2025年5月24日土曜日

断想: 「学歴社会」はイイのか悪いのかについてすら社会的合意がないようで・・・

今日の標題。

明治の日本には確実に合意があった(と想像しています)。大正・昭和前期・戦後日本早々の時代を通しても確実に共通の合意があった記憶がある ― それほど昔のことは知らないが。しかし、今は「学歴社会」に否定的な人が増えているような兆候がある・・・(ように感じることが多い)


日経のサイトに何気なくアクセスすると

業務に困ったら…スキルは「買っちゃう」が最適解。

こんなタイトルで読ませるコラム記事(?)があった — 現在はアカウント外にしているので全文を読むことはできない。全文閲覧はできないが、何が書いてあるか、大体は想像できるというものだ。

現代日本社会は、決して《学歴社会》ではない。というか、学歴は最も優先される評価基準として使われていない、と。そう観ている。

何故か?

たとえば立法権、及び重要政策を決める権限をもつ国会議員、というより与党議員という方が適切だが、決して学歴優位組織にはなっていない。更に、ビジネスの成功においても、高学歴が創業のチャンスにつながり、経営者としての大成功をもたらしているとは(どうしても)思えない ― この辺は明治・日本とは全く様相が違う。学士、修士にせよ博士にせよ、学問上の達成はともかく、「学位」がその人に与える価値が、なぜか社会では有用性が認められていない。これでは言葉の定義上、「学歴社会」とは言えないだろう。

組織内統計的には、小中高大における高学歴である人材が組織内で出世する確率が高いとはいえる。が、最高意思決定権の帰属という面から丁寧に観ると、社会全体としては、学歴よりモノを言うのは《血統》であったり《地縁》、《人縁》であったりする日本的な事実が歴然としてくる、と感じるのは小生だけだろうか?

よく問題にされる《世襲議員》は「学歴社会」では当選できない理屈だ。

なので、日本は言葉が意味する「学歴社会」ではないと観ているのだ、な。概ねそうかもしれないが、非常に未成熟であると思う。

「学歴」は、その人が努力をしたことの指標である。「実績」と近いニュアンスがあるが、「資格」という言葉の感覚により近いかもしれない。一口にいえば

学歴 = スキルのレベル

こう言える学歴こそ、理想的な「学歴」ではないか?言い換えると

高学歴者の稀少価値=ハイスキルの稀少価値

考え方としては、これが本筋だろう。

医療、法曹、金融、テクノロジー、マーケティング戦略など、知識・スキルがなければ職務遂行能力がない(はずの)分野では、確かに日本社会は(だけではなく国を問わず)「学歴社会」になっているはずだ。

最初に引用した

業務に困ったら…スキルは「買っちゃう」が最適解。

という一文は、こんな事情を指しているのだろう。

言い換えると、人材は知的財産が体化されたリソースであって、故にカネで売買できる市場が形成され、その市場にプロフェッショナルとして参入するためには、教育を享けて知識を身につける必要がある。努力の結果が学歴という形式で実を結ぶ。これが《学歴社会》のベーシックな論理である。

こんな社会状況が《学歴社会》だというなら、小生は学歴社会に大賛成である。

一方で、なぜだか「学歴社会否定」のホンネもある。この意識の根を掘り下げて見ると、そもそも教育・自己啓発によって身につけるべき《知識》の力への疑念がある。つまり

知識を身につけても役に立たない

という疑念だ。結果として、

高学歴者は役に立たない。無駄である。学歴社会こそ社会を停滞させる。

こんな心理が広がっていく。

さしづめ物理学ならいいが、仏理学は「ごく潰し」だと言いたい向きも社会にはいる。なるほど喘息に悩んでいる人が整形外科の専門医に相談しても、その知識は問題を解決するに至らないだろう。

「知の専門化」という問題は確かにある。

それでなくとも日本の社会は現場重視で、かなり極端な経験主義がいまでも信奉されているところがある。しかし現場重視をよくみると、汎化されていない「閉鎖的現場の共有知識」を指している事が多い。これは極端にローカライズされた知識といえる。


それはともかく、「反・知識」というか、こんな潜在意識がもたらす結果として、自己啓発、ひいては「勉強全般」がどれほどプラスになるかという点に対する疑惑、不信が増殖する土壌が形成されることになる。

経営管理サイドのこの姿勢が

何も読書せず、勉強せず、トレーニングもしない現場のビジネスマン

といった情けないイメージが語られる背景になっている・・・

こういうイメージを裏書きしてくれる調査結果は、それこそ山のようにある(例えばこれ)。リンクをつけた調査結果では

日本は勤務先以外での自己研鑽「とくに何も行っていない」が5割超え

勤務先以外で自分の成長を目的に行っている学習・自己啓発の全体平均トップ5は、「読書」(34.5%)、「研修・セミナー、勉強会へ参加」(30.4%)、「資格取得のための学習」(22.0%)、「通信教育・eラーニング」(21.8%)、「語学学習」(20.9%)。

「フィリピン」、「インドネシア」、「マレーシア」、「ベトナム」、「インド」は、ほぼ全ての項目で全体平均を大きく上回り、勤務先以外での自己研鑽に意欲的。一方、「とくに何も行っていない」割合の全体平均は18.0%。最も高いのは「日本」(52.6%)。次いで「オーストラリア」(28.6%)、「スウェーデン」(28.1%)、「イギリス」(24.1%)、「フランス」(22.6%)と続く。

「日本」は「何も行っていない」割合が突出して高く、全ての項目で全体平均を下回り、1割未満も多いなど自己研鑽意欲の低さが際立つ。

こんな風に「日本のビジネスマン」のイメージが概括されている。何だか、上にまとめた印象と重なる部分が大きい・・・

自己研鑽意欲の鈍さは、勉強・知識がもたらす力に信を置かない潜在心理がもたらす主観である。こんな主観が支配する日本社会が(事実として)「学歴社会」になっているというのは理屈に合わない。矛盾した話しだ。

知識不信からもたらされる社会は、「学歴社会」ではなく、「社会の低学歴化」である。


しかしながら、逆の事実を伝える調査結果もある。たとえばOECDの国際成人調査はよく知られている。ここでは

OECDの国際成人調査 日本は読解力、数的思考力で2位 世界トップ水準を維持

という結果が紹介されている。

フ~~~ム、既に高い知識レベルにあるから、だからこそ、日本人は就職したらこれ以上の勉強の必要性を感じていないということか?

新たな疑問がわき起こります。

日本が学歴社会であるか否かといえば、

イイ大学に入学しようという意味では学歴社会である。つまり、努力を評価する社会にはなっている。しかし、学歴ではない、その他の価値が上層部になればなるほど評価されている。

小生はこう観ている。故に、日本は決して「学歴信仰社会」ではない。

概ね学歴社会になっているのは、日本社会の健全さを示す側面だと思う。「世評」には反するかもしれないが、そう思う。足りないとすれば、各種・各分野の知識・スキルを身につける教育システムが、日本では十分整っておらず、知識・スキルを修得したことを証明する各種の《学歴》が、広く活用されていない。

つまり《教育ビジネス》が、社会で必要とされている形では、展開できていない。

使えない学歴が多い → 学歴は本当にいるのか → 学歴社会が停滞の主因

という議論を見かけることが割とあるのは、こんな所からだろうと思う。


以上、本日の記述を読み返してみると、

使えない学歴が多いのは、使える学歴を創出する事業を規制している

裏からいえば「規制による硬直化の弊害」。理屈はこうなりそうで、結局は「日本の教育行政の批判」となって、終わるしかないようだ。

 



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