガラスの天井がここにある。

人民の独裁で混乱するよりエリートへの委任で安定する方がマシである。で、寡頭化する。不均一は差別ではなく正当化され固定化され、故に民主主義が終焉する。ちょうど古代ローマが共和制を廃して帝制へと移行したように。

共和制ローマも大いに発展したが、黄金時代は帝制移行後のいわゆる「五賢帝時代」に到来し、その頃ローマ帝国の領土は最大となった。民主制と経済社会の発展の間に相関はない(と思うのはずっと以前に投稿している)。上の二つのどちらか一方が、他方の原因でも結果でもない(と思っている)。国制の選択は、時代の要請に応えるための努力から結果として定まってくるものだと、理解するべきだろう。


どうも抽象的にいうと、こんな歴史観に共感を覚えるわけで、とにかく

(王制)、寡頭制、民主制、(独裁制)は自然に交代する。

 「体制遷移の法則」まで洞察できれば良いのだが、今のところ、こんな風に思う今日この頃だ。

2025年2月13日木曜日

断想: プラトンの人間観には一つ抜けている気がする

本ブログで何度も投稿してきたように、小生は古代ギリシアの哲学者・プラトンが好きである。いま読んでも、とても2400年程の大昔に書かれた著書だとは思えないほどの「今日性」、「現代的意義」を保ち続けていると感じるし、実際、哲学畑でいまなおプラトンの哲学が真剣な研究テーマに選ばれることが多いのも「ムベなるかな」と思う。

『ソクラテスの弁明』は早熟な中学生なら読む。高校生なら真面目に読めば難しい内容ではない。欠点は「面白くない」という点だろう。実際、小生も初めて『ソクラテスの弁明』を読んだときは、中途で放り投げてしまったものだ。

真面目に読み直したのは、他のプラトンの著作を読んでから後のことである。それで初めて、そこで伝えられている思想がクリアに理解できたのだ。

学校の課題図書の常連になっている割には、意外と面白くなくて、変に小難しく、感想の持ちようがないという点で、(個人的な勝手な感想だが)夏目漱石の『こころ』とプラトンの『ソクラテスの弁明』は、よく似ているナアと(実は)思っている。主人公が最後には死んでしまうところも同じだ・・・。

これどう思う? 何しろ主人公、死んじゃってルんだよ?

そう言われてもナア、と思ったものだ (_ _)。

漱石で読むべき作品を一つ挙げろと言われれば直ちに『明暗』をあげるし、プラトンでこれを読めと聞かれれば、当然のこと『国家』をあげる。学校で推薦するなら、この二つだと思っていて、上の推薦図書よりは、文句なく面白い。難点は長すぎるということだ。課題図書にならないのは、このためだと(勝手に)思っている。

『国家』の第8巻は、5種の国制(=国の体制)の比較論を展開している所だが、いま読んでも実に面白い。

これも課題図書になることが多い鴨長明『方丈記』だが、冒頭の

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

は、日本史や古文の教科書に頻繁に出てきて、入試問題にもなることが多い。しかしながら、『方丈記』は厭世的なエッセーではなく、読んでみれば「京の都を襲った天災の災害リポート」であることが了解されるはずだ。要するに、同時代の世相をありのままに記述したドキュメンタリーであると言う方がよい。

同じように、プラトンの『国家』も、ペロポネソス戦争敗戦後の堕落し、荒廃したアテネ民主主義の実相を活写したドキュメンタリーとしての一面をもつ。特に第8巻は、最善の王制もしくは優秀者支配制から始まって最悪の僭主独裁者制に至るまでの5種類の国制(=国の体制)を比較した内容で、最悪から2番目に評価される「民主制」のどこが良くて、どこが悪いか、この辺の描写は実に現代世界にも通じるものがあるわけだ。

堕落した民主制が、どういうプロセスを経て、どんなふうに、愚かで、かつ悪しき社会をもたらすか。これが2500年もの昔に書かれた作品であるとは、俄かには信じられない程の臨場感がある。

プラトンが言いたいことは、

あらゆる人にとって、神的な思慮によって支配されることこそが、― それを自分の内に自分自身のものとしてもっているのがいちばん望ましいが、もしそうでなければ、外から与えられる思慮によってでも ― より善い(為になる)と考える……

最良の人々が主導する国家こそ、最良の状態に至るものであるというプラトンの「賢人政治」の理想は、しかし、自らが対話の相手に語らせているように

少なくともこの地上には、そのような国家はどこにも存在しないと思いますから。

こう考えていた著者・プラトンの熱い心情と人間像が生き生きと伝わってくる。

プラトンが優秀者による支配を望んだその根拠は、有名な魂三分説である。分かりやすく言えば、

魂は、思惟をへて真実を知ることを愛する理性、勝利し人を支配することを愛する気概、利益を得て富を形成することを愛する欲望の三つから成っている。そのいずれの部分が優勢であるかによって、人は、知を愛する者、支配を愛する者、利益を愛する者の三つに分類される。

故に、ただ利益を求める貪欲や、権力それ自体を求める野心に突き動かされるような人物が実際に権力を得て、社会を支配すれば、その国の市民に真の幸福がもたらされることは決してない。これがプラトンによる人間理解と社会観である。

ただ、読んでいて思うのだが、

人が求める対象には、真実在の知識、力、富の三つがあるというが、それでは迷いからの解放、不安からの解放、即ち「安心」を求める宗教的動機については、プラトンはどう考えていたか?

と、こんな疑問が自然にわいてくる。

どうやらプラトンは、迷いを解くためには真理を知らなければならない、つまり究極の知識をまなびとる必要があると考えているようだが、一方で日本の浄土系思想を代表する法然は『一枚起請文』の中でこう書いている:

唐土もろこし我朝わがちょうにもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。

又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらわず。

大事なのは、学問でも知恵でもない。《疑い》をもたず、《念仏》を称えることだけである。こういう論理を超越した事を言っている。


「なぜ浄土を信じられるのか?」というこんな疑問ですら、「これは分別知による下らぬ愚問である」として意義を認めない。「すがすがしい」と言えばその通りだ。が、宗教というのは、そもそもそういうものだ。信じられればヨシ、疑いをもてばオワリである。『阿弥陀経』は浄土三部経の一つだが、他力信仰は《難信の法》だと明記してある。それだけ「信じる」というのは大多数の人にとって難しいことは最初から分かっているわけだ。プラトンならこんな事は決して言わない(はずだ)。

プラトンの『国家』を読んでいると、理性によって色々な事物の実相(=イデア)が知られる ― 但し、「善のイデア」そのものを(生きている内に)理性によって直視できるのかどうかという点は、ハッキリとは書かれていない(と記憶している)。一方、日本の浄土系仏教では、無明という闇に生きる此土(=この世界)の住人は、汚穢にまみれ煩悩が心に染み込んでおり、この世に生きている限りは、まったく救いようがないと観る。この世界(=穢土)で動物のように何度も生まれ変わって生き続けることを嫌悪するなら、人は阿弥陀仏の本願を信じ、専修念仏の行をつづけ、仏国土に往くことがかなえば、そこは光明に溢れており、永劫の時間を通した宇宙の由来、未来をありのままに直視できる。不安からは解放される。この世に生きる不安はこの世に生きていることによるのだ。彼岸には不安はない・・・

・・・この辺り、実に超論理的である。超論理的ではあるが、何だか「実数の世界」から「複素数の虚構的世界」に連れていかれた時の戸惑いと、複素空間に慣れた後の広々とした心持を思い出したりもする。「浄土」や「彼岸」という言葉も、私たち人間が一貫した宇宙観、生命観を築くためには、論理上不可欠のピースなのだと思っている ― 純虚数、つまり$i^2\,=\,-1$を満たす値$\,i\,$の実在を問う意識と「浄土」の実在を問う意識は、どこか似ているものだ。

ちなみに、中国の曇鸞、道綽、善導から始まる浄土系思想は大体がこうした思想で一貫している。

やはり東洋と西洋の世界観には大きな違いがある。が、全体構成としては重なっている部分もある。そこが非常に面白い。

理性によって仏国土や神の存在を知ることができないというのは、近代の幕開けを演出した(とも思っているのだが)カントもそう述べている。が、これはまた別の話題になりそうだ。

今日は、プラトンから始まって、鴨長明に寄り道し、法然に辿りつき、最後は複素空間が出てくるという、極度に乱雑な内容になった。これも覚え書きということで。

【加筆修正:2025--2-15】

2025年2月11日火曜日

前稿の補足: 日本が国として連続していると感じられることの不思議

本日はホンノ短い補足のみである。


前投稿ではこんな事を書いている:

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

明治維新後の日本は「民意」によって新しい国へ変容したわけではなかった。前稿に書いたように

近代日本は、明治政府が外国から招へいした外国人教師が教えた日本人弟子か、でなければ外国に研修か、留学をした日本人が、造りあげた国である。それでも日本は伝統的な日本と同じ国であり、明治以後の日本が別の国になったと考える日本人はいない。

このように、実際には、「お雇い外国人」と「官僚」の働きで出来た国だった。しかし、江戸の旧幕時代から明治にかけて、日本は別の国になったのだと考える日本人はいない。まあ、法制度・文化・風俗は変えたが、それは「時代」が変わったという事で、別の「国家」になったわけではない。そう意識する日本人がほとんどだと思う。 

この理由は明らかで、

確かに日本の文化・価値観・風俗などは激変したが、それは日本が自ら選んだ道であったからだ。

つまり、天皇自らが新たな変革を欲したからである。 

故に、江戸の日本も日本、明治の日本も日本。こういう事だろうと(勝手に)考えている。所詮、「国」、「社会」などという観念は、主観的な意識の中にあるものなのである。続いていると人々が意識すれば続いているし、一度絶えたと意識すれば、絶えたということだ。 


明治維新と明治初期よりも昭和終戦直後の方が「激変」といえば激変ぶりが大きい。何しろ敗戦により領土が占領されたのだから。

それでも昭和戦前から戦中、戦後へと、日本人は同じ「日本」で生きたと意識していたのではないだろうか。

戦前は完全な独立国であったが、戦後日本は(実質的には)軍事同盟の設計から言えば、よく言って「アメリカのジュニア・パートナー」、悪く言えば「アメリカの半属国」であろう。

それでも日本人は例外なく、昭和戦前から戦後にかけて、日本は連続して「日本」であり続けていると、自認しているのではないだろうか?

時代が変わったのだ、と。時代が変わっても国は変わらなかった、と。「戦前という時代」から「戦後という時代」へと変わった。戦前の日本が日本なら、戦後の日本も日本だ。そう意識していた(ような気がする)。

少なくとも、敗戦時点で「日本」という国は地上から消え失せ、戦後の「日本」は新しく出来た国なのだ、と。こんな風には、思わなかった。小中学校の教科書にも、そんな風には書かれていない。現代日本人もそうは思っていない(はずだ)。ただ憲法が書き換えられ、「大日本帝国」が「日本国」に変わった、と。

そう感じる理由(の一つ?)は、天皇制が継続し、昭和天皇が昭和20年から64年までずっと在位した、これが日本人の無意識下の(国家?)感覚を変えなかったからだと、小生は(勝手に)思っている。


仮に、昭和20年に天皇制が廃止され、それ以後、日本には天皇が存在せず、何年かごとに「普通の」日本人から「大統領」を選ぶという体制になっていれば、今日の日本人は、昭和戦前までの日本とは別の国家にいま生きているのだと、そう意識していたに違いない。

そうなっていれば、多分、国歌や国旗も新しく作っていたであろうし、まして「自衛隊」(?)が同じ旭日旗を引き続き使い続けることもなかっただろう。

社会科の教科書では、(ドイツと同じように)明治から昭和戦前までの日本は「あだ花のような国」であり、故に「国民の意思に反して」、悪しき戦争を始め、結果として「自壊」した、と。こんな調子の説明がされていたに違いない。

人・国・民族・言語といった文化的な自意識が、日本人によって自覚され、それによって(内戦もなく、うまくやっていれば)現代日本はより建設的で、理性的な存在になっていたと想像される。

そうはなっていない理由は、

日本には天皇がいる。であれば、同じ日本である。

こんな意識が「敗戦・占領」という当時も、その後もずっと、共有されていた意識であったのだろうと想像している。

これを言い換えると、前稿でも書いているが

天皇があって日本がある。逆ではない。

こういう表現になるではないか。


こうしたことで、日本という国家はずっと断絶もせず、続いている。時代は「明治」、「大正」、「昭和」から「平成」へ変わり、いまは「令和」となった。同じ「日本」が連続して続いている。そんな意識が現代日本人で概ね共有されている、育った時代は違っても、国までは違わない、この点だけは世代間のギャップがない。そういうことだろうと思っている。

ということは、将来にかけて、日本社会がどのように変わっても、天皇がいる限り、日本はずっと日本である。そんな意識が支配的であるのではないかというのが小生の日本観である。

建国記念日に沿うような内容になったが、時機を狙った意図はない。偶然である。


本日は、補足ということで。



2025年2月9日日曜日

断想: 全面開国を支える基盤こそ天皇制。こんなお国柄ということか?

以下の問いかけは少し以前にも書いたことがある:

 日本が日本であり続けるのは何によってか?

この問題意識はかなり前からあって、思いつく時々に本ブログでも書いてきている。が、検索するのはキーワードが定まらず、やりづらい。いちばん最近ではこの投稿になるか。

そこでは天皇制に目を向けている。具体的に書くと、こんな下りがある:

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

いわゆる「国体」という思想であって、日本の歴史を観る時の歴史観、というか日本文化観を指している。

この種の歴史観が「民主化」された戦後日本の小中学校の授業で教えられているはずはない。

日本という国は、島国であるせいか、世界の文化的潮流からしばしば大きく遅れることがある。そんな時、先進的な海外文化を招聘した外国人から伝えてもらうのだが、たとえば先進文化を受容した飛鳥から奈良にかけての時代、戦争技術が一変した戦国時代後期から江戸時代初期にもそんな国際化の時代があったし、明治前期や、昭和戦後初期という時代も同じ状況に日本は置かれた。

そんな時代、日本は世界文明のメインストリームを直接受け入れることで、短期間に大きく変容したが、それでも日本が日本であり続けたのは、上に引用した投稿でも書いているように

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

こんな風に考える立場に小生は立っている。

国が大きく変容を遂げようとしている時、そんな時代にこそ、天皇という柱が必要になる。こんな認識は、実際にその時々の上層階層の意識にあったかもしれない。

時代をずっと遡って、飛鳥から白凰、天平にかけての時代、大量の渡来系日本人(=移民)が活躍した事実は、教科書でも(軽く?)触れられている ― ちなみに、歴史の授業では、古代から話を始めて、戦国時代、江戸時代に至り、大体は明治、大正辺りで時間切れで終わるというパターンが多い。ちょっと問題ではあります……

例えば、奈良の東大寺は華厳宗総本山としてよりも文化的遺産として日本人なら誰でも知っている(はずだ)が、昔に聞いた歴史の授業で、時の聖武天皇が大仏建立を発願したきっかけが新羅人・ 審祥 しんじょう の『華厳経』講義であり、大仏開眼法要を導師として主宰したのがインド僧・菩提遷那 ぼだいせんなであった事実は、それほど力点を置いて説明されてなかったように記憶している。

日本を訪れた外国人専門家(?)の講演を聴いて、その時の天皇が思いついて建立した大仏が、別の外国人専門家によって魂が入れられた、だとしても奈良の大仏が日本の文化遺産であることを、日本人の誰も疑ってはいない。

明治維新の後の文明開化という時代も(多分?)同じような情況であった。近代日本は、明治政府が外国から招へいした外国人教師が教えた日本人弟子か、でなければ外国に研修か、留学をした日本人が、造りあげた国である。それでも日本は伝統的な日本と同じ国であり、明治以後の日本が別の国になったと考える日本人はいない。

まったく違った文明・制度・風俗の国に生まれ変わったのに不思議ではないか。

科学技術、法律・制度、更には宗教ですら、輸入できる。しかし、人々一般のモラル感覚、意識まで輸入するのは不可能だ。解決するべき数多くの立ち遅れ(?)として日本にある問題個所と向き合うべき今という時代、何度かあった過去の時代と似た状況に、いま日本は置かれている。そう感じるのだ、な。

どれほど巨大な文化的な、あるいは民族的・人的構成上の変容をくぐっても、日本が日本であり続けるのは、何によってか?

たとえ外国人社長がいくら増えようが、日本の名門企業がいくら外国資本に買収されようが、営業現場に外国出身の人がいくら増えようが、日本人が巨額の資産を築いた事実に変わりはなく、日本という国の象徴は世襲される「天皇」であることに変わりはない。

この事に、何だか安心(?)を感じる日本人は実は多いのかもしれない。

天皇という制度は、こんな視点からも、というより、こんな視点から考えるべき事柄なのだろう。

「民主主義」や「男女平等」という話題は、とりあえず無関係と考えておくべきだろう ― 無関係ということであって、否定するという意味ではない。目的にはならないという趣旨である。念のため。

そう思われますが、違うかな?

2025年2月7日金曜日

ホンノ一言: 『ブラックボックス・ダイアリーズ』のアカデミー賞ノミネートが伝えられないのは何故だろう?

 元ジャニーズ事務所所属のアイドル・中居某がひき起こしたセックス・スキャンダルは、いまや事件の舞台を提供した(と推察されている)フジテレビという企業そのものの存続さえ危ぶまれる事態を招いてしまった。

2025年という年が明ける時に、こんな事態が出来するとは、一体だれが予想出来ていただろう?

昨年末の女性週刊誌報道があってから、曖昧な不安が周囲の人物の胸には去来していたであろうが・・・。

この事件、本来は経済誌であるイギリスのThe Economistでも報道されている。その中に、こんな下りがある:

Japan’s #MeToo movement has been “building up slowly”, says Miura Mari of Sophia University in Tokyo. In 2017 Ito Shiori, a freelance journalist, accused a reporter and the biographer of then-prime minister Abe Shinzo, of rape. Her criminal case was dismissed, but she won damages in a civil lawsuit. “Black Box Diaries”, her film chronicling the episode, became the first Japanese documentary to be nominated for an Oscar last month (though there is no release date for it in Japan). Her case proved controversial and sparked nationwide conversations. According to surveys, only 5-10% of people report assaults to the police in Japan, compared with 23% in America. Demonstrations also started in 2019 after four rape acquittals were handed down by the courts in quick succession.

Source: The Economist

Date: Feb 6th 2025

URL: https://www.economist.com/asia/2025/02/06/japan-could-finally-face-its-own-metoo-crisis

例によって、Google翻訳で和訳した日本文をコピーしておこう:

 日本の#MeToo運動は「ゆっくりと高まっている」と上智大学の三浦真理氏は言う。2017年、フリーランスジャーナリストの伊藤詩織氏は、当時の安倍晋三首相の伝記作家で記者をレイプで告発した。彼女の刑事訴訟は却下されたが、民事訴訟で損害賠償を勝ち取った。その出来事を記録した彼女の映画「ブラックボックスダイアリーズ」は、先月、日本のドキュメンタリー映画として初めてア​​カデミー賞にノミネートされた(ただし、日本での公開日はまだ決まっていない)。彼女の事件は物議を醸し、全国的な議論を巻き起こした。調査によると、日本で警察に暴行を通報する人はわずか5~10%であるのに対し、米国では23%である。2019年には、裁判所が4件のレイプ無罪判決を立て続けに下したことを受けて、デモも始まった。

日本語として少し可笑しな箇所も散見される。が、十分使えるレベルだ。メディア界で言語の壁が消失しつつあるのは、日本人にとって大変素晴らしい事だと思う。

下線を引いた部分は、安倍元首相と親しかったTBS政治部記者・山口某が起こした性犯罪の事である。この事件の顛末を調べ上げるプロセスを記録したドキュメンタリー映画が『ブラックボックス・ダイアリーズ』で、「先月、日本のドキュメンタリー映画として初めてア​​カデミー賞にノミネートされた」とThe Economistは紹介しているわけだ。ところが、「日本での公開日はまだ決まっていない」とも付け加えている。

真田広之主演で昨秋にエミー賞を受賞した『SHOGUN 将軍』は、日本国内のテレビ局でも大々的に報道したが、伊藤氏の『ブラックボックス・ダイアリーズ』のアカデミー賞ノミネートは、国内TVのニュース番組は見切りをつけて最近はほとんど視ないのだが、TV画面で話題になっているのを視たことがない。

この件については、TV業界で《緘口令》が布かれているのではないかと邪推したい位だ。

だとすると、こんな情況も、世界からみれば

日本には報道の自由がない

そんな風に低評価されてしまうのは「ムベなるかな」である。


・・・こんな体たらくでは、高付加価値・知的サービスを軸とする「第三次産業主導型の経済成長」など、日本にとって「夢のまた夢」というところだろう。


2025年2月3日月曜日

ホンノ一言: トランプ大統領の「関税率引き上げ戦略」について

今年は、昨日の2日が節分で、今日3日が立春であると、TVニュースを視ていて知ったから、随分呑気な話しである。

年若な時には、自分の年の数だけ大豆豆を食して悦に入ったものだが、北海道に来ると撒くのが落花生であると聞いて、ヤル気をなくした。で、節分になっても何も撒かないまま長年月がたった。

トランプ大統領の関税戦略が展開され始めた所である。

自由貿易を否定して、関税率を引き上げるという政策に賛同する経済学者はいない(はずだ)。とはいうものの、小生の元同僚の一人は

雇用など特定のマクロ的状態においては関税政策が有効であるケースもあるのかどうか?

こんな問題意識で考えてみたいとSNSに投稿している。

小生も、

いかなる場合にも関税率引き上げは推奨できない、と確言は出来ない

そんな気はする。だから考察に値する問題だと思う。


理性とは無縁の、現時点の常識や価値観のみから「自由貿易否定イコール愚かな政策」と主張する態度には賛成できない。

トランプ大統領の政治的嗅覚が、今回は的を射るか?

正統派経済学者の標準的理論が現在でも正しいか?

そういう事だろう。

これまでの常識で、条件反射的な反発をメディア各社が声高に叫ぶのは、この際は控えておいた方が「国益」にはかないそうだ。経済学者の議論をまず聴くべきである、聴くと同時にメディア側も議論の要点を理解するべきだと思う。不勉強なメディアは社会の害毒だ。

そもそもケインズ革命に火をつけた1930年代のケインズその人も『一般理論』刊行当時は《異端派のインフレーショニスト》として鳴らしたものである。