最近は本職のデータ解析でガチャガチャやるよりは仏典や哲学の研究の方がよほど面白くなった。物質界を超越した事柄を問題にする形而上学は頭の体操にもとても好いのである。
普段使わない単語でイメージや論理を理解することに疲れたときは、気分転換に昔読んだ高木貞治の『解析概論』を奥の方から取り出して読み返している ― といっても、第1章からだとシンドイので、前半を飛ばして「第5章 解析関数、とくに初等関数」からだ。これまた頭脳のウェート・トレーニングだ。
但し、第5章の複素関数論など、これだけを勉強するなら山本直樹『複素関数論の基礎』辺りがヨッポド分かりやすく、説明も証明も上手だ。この「上手だ」という感想の背後に、高木貞治が現役であった頃の大学生に前提されていた知性レベルと現代の大学生が現実にもっている知性レベルとの隔絶した格差が隠れているのなら、むしろ慄然とした思いに沈むのは小生だけではないだろう。
*
それはともかく、
仏教関係への興味が高まって来たことから三島由紀夫の『豊饒の海』第3巻にあたる『暁の寺』を(これまた)再読している。
その最初の方にある
悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり
という一句に目が留まったのは先日の事である。
これは覚えてなかったナア
と。完全に忘れている。やはり、本というのは読む人の知性のレベルに応じて読まれるものである。
同じ本は、何度も繰り返して読めば、読むたびに新しい事を発見することが可能なのは、
人は年齢を重ねるに伴って、経験も増えるが、頭脳も鍛えられる
この単純な事実を伝えているに過ぎないと思っている。
*
上の一句だが、出所は『成実論』の中の「三報業品」だと三島は記している。
フ~~ム、成実宗というのが南都六宗の中にあったナ。その根本経典カネ?
そんな疑問もあってGoogleで検索しても、中々、明解な説明に遭遇しない。そこでChatGPTと話してみようと、以下の様な対話をした:
「悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり」という主張に関係する**因果の時差(業と報いの関係)**が、まさにこの「三報業品」の中で論じられています。
業(行為の力)は因としてはすぐに存在するが、果が現れるには縁(条件)が整う必要がある。
たとえば種(因)をまいても、水・日光・土壌(縁)がなければ芽は出ません。報い(果)も同じく、適切な時期・状況が必要です。
〇 善悪の性質と心の強さが影響する
強い動機や執着を伴う業は、より早く強く果報として現れる可能性があります。
逆に、弱い業は後の世に回ることがある。
これを読んで、またまた、プラトンを連想した。というのは、
「悪を行じながら楽をみる」という生き方は、『ゴルギアス』のカリクレスが主張した思想で
法律習慣のうえでは、世の大多数の者たちよりも多く持とうと求めるのは不正であり醜いことだと言われていて、またこれをしも「不正行為」と名付けているのであるが、しかしわたしの思うに、自然そのものは、まさに同じそのことこそが正義なのだということを示しているのである。すなわち、すぐれた者は劣った者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多くを持つことが正しいのだ、と。
・・・いっさいの自然に反する法律も、すべてこれを足下に踏みにじって立ち上がり、われわれの奴隷であった男は、突如、君主となってあらわれる。自然の正義が燦然と輝き出るのは、このときだ。
ニーチェも(一時?)心酔した《優秀者による凡人の支配》という原理が明快に述べられている。その一方で、
快い思いをすることは善い状態にあることではなく、また苦しむことは悪い状態にあることと同じではない ― 『ゴルギアス』から。
さて、クロノスの治世のころ、人間に関する法として、次のようなことが定められていたが、それはそのままひきつづき、今日に至るまで、神々の間でまもられているのである。すなわち、その法によると、人間たちのなかで正義を守り、神の意にしたがいつつ、その生をおくってきた者は、死んでからのちは幸福者たちの島に移り住み、そこで諸々の禍から解放されて、まったき幸福のうちに日をおくることになり、これに対して、不正にして神を蔑する一生をすごした者は、人呼んで「タルタロス」という償いと裁きのための牢獄へおもむかなければならないことが定められているのである ― 同上。
ソクラテスは(実にソクラテスらしく)こう語っている。プラトンは、古代ギリシアには珍しく輪廻思想を支持していた哲学者であるが、例えばキリスト教の「最後の審判」といったイメージも同じベクトルの思想だと言っていいかもしれない。
とにかく、善と悪という観念が人にはあって、善い意志には善い結果が、悪い意志には悪い結果がもたらされるというのは、人類社会最古の倫理的な「公理」であると呼んでいいかもしれない。
そして、その公理が無条件に真となるには、時間を超越した生の連続性(=輪廻)を認めておく必要があった。そういうロジックなのだと思うが、もちろんこれは、観察されたデータから実証するのが極端に難しい世界観であり、また仮説である(と言うことすらためらわれるが)のは間違いない。
とはいえ、簡単な方程式
$$ x^2 + 1 = 0 $$ の二つの根を観察可能な量として可視化するのが不可能であるにも関わらず、分析ツールとしては「純虚数」という想像上の数を使っているのと同じように、観察不能なイメージであっても理路一貫した議論をするのに欠かせない概念であれば、使っても構わないと小生は(最近になってから一層)強く思うようになった。
理論は、全体としてのロジックが完成されているかどうかが肝であって、一つ一つのパーツが観察可能で、現実的であるか、それとも非現実的であるかどうかを問うべきではない。
実際、観察不能なイメージが(いずれかの超越世界に)実在するものと前提したうえで、毎日の生活をしている人がこの地球上に多いのは事実である。
何らかの結果が、利得として、それによって得られているはずだ、と考えるのは極めてロジカルだと思うがいかに?
『暁の寺』の中で三島は輪廻転生についてこんな風に述べている:
地球の自転という事実が、決して五感ではそれと知られず、科学的理性を媒介として辛うじて認識されるように、輪廻転生も亦、日常の感覚や知性だけではつかまえられず、何かたしかな、きわめて正確で体系的でもあり直観的でもあるような、そういう超理性を以てして、はじめて認識されるのではなかろうか。
「輪廻転生」を「地球の自転」にたとえましたか・・・なるほどネエ。いい譬えだが、宇宙ステーションに長期滞在できるようになった今日となっては、もはや地球の自転も多くの人が目でみる《単なる事実》になってしまった。
地球の自転はいざしらず、三島自身が輪廻転生が真理だと確信していたかどうかは、あいにく知らない。が、馬鹿々々しい空想のたわ言だと思っていれば、そもそも『豊饒の海』という輪廻転生の小説など書く気にはならなかっただろう。三島は《省察》と呼んでいる。デカルトの哲学にだけ使われる言葉ではないようだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿