最近になって増えているのは仏教関係の投稿である。これは昨秋に五重相伝に参加し、それ以後、毎朝読経の習慣が身についたことが(一つの)契機になっている。
ただ分からない、というか頭の中で理解できないこともある ― 頭で理解するのは邪道だというのは分かっているのだが。
それは浄土へ往生するというときの《往生》をどう理解すればよいかだ。これは、古くは鈴木大拙、それどころか人間が地上に登場してからずっと全ての人を悩ましてきた問題であるに違いない。
一体、物質的身体が死して後に極楽という浄土へ往くのは何であるか?
これについても何度か投稿はしてきた。しかし、実は訳が分からなかった。キーになる概念が《阿頼耶識》という唯識論で想定する根底的な潜在意識であるという点は、色々な角度から勝手な解釈をこれまでにも述べてきた。
最近、調べていたのは、浄土へ往生するのはこの阿頼耶識に関係するのか、それとも浄土系宗派は唯識説とはまったく関係なく、独自の考え方をしているのかという点だった。
人間存在のあり方という点で、時代を問わず、洋の東西を問わず、色々な哲学が生み出されてきたが、唯識論の「八識説」というのは、小生にとっては最もピッタリと来る思想である。なので、このことと阿弥陀仏国への往生というのは、どう関係するかは、(小生にとっては)ポイントとなる思想的論点であったのだ、な。
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仏教全体を通して、自己という「我」も実は「無我」であり、あると思った客観世界も実は「空」である。とするならば、阿弥陀如来の極楽世界を信じることと矛盾するのではなかろうか?一体、浄土へ往くのは浄化された阿頼耶識、つまり大円鏡智でないとすれば、何なのか?法然上人が『一枚起請文』で書いている
ただ往生極楽の為にはなむあみだ佛と申てうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申外には別の仔細候はず
で「往生する」とされているのは、決して生身の物質的身体ではない。とすれば、精神的自己ということになるが、全ての仏教においては「無我」であるのだ。だとすれば、阿頼耶識でないとすれば、何が阿弥陀仏国に往生すると意味されているのか?
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多川俊英『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』は、唯識論に立つ法相教学の本山である興福寺の立場から書かれている(そうだが)名著だと思う。
例によって、傍線を引いた箇所を抜粋、コメントを付して、覚え書きとしたい。
つまり生の執着をきれいさっぱり捨てられていないゆえに、私たちは永遠の過去から転生しつづけ、その永い旅路の果てに、こんにちただ今ここにいる。そして、その永い旅路のなかで為されたすべての行動の情報を阿頼耶識が保持しているということです・・・こうした阿頼耶識を、世親菩薩は、「恒に転ずること暴流の如し」と表現しました・・・それがやがて質的転換をとげて、覚りの智慧を構成する大円鏡智になる、というのが唯識仏教が考える仏道の完成です。
哲学書には珍しいベストセラー(?)『善の研究』の著者・西田幾多郎の短歌に
わが心 深き底あり 喜びも 憂いの波も とどかじと思ふ
というのがある。何故だか心の中から理由もなく湧いてくる衝動や感情、思い出は潜在意識と言えばそれで済ませられるのだが、実は阿頼耶識という《識》の中に《種子(=シュウジ)》という形式の下に保持されている「その人の心の可能性」が、「心の現実の働き」として現れるものだ。つまり、阿頼耶識に蔵されている種子こそが、善悪を含めて、その人に色々な行為をさせる潜在的な力である。行為への力だから動機と言うのも可だ。
その人が先天的に有している善への可能性、悪への可能性はその人を支えている阿頼耶識が蔵している種子で決まる。
生きている間の行為は、すべて過去生から現在に至るまでの間に積み重ねられた行為(=業・ゴウ)が種子として植え付けられ、種子が(明確な動機として)現勢化することで現れるものだ、というのが唯識論にたった人間観である。種子の一部が現勢化するとき、人は動機づけられる自らを感じ、行為に及ぶのである。この時、考える(=マナス)識として設けられた末那識は『我は欲する』と思念させるはずだ。
なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはん に、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべ し … …
あまりにも有名な『歎異抄』の第十三条。阿頼耶識に蔵せられる種子は、その人が行い得る行為の可能性を、過去から継承して網羅しているのである。こんな人間存在のあり方が唯識説の提示したモデルである。
上の西田の歌は、自らの心の奥の奥に何があるのか、自分でも分からないという意味である。
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阿頼耶識と末那識が何であるかは、これまでの投稿で述べた。これらの潜在意識に対して、自覚される意識が「第六意識」、端的に「意識」と呼ばれる心の部分である。
学修の主体は、いうまでもなく第六意識です。様々な煩悩を抑制したり、身心を調整したりしながら、自己の精神世界をより高次なものにしていくことができるのは、まさに自覚的な心である第六意識です。
自覚された心の部分が、いわゆる「意志」であったり「思考」であったり、「感情」であったりする — 「知・情・意」と呼ばれている。
前にも書いたが、人間の最大の特徴は大脳という考える身体器官を備えている点だ。阿頼耶識は、身体に大脳が備わっていることを認め、大脳を駆動させるために「末那識」を考える主体として仮想的に設ける。末那識は、阿頼耶識に保存されている潜在的動機が顕在化するのに対応して、色々なことを望んだり、欲求したり、そのために考えるのだが、大脳は自覚された意識の中で自らに色々な問いを発する。それで「学修の主体」となりうるわけだ。自己や自我に執着する末那識に対して、逆に《自我》を発見し、そこから由来する煩悩という心の働きを認知するのもこの第六意識であり、その悪しき心の働きを止めて超越しようと努力させるのも第六意識の働きである、と。こう考えるわけだ。
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ある人の阿頼耶識が、その人の死後も実在して、別の人の身体に乗り移るわけではない ― 当たり前のことだ。
今生で現れる阿頼耶識が一定期間を経て(身体と共に)消滅し、そして次生に現れる阿頼耶識は、前の生存の果報としてのものです。そこで、その場合の阿頼耶識を、果報の意味を持つ「異熟」の語で示すのです。・・・苦や楽の果報を受け、生死を相続する主体はなにか ― その疑問に答えたのが、(世親の著した『唯識三十頌』の中の)この第19頌です。生死の相続については、仏教も古代インドで一般的だった輪廻思想を受け継いでいます・・・その輪廻転生、生死の相続ですが、寿命とともに肉体も精神も滅びますから、いったい何が輪廻転生するのかということが問題です。
これに対して、こんなコメントを書き入れてある。
そもそも「無我」である以上、自分自身の「精神」という実在は否定される。プラトンの輪廻観と異なるのは、往生極楽とは輪廻を離れて、生死とは無縁の浄土に往くことを意味するという点だ。これはこの世における生死から離れる、つまり「永遠性」を獲得するのと同義である。浄土という実在する世界を(ロジックとしては実世界からは観察不能な虚空間に)主張していることにもなる。
唯識説の阿頼耶識はまず、過去のすべての行動情報を「種子生種子」の心的メカニズムで劣化させず保持して、私たちを根底から支えるのですが、そうでありながらもなんら不変・実体でない。・・・こうした阿頼耶識こそ、まさに生死相続の主体ではないか・・・このように阿頼耶識=生死輪廻の主体という唯識説は、あらゆるものは空・刹那滅であり、アートマンのような常一にして主宰なるものなぞ存在しないという仏教の基本に差し障ることなく、生死輪廻の主体をみごとに解明したものといえます。
前の投稿でも書いたが、物質的身体には必ず親がいる。親にもその親がいる。物理化学的な生命はこのように過去に遡及して行くことができるわけで、いわば《生命の糸》というか、《生命の流路》という継承メカニズムが時間軸を通した生理化学プロセスとして存在している。これに対して、阿頼耶識は、生前の行為である業(=原因)と死後の転生である異熟(=結果)という、文字通り生死を超える関係の下で、永遠の過去に遡った情報が《記憶の糸》として、言い換えると《動機の糸》、《情報の流路》として継承され今に至っている。これが心の根底で我々を支える阿頼耶識である。今はこんな生命観をもっているのであって、どの人間存在も、というより一切衆生の存在は二本の糸、二筋の流路、つまり「物質的生命の流れ」と「非物質的情報の流れ」が相互に絡みあう形で成り立っている。こんな理解を(勝手気ままに)しているところだ。
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極めて大雑把に譬え話しをすると
物質的身体 = ハードウェア = 機械
阿頼耶識 = ソフトウェア = 知識
とイメージしているわけだ。物理化学的な高分子化合物である身体を、意志をもった肉体として活動させる基本ソフトウェアとして阿頼耶識が機能する。
身体が動作を停止すれば、それとともに阿頼耶識も消滅するが、記憶の糸としては消えず、新たに結ばれる別の身体の中にインストールされて潜在記憶を保持したまま新たな阿頼耶識として働き始める。阿頼耶識は素粒子から構成されるモノではない。その意味では、阿頼耶識=情報の蓄積、もしくは阿頼耶識=知の塊とも言えるわけであって、紀元5世紀という大昔に大成された哲学にしては、唯識論という思想は極めて現代的な発想をしていることに気がつく。
分からないのは、その阿頼耶識そのものは、どのような背景から宇宙に誕生したのかという問いだ ― 多分、永遠の謎であるに違いない。 AI(≒人工知能)は人類という知的生物が意図的に造り出したものだが。
ついつい連想するのは、カントが『純粋理性批判』の中で強調した先験的直観や先験的カテゴリーだ。時間や空間が外界には実在せず、それは人間理性が物事を理解するために経験に先立って設けた形式である。こう述べているわけだが、外界(=唯識論で言う器界)を認識するために時間や空間といった観念を阿頼耶識が保持してきていると考えれば、たしかにそれは個体としての人間にとっては、経験的知識ではなく、先験的直観となる。単一性、数多性、原因と結果、偶然と必然など、カントが挙げた認識のための純粋知性概念も同様。が、これはまったく別の論題でもあるので、機会を改めよう。
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世親(ヴァスバンドゥ)という人は、唯識説をほぼ完成したインド哲学者であるが、同時に『浄土論』を著した仏教思想家でもあった — 別人であるという見立てもあるようだが、大勢は著者は同じと考える立場にある(ようだ)。とすれば、上のような唯識説と往生極楽を志す浄土信仰が矛盾しているはずはないのである。
なにか極めてインパクトのあるただ一つの業が、次生の生存形態を決定する。
「業(ゴウ)」とは「行為」の意味であり、この行為には身体的行為だけではなく、言語的活動も意志もすべて含まれる。これらを全て包括した行為全体の中でも、特に強い性質をもった行為が、次の生存形態を決めると唯識説では考えているわけだ。
とすれば、特に中国、日本の浄土教が強調する「念仏」、「十念」が、その決定的な業となり、その人の阿頼耶識の中の種子が再編されて《縁》となり、そのことと阿弥陀如来のいわゆる《本願》が《因》となり、次の生のあり方としてこの世界に転生するのではなく、浄土に転生すると考えれば、確かに世親の『唯識三十頌』と『浄土論』とは整合する。
浄土三部経の中で、十念を称えるごとに永遠の過去に遡って全ての罪が消滅するということが延々と述べられているのが不思議というか、現代の科学主義では理解困難であったが、輪廻転生観と唯識説に立脚すれば、確かに一つの雄大なコスモロジーとして整合的な構造をもっている。そう思われるのだ。
ま、こんなフレームを大枠として(今は)考えている。そういうことであります。
【加筆修正:2025-08-27、08-28】