2025年8月30日土曜日

ホンノ一言: 日本社会の保守性は何度書いてもどうにもならないか・・・

プロ野球の国際的祭典として定着した(かに見える)《WBC》が来春に開催される予定だが、その全試合の独占放送権をNetflixが獲得した、つまり日本の地上波でWBCの試合中継が流れることはない、と。これでもって、日本国内はちょっとした大騒動になっている  ―  おそらく大騒動になっているのは、この事態に陥った直接関係者である日本だけではないかと推量するのだが。

状況はどう変化していくのか、小生にはよく分からない。視聴したければ、開催期間中だけ、Netflixのアカウントを約千円で買えばすむ。たとえ広告付きスタンダードでも地上波より画質は良いし、生中継、録画を含めて全試合をいつでも(何度でも?)視れると思えば、大して高い買い物ではない  ―  ブルーレイへのダビングは出来ないと思われるが。

しかし、CMが流れないアカウントで視るとすると、日本企業が広告宣伝費を支出する動機はそれだけ弱まる。スポンサーとなる日本企業が減れば、主催者であるMLBにとっては損失だろう。今後は、日本企業が広告を出すモチベーションをいかにして維持するかがポイントになる。

どちらにしても、アメリカが儲ける話である、WBCは。

***

こんな騒動を見ながら思うのだが、ネット配信ビジネスが日本で立ち上がっていれば、何もNetflixに日本で開催される試合の独占放送権まで奪われる羽目にはならなかったはずである。Netflixの競合企業が日本でも生まれ、グローバル企業に育っていれば、高騰する放送権料も払えたであろう。

これが出来なかったのは、日本のメディア業界の閉鎖性、つまりは保守的体質のためである。

話しは変わるが、成田空港、羽田空港では、いま来日するインバウンド観光客を客待ちする外国人の《白タク業》が増えていて、その違法運転者をいかにして取り締まるかが大問題だと、よくTVのワイドショーでとりあげられている。

これを見ると、何だか外国人による犯罪が増えているという印象が拡散しそうなのだが、しかし「白タク」という言葉自体が、タクシー業界の独占的利権を肯定した上での言語表現であって、日本でもUberやLyft、Grabなどの現代的な配車サービス企業が既に立ち上がっていれば、何の問題も発生していないはずである  ―  もちろん、その時はその時で、新しいタイプの問題は生じる。要は、『まず、やってみなセエ』、ということなのだ。

これも日本国内の運送業界がひきずっている保守的体質がもたらした混乱だと言える。

明日は、上の愚息の誕生日で、祝ってやるような年齢ではないが、エスコンフィールドでファイターズ対イーグルスを観戦する予定だ。そのエスコンフィールド、今でこそ大人気だが、2023年の開業を控えた22年の秋だったか、記憶によればバックネットまでの距離が短すぎて規則に違反しているとの指摘があったよし。造りなおすかという極論もあったそうだが、野球の発祥国・アメリカのスタジアム設計の実態調査でもしたのだろうか、結局、ファイターズが罰金を支払うことで手打ちとなり、改造なしでOKになった(ようだ)。そして、蓋をあけてみれば、客席とグラウンドとの距離が短いというのが観客に高く評価される一因になっている。

この騒動も、日本のプロスポーツ界の保守的体質がもたらしたと言える。

***

アメリカ人は変えるのが好きである。にわかなポット出のバラク・オバマ大統領候補が、"Change!"を標語にしつつ、"Yes, We Can"と連呼して大統領に当選した国である。

他方、日本は《変えない》姿勢こそ《ブレない》と評価されるお国柄である。"We Can"ではなく《リスク》を先ず心配する国民性である。

少し以前はいまほど酷くはなかったが、ごく最近の日本では「変える」イコール「先輩を貶めている」と解釈されたり、「何様のつもりだ」と非難されたり・・・そんな「リスク」がある。また、「リスクを引き受ける」イコール「独裁者だ」と攻撃されたり、「自分独りでやれ」と罵られる、そんな心配がある。

1980年代末に日本経済は世界に追いつき、追い越そうとしていたが、その後の30年余ですっかり遅れてしまったのは、「海図なき航海」を日本のお国柄と国民性で乗り切ろうとした基本姿勢がその根底にあった。

経済戦略は、お国柄や国民性に寄り添って選択するものではない。ときに為すべき事は、(その時代の)お国柄や国民性に逆らうものである。

客観的に必要な政策の必要性を、政治家が国民の感性に逆らってでも説得しようと努力するその在り方そのものが、民主主義社会が正に民主的である証拠である。君主制社会であれば、政治家が国民の理解を得ようと最後まで努力する義務はない。究極的には武断的に措置することも可能である  ―  もちろん理屈としては逆のパターンもあるから、先験的にどちらが良いとは言えない。

戦後日本の諸改革が見事に成功したのは最高権力が占領軍にあったからだ。この事実を忘れるべきではない。

歴史を通して、日本で起きる変革には、多くは流血や内戦を伴っている。漸進的な路線変更を試行するのが、日本人は極めて苦手である。保守性はムベなるかな、である。

それにしても、日本社会の保守性、閉鎖性について何度投稿すればいいのだろう?ネットには、多数の同趣旨の記事を見かける。しかし、現代日本社会の大勢は変わらないだろう。

日本のお国柄と国民性が変わらないとすれば、戦後日本の民主主義のままで、世界の潮流に遅れることなく変化し、成長し、進化していくのは、もう難しいのじゃあないか、と。何だか、先祖から継承した老舗が屋号もろとも倒れていくような危惧を感じるのであります。「経済大国」に一度なったことが、その後の衰退への始まりであったとすれば、これまた現代日本を舞台にした『平家物語』とでも言うべきでありましょう。

2025年8月26日火曜日

断想: 浄土思想の「往生極楽」は論理整合的なコスモロジーになっているのか?

最近になって増えているのは仏教関係の投稿である。これは昨秋に五重相伝に参加し、それ以後、毎朝読経の習慣が身についたことが(一つの)契機になっている。

ただ分からない、というか頭の中で理解できないこともある  ―  頭で理解するのは邪道だというのは分かっているのだが。  

それは浄土へ往生するというときの《往生》をどう理解すればよいかだ。これは、古くは鈴木大拙、それどころか人間が地上に登場してからずっと全ての人を悩ましてきた問題であるに違いない。

一体、物質的身体が死して後に極楽という浄土へ往くのは何であるか?

これについても何度か投稿はしてきた。しかし、実は訳が分からなかった。キーになる概念が《阿頼耶識》という唯識論で想定する根底的な潜在意識であるという点は、色々な角度から勝手な解釈をこれまでにも述べてきた。

最近、調べていたのは、浄土へ往生するのはこの阿頼耶識に関係するのか、それとも浄土系宗派は唯識説とはまったく関係なく、独自の考え方をしているのかという点だった。

人間存在のあり方という点で、時代を問わず、洋の東西を問わず、色々な哲学が生み出されてきたが、唯識論の「八識説」というのは、小生にとっては最もピッタリと来る思想である。なので、このことと阿弥陀仏国への往生というのは、どう関係するかは、(小生にとっては)ポイントとなる思想的論点であったのだ、な。

仏教全体を通して、自己という「我」も実は「無我」であり、あると思った客観世界も実は「空」である。とするならば、阿弥陀如来の極楽世界を信じることと矛盾するのではなかろうか?一体、浄土へ往くのは浄化された阿頼耶識、つまり大円鏡智でないとすれば、何なのか?法然上人が『一枚起請文』で書いている

ただ往生極楽の為にはなむあみだ佛と申てうたがひなく往生するぞと思ひ取りて申外には別の仔細候はず

で「往生する」とされているのは、決して生身の物質的身体ではない。とすれば、精神的自己ということになるが、全ての仏教においては「無我」であるのだ。だとすれば、阿頼耶識でないとすれば、何が阿弥陀仏国に往生すると意味されているのか?

多川俊英『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』は、唯識論に立つ法相教学の本山である興福寺の立場から書かれている(そうだが)名著だと思う。

例によって、傍線を引いた箇所を抜粋、コメントを付して、覚え書きとしたい。

つまり生の執着をきれいさっぱり捨てられていないゆえに、私たちは永遠の過去から転生しつづけ、その永い旅路の果てに、こんにちただ今ここにいる。そして、その永い旅路のなかで為されたすべての行動の情報を阿頼耶識が保持しているということです・・・こうした阿頼耶識を、世親菩薩は、「恒に転ずること暴流の如し」と表現しました・・・それがやがて質的転換をとげて、覚りの智慧を構成する大円鏡智になる、というのが唯識仏教が考える仏道の完成です。 

哲学書には珍しいベストセラー(?)『善の研究』の著者・西田幾多郎の短歌に
わが心 深き底あり 喜びも 憂いの波も とどかじと思ふ
というのがある。何故だか心の中から理由もなく湧いてくる衝動や感情、思い出は潜在意識と言えばそれで済ませられるのだが、実は阿頼耶識という《識》の中に《種子(=シュウジ)》という形式の下に保持されている「その人の心の可能性」が、「心の現実の働き」として現れるものだ。つまり、阿頼耶識に蔵されている種子こそが、善悪を含めて、その人に色々な行為をさせる潜在的な力である。行為への力だから動機と言うのも可だ。

その人が先天的に有している善への可能性、悪への可能性はその人を支えている阿頼耶識が蔵している種子で決まる。

生きている間の行為は、すべて過去生から現在に至るまでの間に積み重ねられた行為(=業・ゴウ)が種子として植え付けられ、種子が(明確な動機として)現勢化することで現れるものだ、というのが唯識論にたった人間観である。種子の一部が現勢化するとき、人は動機づけられる自らを感じ、行為に及ぶのである。この時、考える(=マナス)識として設けられた末那識は『我は欲する』と思念させるはずだ。

なにごとも こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはん に、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべ し … …

あまりにも有名な『歎異抄』の第十三条。阿頼耶識に蔵せられる種子は、その人が行い得る行為の可能性を、過去から継承して網羅しているのである。こんな人間存在のあり方が唯識説の提示したモデルである。

上の西田の歌は、自らの心の奥の奥に何があるのか、自分でも分からないという意味である。


阿頼耶識と末那識が何であるかは、これまでの投稿で述べた。これらの潜在意識に対して、自覚される意識が「第六意識」、端的に「意識」と呼ばれる心の部分である。
学修の主体は、いうまでもなく第六意識です。様々な煩悩を抑制したり、身心を調整したりしながら、自己の精神世界をより高次なものにしていくことができるのは、まさに自覚的な心である第六意識です。
自覚された心の部分が、いわゆる「意志」であったり「思考」であったり、「感情」であったりする — 「知・情・意」と呼ばれている。

前にも書いたが、人間の最大の特徴は大脳という考える身体器官を備えている点だ。阿頼耶識は、身体に大脳が備わっていることを認め、大脳を駆動させるために「末那識」を考える主体として仮想的に設ける。末那識は、阿頼耶識に保存されている潜在的動機が顕在化するのに対応して、色々なことを望んだり、欲求したり、そのために考えるのだが、大脳は自覚された意識の中で自らに色々な問いを発する。それで「学修の主体」となりうるわけだ。自己や自我に執着する末那識に対して、逆に《自我》を発見し、そこから由来する煩悩という心の働きを認知するのもこの第六意識であり、その悪しき心の働きを止めて超越しようと努力させるのも第六意識の働きである、と。こう考えるわけだ。


ある人の阿頼耶識が、その人の死後も実在して、別の人の身体に乗り移るわけではない ― 当たり前のことだ。
今生で現れる阿頼耶識が一定期間を経て(身体と共に)消滅し、そして次生に現れる阿頼耶識は、前の生存の果報としてのものです。そこで、その場合の阿頼耶識を、果報の意味を持つ「異熟」の語で示すのです。・・・苦や楽の果報を受け、生死を相続する主体はなにか  ―  その疑問に答えたのが、(世親の著した『唯識三十頌』の中の)この第19頌です。生死の相続については、仏教も古代インドで一般的だった輪廻思想を受け継いでいます・・・その輪廻転生、生死の相続ですが、寿命とともに肉体も精神も滅びますから、いったい何が輪廻転生するのかということが問題です。 

これに対して、こんなコメントを書き入れてある。

そもそも「無我」である以上、自分自身の「精神」という実在は否定される。プラトンの輪廻観と異なるのは、往生極楽とは輪廻を離れて、生死とは無縁の浄土に往くことを意味するという点だ。これはこの世における生死から離れる、つまり「永遠性」を獲得するのと同義である。浄土という実在する世界を(ロジックとしては実世界からは観察不能な虚空間に)主張していることにもなる。

唯識説の阿頼耶識はまず、過去のすべての行動情報を「種子生種子」の心的メカニズムで劣化させず保持して、私たちを根底から支えるのですが、そうでありながらもなんら不変・実体でない。・・・こうした阿頼耶識こそ、まさに生死相続の主体ではないか・・・このように阿頼耶識=生死輪廻の主体という唯識説は、あらゆるものは空・刹那滅であり、アートマンのような常一にして主宰なるものなぞ存在しないという仏教の基本に差し障ることなく、生死輪廻の主体をみごとに解明したものといえます。

前の投稿でも書いたが、物質的身体には必ず親がいる。親にもその親がいる。物理化学的な生命はこのように過去に遡及して行くことができるわけで、いわば《生命の糸》というか、《生命の流路》という継承メカニズムが時間軸を通した生理化学プロセスとして存在している。これに対して、阿頼耶識は、生前の行為である業(=原因)と死後の転生である異熟(=結果)という、文字通り生死を超える関係の下で、永遠の過去に遡った情報が《記憶の糸》として、言い換えると《動機の糸》、《情報の流路》として継承され今に至っている。これが心の根底で我々を支える阿頼耶識である。今はこんな生命観をもっているのであって、どの人間存在も、というより一切衆生の存在は二本の糸、二筋の流路、つまり「物質的生命の流れ」と「非物質的情報の流れ」が相互に絡みあう形で成り立っている。こんな理解を(勝手気ままに)しているところだ。

極めて大雑把に譬え話しをすると

物質的身体  =  ハードウェア  =  機械

阿頼耶識  =  ソフトウェア  =  知識

とイメージしているわけだ。物理化学的な高分子化合物である身体を、意志をもった肉体として活動させる基本ソフトウェアとして阿頼耶識が機能する。

身体が動作を停止すれば、それとともに阿頼耶識も消滅するが、記憶の糸としては消えず、新たに結ばれる別の身体の中にインストールされて潜在記憶を保持したまま新たな阿頼耶識として働き始める。阿頼耶識は素粒子から構成されるモノではない。その意味では、阿頼耶識=情報の蓄積、もしくは阿頼耶識=知の塊とも言えるわけであって、紀元5世紀という大昔に大成された哲学にしては、唯識論という思想は極めて現代的な発想をしていることに気がつく。

分からないのは、その阿頼耶識そのものは、どのような背景から宇宙に誕生したのかという問いだ  ― 多分、永遠の謎であるに違いない。 AI(≒人工知能)は人類という知的生物が意図的に造り出したものだが。

ついつい連想するのは、カントが『純粋理性批判』の中で強調した先験的直観や先験的カテゴリーだ。時間や空間が外界には実在せず、それは人間理性が物事を理解するために経験に先立って設けた形式である。こう述べているわけだが、外界(=唯識論で言う器界)を認識するために時間や空間といった観念を阿頼耶識が保持してきていると考えれば、たしかにそれは個体としての人間にとっては、経験的知識ではなく、先験的直観となる。単一性、数多性、原因と結果、偶然と必然など、カントが挙げた認識のための純粋知性概念も同様。が、これはまったく別の論題でもあるので、機会を改めよう。

世親(ヴァスバンドゥ)という人は、唯識説をほぼ完成したインド哲学者であるが、同時に『浄土論』を著した仏教思想家でもあった — 別人であるという見立てもあるようだが、大勢は著者は同じと考える立場にある(ようだ)。とすれば、上のような唯識説と往生極楽を志す浄土信仰が矛盾しているはずはないのである。

なにか極めてインパクトのあるただ一つの業が、次生の生存形態を決定する。

「業(ゴウ)」とは「行為」の意味であり、この行為には身体的行為だけではなく、言語的活動も意志もすべて含まれる。これらを全て包括した行為全体の中でも、特に強い性質をもった行為が、次の生存形態を決めると唯識説では考えているわけだ。

とすれば、特に中国、日本の浄土教が強調する「念仏」、「十念」が、その決定的な業となり、その人の阿頼耶識の中の種子が再編されて《縁》となり、そのことと阿弥陀如来のいわゆる《本願》が《因》となり、次の生のあり方としてこの世界に転生するのではなく、浄土に転生すると考えれば、確かに世親の『唯識三十頌』と『浄土論』とは整合する。

浄土三部経の中で、十念を称えるごとに永遠の過去に遡って全ての罪が消滅するということが延々と述べられているのが不思議というか、現代の科学主義では理解困難であったが、輪廻転生観と唯識説に立脚すれば、確かに一つの雄大なコスモロジーとして整合的な構造をもっている。そう思われるのだ。

ま、こんなフレームを大枠として(今は)考えている。そういうことであります。

【加筆修正:2025-08-27、08-28】



2025年8月24日日曜日

断想: 今のChatGPTは相談相手として信頼できるレベルにない

前稿ではいま流行の生成型AI(≒人工知能)が問題解決に知恵を貸すパートナーとして働けるのかという点について今の感想を述べた。

まあ大雑把に言えば、いまの現状では客観的なアドバイスを提供してくれる賢いパートナーにはなりえず、どちらかといえば、主人におもねる家来、というか質問者のプライドを忖度してくれる今流の(?)のスタッフといったレベルかナア、とも感じている。

たとえば、最近何度か米価高騰と参院選に関連して投稿した農産物関税率の引き下げについてだ。ChatGPTに以下の質問を発してみた:

  1. 日本がコメ輸入の関税率を引き下げて海外の米輸入を増やすことは日本人をより豊かにするか?
  2. 反対に、「コメの輸入関税を引き下げることは日本の国益を害する」という判断には、どんな理論的根拠がありますか?

ChatGPTが回答した応えをシェアしておこう。要約するに、関税率引き下げが日本人を豊かにするかという問いには

コメの輸入関税を引き下げることは、経済的には日本人消費者の福利を向上させる可能性が高いが、文化的要因や政府の介入がその効果を弱める可能性もある。

と応え、関税率引き下げは日本の国益を毀損するという懸念に根拠はあるかとの問いには

輸入関税の引き下げは、日本の農業基盤・食料安全保障・地域社会・文化を脅かす可能性があり、これらを「国益」と捉える立場においては関税維持に正当な理論的根拠があるといえる。

と回答する。

自由化論者には『そうですヨネ』と答え、保護主義者には『そりゃ、そうですヨネ』と答えるわけで、こんな風では大事な意思決定のパートナーには使えないわけである。

仕方がないから、

上の二つの対立する見解を総合して、日本はどちらの方向を行くべきか?どう思いますか?

と質問すると、

日本は、コメに象徴される農業と国民生活の価値を守りつつ、経済的合理性に基づいた段階的な自由化と農業政策の構造改革を進めるべきです。これにより、消費者・農家・国家安全保障のすべてをある程度バランスよく守ることが可能になります。

こんな風に総括してくれる。

官僚(?)としては優秀だが、大臣に迎合するいわゆる《佞臣》に近いのが、現段階の生成型AIかもしれない。故に、人間を助ける「人工知能」とイコールではなく、ニアリーイコールというレベルだと感じた次第。

最近のバージョンアップでペーパーテストの難問を解くのは段々と得意になっているようだから、その意味でも今の生成型AIは、悪い意味での《秀才官僚向き》といったところである、な。

 いや話は逆で、日本的学校システムで高評価されてきたのは、どうやら生成型AIのような《試験秀才》であったのかもしれない。真の知識ではなく、パターンを暗記するという点も何だか似ているような気がして、暗澹とした気持ちになります。


2025年8月21日木曜日

ホンノ一言: AI(人工知能)は友達を超えたパートナーになれるのか?

 昨日はNASDAQが連日の下げとなったが、この背景として「AIビジネスの大半は利益出ず」という厳しい現実が明らかになったことがある(と言われている)。

ChatGPT、GEMINIなどの生成型AIは、いま小中学生の夏季休暇宿題でも活用されているようで、これには賛否両論があるとTVなどでは解説している  ―  別に世論を「統一」するべき事柄でもないと思うが。

確かに、生成型AI、というか広義の《人工知能》とどう付き合っていくかは、人類社会、現代文明の行く手を大きく決定するカギになるだろうというのは、もはや自明である。

このAIの普及とマクロ経済については、前にも投稿したことがある(最近はこれ)。

繰り返しになるが、AIの進化が人類社会にマイナスになるはずはない。これが小生の見方であります。

同じトピックに関してIMFからレポートが出たので、これに関してChatGPTに感想を問うてみた。URLを伝えれば、それが英文だろうと、仏文だろうと、独文だろうと、日本語で要旨を作ってくれる ― 仏文は全く分からないが、独文は時間をかければ何とかというレベルなので、これは本当に助かる機能だ。

その後、小生の見方を伝えて、どう思うかも聞いてみた。そのやりとりを覚え書きとしてシェアしておきたい。

小生がChatGPTに問うたのは

AIは労働資源というより資本資源であるから、AIを活用することで増える付加価値の大部分はAI所有者の資本所得になるのではないか?極端なケースとしてAIとAI所有者が全生産物を生産するとき、労働需要はゼロとなり、労働分配率はゼロ、資本分配率は100%になる理屈だ。確かにこう考えると、所得分配は不平等化すると予測されるが、マクロの需給バランスを考えると、この状態は持続不可能である。労働をしない人たちに付加価値、つまり可処分所得を支給する制度が不可欠になる。こういう筋道になるのではないか?どう考える?

という質問だった。これに対して、

まとめ:あなたの筋道は正しいか?

はい、「AIが資本として機能すれば労働分配率は下がり、持続のためには所得移転制度が不可欠になる」 という筋道は経済理論的に非常に妥当です。

最終的には、政治経済の選択――つまり、AIを誰が所有し、どう再分配するか――が社会の安定性を決めることになるでしょう。 

という風にまとめてくれたわけだ。


ChatGPTにいわゆる《忖度》をする傾向があるとも言われるし、そんな機能をAIがもつはずがない、とも言われる。

しかし、一次回答だけを見ると、問う人の内心を推量して、その内心を肯定する回答をしているのかと憶測できる余地もある。だから、

これは忖度ではなく、論理をチェックした結論なのだ

と信じられるだけの追加的な会話が要る。その点で、上の会話は不十分である。

純粋に、100パーセントの意味合いで、問う人の内心に迎合することなく、ロジカルな回答を与えるという「冷厳モード」は何か?この辺りがハッキリすれば、友人を超えた助手として十分働ける、というものだ。

2025年8月18日月曜日

ホンノ一言: 景気動向指数も疑問符をつけざるを得ないのか?

株価は景気判断をする際の典型的な先行指標である。その株価だが、トランプ関税による景気下押し懸念、実質賃金低迷による消費需要下押し懸念などから、景気の先行きには不透明感が増している。言い換えると、リスクが拡大している。

ところが、いま日経平均株価は極めて強気に上げ続けている。



不思議だ。

その他にも、幾つかの先行指標を総合し、数値化したのが景気動向指数の先行系列である。これを一致系列と並べて描画したのが下図である。



緑が先行系列、紫が一致系列である。見てすぐに分かるように、コロナ禍が明けた2021年半ばから4年の間、先行系列は低下トレンドを続けている。その一方で、生産・販売データを中心とする一致系列は上げ基調を続けている。

通常、先行系列は半年から一年弱ほどのリードタイムを示す経験則がある。実際、最近4,5年間より前までは、先行系列の動きを一致系列が追うような変動パターンが示されてきた。少なくとも、この4年間のように、一方が低下トレンド、他方は上昇トレンドという風に、正反対の傾向が何年も続くということはなかった。

景気動向指数のどこかがおかしい。

実際、
  1. 一致系列が示すように、国内の景気は基調的に上向きなのか?世間の感覚と余りにずれているのではないか?
  2. では、先行系列が基調的に下向きであるのに、なぜ株価は上げ続けているのか?こちらの方が不思議である。
  3. 株価が上げているのは、先行系列には含まれていない強材料を肌感覚的に投資家たちは知っているからではないか?
  4. だとすれば、一致系列が基調的に上げているのも合点がいく。
株価と世間の感覚と、先行系列と一致系列と、何が正しいのだろうか?

いずれにせよ、景気動向指数は整合性に欠けている。

景気判断をする材料として「GDP四半期速報(QE)」は使いづらいというのは、何度も投稿してきた(たとえばこれ)。景気動向指数の方が客観性に優れるとも書いて来た。その景気動向指数も疑問符をつけるとすれば、他に何がある?

話している事がバラバラのエコノミストの意見や、にわか専門家、TVやネットの井戸端会議に耳を傾けるのは、肥溜めの中から宝石を探すようなものだ。

結局、ChatGPTを助手にしながら、自分で調べ、自分で考えて、判断していく以外に道はない。

もともとそうであったのだが、厳しい時代になってきたものヨと、改めて感じる。統計情報環境は、明らかに劣化してきていると思う。



2025年8月15日金曜日

断想: 民主主義もまた「虚妄」であるのか?

カント以後のドイツ観念論哲学では、理性の限界がぎりぎり最大限の限界まで拡張され、ヘーゲルに至って世界は《世界精神の弁証法的自己展開》である、と。故に、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、と。この名言が生まれる事にもなったわけである ― ひょっとして前後の順が反対だったかな・・・

ヘーゲルに至らないまでも人間が実現できる倫理的価値、つまりは《善なる事》に関しても深い考察が加えられた。が、全体として

悪とは善が欠如していることをいう。即ち、善への意志が不足している。
ドイツ哲学については詳しくないが、どうもこんな理解がされている(ようだ)。

他方、仏教的立場に立つと、善を求めるのは当然そうなのだが、そのためには何よりも煩悩を断つことが第一だと強調されている。正に、毎朝読んでいる日常勤行式の最後に出てくる「四弘誓」の第一句、第二句にあるように

衆生無辺誓願度
煩悩無辺誓願断
と。宗派が異なると細部の字句もまた違うようだが、読経を始めた頃、小生は「〇〇無辺△△」という同じ文字が二度繰り返されていることが奇妙に感じられた。いまでは
生あるものは無限であり(同じ数だけの)無限の煩悩がある。無限の衆生を苦から救うため無限の煩悩を断つ。そう願い、誓う。
こんな意味合いだろうと勝手に見当をつけている。何が言いたいかと言えば、
仏教においては、悪を止滅できている状態が善である。
悪とは行為であるから、悪を止滅するには悪をもたらす心の作用、つまり煩悩を断つことが必要である。こんなロジックなのだが、上のドイツ哲学の見方とは微妙に違っているように感じる。

そう言えば、西洋哲学は《幸福》に最上の価値を置く一方で、仏教では釈迦以来、この世界は《苦》であるという認識から議論を始める。つまり釈迦が悟りとった《四諦》である。何だか座標軸のプラス側から俯瞰するか、マイナス側から仰望するか、に似ている。なるほどプラスとマイナスとどちらの側から見るかで、世界の眺めは正反対になるであろう。

やや話がそれるが、少なくとも数学的論証には《自我》による偏りが混入する余地がなく、その意味ではいかなる煩悩にも染まらず、故に真の智恵がそこには反映されている。そう思われるのだ、な。古代アテネのプラトンが創立したアカデメイアの門前には「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」という言葉が掲げられていたそうだが、それもムベなるかな、である。

だとすれば、プラトンが理想とする国家の体制を民主主義とはしなかったのも、これまたムベなるかな、である。真理を追究する議論において、「私はこう主張する」という自我の表出は害にこそなれ、益になることはない。

古代ギリシア世界において確実な知識と言うのは、現代社会と比べればまだ微々たるものであった。それでも、あらゆる問題解決に際して、まずは確実な知識を尊重して、知識に基づいて問題の解決をすることの大切さを、プラトンはあらゆる作品を通してくどい程に強調した。

地球が温暖化しているのか、していないのか、まだ論争は続いている様です。アンケートの結果をみてみましょう・・・
認識の問題に世論を持ちだす愚かな人はもういないはずであるとは言いきれない所が、現代社会の馬鹿々々しさの根源にある。聖職者が世俗の政治家に優越していた中世ヨーロッパで解答困難な問題に直面したとき、まずは聖書の記述を解釈することが求められた(と聞く)が、それはちょうど現代民主主義社会で世論を聴くのと大同小異である。聖書の文言と世論調査の結果と・・・人は根拠のないことに根拠を求め、馬鹿々々しさを感じるより、それを神聖視するものなのである。

知識の集積は加速的にその速度を増している。そして、集積された知識の活用は、生身の人間が担うのではなく、AIという人工の構造物が代替するようになってきた。そのウェイトは今後ますますAIの重みが増していくだろう。どんな問題にせよ、凡夫の愚論に問う必要はもはやなく、専門的知見から解を示すことが出来るようになる日が来る。

民主主義という「高邁な理想」に反対するわけジャアない。しかし、《世論》なるものの馬鹿々々しさが露呈され、より確実な《知識》に基づく統治が技術的にも可能になって来たのが、いま21世紀という時代であるのかもしれない。だとすれば、いまAI(=人工知能)なる新技術を警戒的な目線で眺めている人文系の知的人々や政治関係者たちは、ちょうど産業革命の進展の中で警戒の念を強めていたその当時の貴族や地主などの旧支配階級の心理と実はあまり違っていない。こうも言えるかもしれない。

主権者は、技術革新、知識の集積に伴って、変わりゆくのである。世論に基づく民主主義社会もその例外ではない。人間社会は無常である。不変の実在物ではない。いまの社会のあり方を是として、あたかもそれが実在であるかのように執着するのは、虚妄にこだわる煩悩である。そう感じる今日この頃であります。

とはいえ、政治という点で民衆が主権者の地位から(実質的に?)滑り落ちるとしても、人間は善を志すことが出来る。社会において善を実現する仕事は、おそらくAIがどれほど進化しようと、この課題は人間に残されるのではないかと考えている。(また再び)しかしながら、自我の混じった「染汚の心」は(以前は信じていた功利主義的思考には反するが)社会に善をもたらすことはないと考えるので、民主主義の価値観が復活することはまずないのじゃあないか、と。こうも予想しているわけであります ― 浄土に往かず、この世の未来に転生しない限り、見ることはないと思うが。

美の実現、これも最後まで人間に残される仕事かもしれない。美は神が実現しているとも言われ、浄土の荘厳も語られている。しかし、美については浅学のためよく分からない。

【加筆修正:2025-08-16】

2025年8月12日火曜日

ホンノ一言: 靖国神社をめぐる「まぎれもない正論」?

我が家では、広島原爆記念日の8月6日から寺で施餓鬼会のある8月18日までを、いつからか「鎮魂週間」と呼ぶ習慣になった。今月は23日の月参りもお休みなので、(普段より時間はかかるが)阿弥陀経全文でも読誦しようと思っている。これも今後の新しい習慣になるだろう。

マ、とにかく毎年の八月上旬から下旬にかけて、これほど弔いや慰霊の集中する期間は他にない。


先の戦争と敗戦を思い起こす時機にも当たるのか、政治記事が多く見られるのも今頃だ。たとえば、いま進行中の自民党内・石破おろしに関連付けて以下のような意見もチラホラと目につくわけで、こうした片言隻句にこそ、現代日本人の心の中のホンネが出てくるのだと小生は思っている:

「高市氏の外交姿勢です。特に“首相になった場合も靖国参拝を継続する”と主張した点が問題視されたと見ています。実際その点を指摘する議員もいました。高市氏を支持する勢力にとって心強い訴えだったようですが、それによって票が逃げ、半分くらい腰かけていた女性初の首相の座からも滑り落ちてしまった格好です」

(中略) 

もっとも、祖国のために心ならずも戦地に赴き亡くなった方々に心からの哀悼を捧げ、平和に感謝すること自体、何ら批判や非難、干渉を受けるいわれはない。そもそも内政の問題であり、また日本には信教の自由もある――これはまぎれもない正論。

URL:https://www.dailyshincho.jp/article/2025/08050551/?all=1

Date:2025年08月05日 

なるほど『戦地に赴き亡くなった方々に心からの哀悼を捧げ、平和に感謝すること自体、何ら批判や非難、干渉を受けるいわれはない』という部分を非難する人はいるはずはないし、それは世界共通の思いだろうと、(勝手に)判断している。

これは紛れもなく正論だ

しかし、靖国神社については正論が当てはまらない現状になっている。即ち、「戦争責任」というより「開戦責任」と言うべきかもしれないが、1978年10月17日、靖国神社は、A級戦犯のうち、死刑判決を受けた7人とほか7人(判決前に病死した2名を含む)の計14人を秘密裏に合祀することにした。いま日本国の総理大臣が靖国神社に公式参拝することに、これほど神経を使うようになったのは、これが(唯一の?)理由である。もちろん、以後、天皇を含めて皇族は靖国神社を参拝していない。


日本の皇室すら参拝しない現状の靖国神社に「正論」は適用できない。日本の皇室すら参拝しないのに海外が理解してくれるはずがない。

現在の日本は、靖国神社とは関わりのない形で、戦没者を慰霊しているのである   ―   靖国神社の廃止については、戦後早々に発表された石橋湛山の意見に小生も賛成だ、というのはずいぶん昔に投稿している。

であるので、高市議員は異端的な歴史観、価値観をもっていると判断されても仕方がない。


もちろん、靖国神社に合祀された14名は、戦争の犠牲者として祀られる資格がないかといえば、詳細に生前の発言行動を精査すれば、必ずしも公式評価のとおりではなく、歴史の中で犠牲者となった何人かに過ぎないわけである  ―  こういう「評価」こそ、これまた「微妙」であるのが戦争の帰結というものだが。

しかし、確立された歴史観を覆すのは、現時点における政策であり、主張である。もし現在の靖国神社を是として、世界の理解を得ようと考えるなら、踏むべき外交的手順が要る。それをすっ飛ばして、指導的な政治家が公式参拝するとすれば、仰山に言えば戦前期・日本が当時の国際連盟を(ケツマクッテ)脱退した時と同じ、海外からのリアクションが予想されるであろう、と。

これ以上の話しは必要ないと思う。別にもつれた糸のような複雑な経緯があるというより、実は単純な話だと思う。



2025年8月10日日曜日

断想: 先日投稿の修正と補筆 ― 阿頼耶識と生命の糸について

先日の投稿に書いた勘違いというか、軽率ゆえの混乱に気がついたので修正・補筆しておきたい。具体的には

この阿頼耶識は例えば三島由紀夫の『豊饒の海』の第3巻にあたる『暁の寺』でも物語の中心テーマになっているのだが、小生は勝手に阿頼耶識は、永遠の(とは言えず有限の)過去に誕生した(個体としての)「生命」をずっと継承し続けてきた一本の生命の糸のような存在、というか断絶のない流れに似ている。と、こんなイメージを(勝手に)もっている。生命体は有性・無性生殖を含めてすべて母体の細胞に遡れる。母親もまたその母に、そのまた母も・・・と生命誕生時にまで遡及して行くことができる。もちろん(父系があれば)父系を遡ってもよい。

この箇所は理屈としてはおかしいわけである。

何度も書いているように唯識論で言う阿頼耶識あらやしきは、自らの身体(=有根身)と環境全体(=器界)、それから過去生から継承された潜在記憶(=種子しゅうじ)を認識対象としているが、だとすれば身体が死する時点で阿頼耶識は物質的身体を失う理屈であるし、阿頼耶識が認識対象から身体を外すことによって身体は死に至るのだ、とも考えられるわけである。

確かに物質的身体もまた過去から切れ目なく継承されてきた有機物質ではあるが、それが物質的死を迎える時に、阿頼耶識は物質から切り離されて、100パーセント非物質的な流れになる。煩悩が浄化されて浄土世界に往くのでない限り、この世界に留まり、生への執着として流れ続ける。新たに形成される物質的胚芽が非物資的要素である阿頼耶識を受け入れることから持続可能な一個の生命体が生まれる・・・これが正当な唯心論のロジックである(と今のところ理解しております)。

あたかも永遠の過去から継承され続けてきたこの身に宿っている生命の糸が、それ自体として阿頼耶識であると同定するのは、個体的死を迎える時点で阿頼耶識は物質的身体を失うのであるから、論理が通らない。

それはさておき、先日の投稿では人間に宿った阿頼耶識が大脳という《考える器官》を駆動させるために、末那識まなしきという仮想的主体をつくり、その末那識が《我》として大脳を動かす、この時点で自覚される意識が第六識としてつくられる。自覚される「意識」、つまり五感とともに動く第六識であるのだが、これは大脳活動の化学的状態を理解可能なイメージやロジック、言葉という形式で映し出すモニターのようなものである、と。先日の投稿ではこんな風なことも書いている。

どうもこの書き方も、浅い見方であると気がついた。というのは、自覚された意識は大脳が考えた結果を単に映し出すだけではなく、言語を学び、自ら問いを発し、大脳を駆使して思考し、その結果について更に思考を深めていくことが、意識の中において可能だからである。

自覚される意識である第六識は、考えるという行為の背後にある「我」という存在にもいずれ気がつく。この「我」は「存在」ではなく、考えるという行為を可能にするために仮想的に定義された末那識に過ぎないものだが、この「我」が心の作用として様々な悪をもたらすことにも気がつく。これが煩悩である。自己に執着する末那識に由来する煩悩もあれば、第六識が自覚して作り出す悪もある。意識が自らを自覚することによって、自らが作り出す悪を煩悩として認識できるだけではなく、善を志す意思をもつことも意識には可能である。悪を行う根本的原因である煩悩を認識して、更にこれが根源的には阿頼耶識に保蔵される種子が、「業」として働いていることにも気がつく。自覚された意識は煩悩を滅却し、阿頼耶識を浄化しようと自らに努力させることも可能なのである。

確かにこの種の意志的な努力は人間にのみ可能な行為だ。法然上人が「一紙小消息」で

うけがたき人身をうけて、あひがたき本願にあひて、をこしがたき道心ををこして、はなれがたき輪廻のさとをはなれて、むまれがたき浄土に往生せん事は、よろこびの中のよろこび也。
と記したのも、ムベなるかな、と言える。

このように考えると、先日の投稿のように第六識は単なるモニターであると述べるのは、まったくの誤りだ。自己反省なき思惟には常に自己中心性が混じり、汚れた思惟になるが、染汚ぜんまを浄化しようと努力することも、(人によっては)可能なのである。そのための具体的修行プログラムが、本来は宗教としての仏教、つまりは仏道というもので、この理屈は現代においても基本は同じである・・・そう思っているわけであります。

以上、先日の修正、補筆まで。

2025年8月6日水曜日

断想: どちらの大学がイイかなんて、分からないし、どうでもイイでしょという話し

いま世間を騒がせている静岡県の伊東市長が頭の中でイメージ化されているのだろうか、変な夢をみた。上の愚息と実に下らない話をしている。夢の中でも「下らないネエ」と感じつつ、愚息にもそう指摘していたくらいなのだが、目覚めてから記憶に残っているやりとりをたどると、それほど下らない話でもないようで、メモ代わりに残しておく:

愚息:お父さんが出た〇〇大学と叔父さんが出た△△大学とどちらがイイの?

小生:下らないことを聞くなあ。イイって言うのはどんな意味なんだ?

愚息:ン?深い意味じゃないよ。偏差値とか、どちらに勉強のできる学生が集まっているとか、どちらが卒業してからイイ仕事についているかとか・・・

小生:ふ~~ん。聞くけど、巨人とファイターズとどちらがイイんだ?

愚息:それは分からないけど、5回戦くらいしたら、勝った方がイイってことになるんじゃない?

小生:それは、その時は強かったということで、イイというのとは違うだろう。大体、〇〇大学と△△大学でこれから野球をやるわけにはいかんしなあ。野球選手には、野球の能力を測る偏差値なんてものはあるのか?

愚息:野手なら打率とか、ホームラン数とか、ああ最近はWAR(Wins Above Replacement)っていう数字が使われてるかな。何か勝利への貢献度を測っているんだって・・・これなら野手と投手をそのまま数字で比べられるよね。

小生:野球はペナントレースとかポスト・シーズンで勝つのが目的だからな。勝利貢献度を測りたいっていうのも分かるがな、大学への貢献度っていうのがあるのか?

愚息:大学への貢献度を測るのはまずいんじゃないかなあ・・・別に入った大学に貢献するために入るわけじゃないからサ。

小生:一体、何を言いたいンだ?どちらの大学がイイかって聞いてるけど。こんな話し、下らないと思わないか?大体、巨人でWARだったか?その数字が高い選手がいて、ファイターズにいる選手のWARより高いからといって、WARが高い選手の方が低い選手より野球選手として有能ってことになるのか?

愚息:それはならないと思う・・・おそらく年俸を決める時に使うんだろうね。順位がついて使いやすいから。

小生:じゃあ、巨人とファイターズとどちらがイイ選手を集めているか分らんじゃないか?どちらがいいチームかなんて、もっと難しいだろ?大学ならもっと分からないヨ。

愚息:お父さんは、大学のAランクとか、Bランクとか、Fランとか、どう思ってるの?

小生:文部科学省の役人とか、会社の人事課とか、使いたい人が使えばいい。それだけサ。マ、そんな数字で機械的にやってるようじゃ、管理者としてはお先真っ暗だけどネ。お金がからんだときは、何か数字とか、マークとか、ステージとかが欲しいもんだヨ。一種のメーターだな。

ここで目が覚めた。最後は「カネ」でまとめているところが、発想の貧困さを伝えている ― 話題自体が内容貧困な話題であったから仕方がないが。ただ思ったりするのは、人間ドックを何度も受けてきたが、各種検査で出てくる数値を一つの数値にまとめた「総合健康指数」、英語でいえば例えば"CHI: Consolidated Health Indicator"とでも言えるような指標がなかったことは、とても幸せであった。もし略称"CHI"なる数値が人間ドックをするごとに算出されていれば、それ自体がストレス要因になっていたのは確実だった。そんな下らない数値がないことは実に幸福なことであった、と。そう思っているのだ、な。
 
悪い所が出て来れば、病院で診察してもらう。寿命には天寿がある。
やりたい事があれば、適した教育をまず受けて修行する。成功と失敗は才能と運に任せる。 

善因善果。悪因悪果。結果を社会のせいにしたり、他人のせいにして恨んだりしない。 シンプルな生き方の方が複雑な生き方よりはイイ生き方である。これだけは断言してもよいと思っている。 

大根2本と人参が3本のパッケージがある。一方、牛肉が300グラム、チキンが200グラムのパッケージがある。実は、この二つのパッケージ、総重量が500グラムで同じになった。

この二つは比較不可能だ。ところが、ここに『重量という点では、この二つは等価、つまり同じに評価してもイイですヨネ、と。こんな見解をのたまう専門家がいる。誰でも阿呆と思うだろう。市場価格で評価するべきだとこだわる御仁も同じだ。

一つの数値に換算して比較する内に、実質がなくなり空っぽになったことに気がつかない専門家は世間に多いものだ。

2025年8月4日月曜日

断想: 戦争ではなく平和を続けるためのエートスとは

和辻哲郎と言えば、戦前期・日本での評価は実感として分かるはずもないが、少なとも戦後日本社会からは大いに愛されてきた学者・随筆家で、かつては高校入試、大学入試でも 頻出作家として受験生からはマークされていたものだ。特に『面とペルソナ』や『古寺巡礼』あたりは、誰もが一度は目を通しておくべき作品として名前を耳にした10代 の若者は、その当時、多かったはずである。その『古寺巡礼』をいま枕元において、パラパラとめくっては、拾い読みをしている。何だか懐かしい文章がそこにはある。

久しぶりに帰省して親兄弟の中で一夜を過ごした・・・昨夜父は言った。お前のやっていることは道のためにどれだけ役にたつのか。頽廃した世道人心を救うのにどれだけ 貢献することができるのか。この問いには返事ができなかった。五六年前ならイキナリ反発したかも知れない。しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下 げないではいられなかった。・・・父の言葉はひどくこたえた。
現代国語の入試問題を作成しているなら、
  1. なぜ父の言葉がひどくこたえたのか、著者の思いを100字以内でまとめなさい。
  2. 著者の父が使っている「道」とはどんな事を指していると思うか。文中で使用されている言葉を使って10字以内で答えなさい。
まあ、この位の設問は是非入れたいところだ。

それにしても、父が息子に対して「ひどくこたえる」文句を口にする情景は、昔も今も変わらないとつくづく思う。小生も父からは散々に《低評価》されたものである ― 本気で息子を低評価したいと願う父親などいないに決まっているが。

確認すると、『古寺巡礼』が岩波書店から刊行されたのは、大正8年(1919年)であったと巻末の解説には書かれている。父のいう「頽廃した世道人心」が無視できない ような現実があったのだろうかと考えると、確かに混迷した世界がそこにはあったわけだ。大正3年から続いていた第一次世界大戦は前年の大正7年にドイツの内部崩壊で終わり、 翌8年にはベルサイユ講和会議が始まっていた。日本は連合国側であったため敗戦の苦渋は免れたが、戦時中のインフレとバブル景気から食料品価格が暴騰して、全国 で《米騒動》が起こっていた。和辻哲郎の父が

頽廃した世道人心を救う
ことこそ、まずお前が為すべき事だろう、と。明治の世代であれば、確かにそう考えたはずであろう。その位は、約100年後の令和・日本に生きる小生であっても、何となく想像はできるのだ、な。《公私の公》こそ明治の精神、というより武士の精神として重んじるべき規範であったのだから。

公私の公。臣より君、人より神、欲より大義、下より上、と言ってもイイかもしれない。

加えて(と言うべきか)、日本という国には衆生済度を旨とする大乗仏教の伝統がしっかりと根付いている、というより、いた。この理念と公私の公が結合すると、それはそれは強烈に人を縛っていたことであろうと想像している・・・
そんなの親世代の押し付けだろ!おれには関係ないよ!
こんなやりとりこそ「公より私をとる町人国家」として歩む戦後日本には相応しい。が、この種のエートスでは公の公たる国は守れない。故に、世界の公たるアメリカを(尊敬して?)頼る、というより頼って来た。アメリカはアメリカを(命をかけて)守ろうとしているし、親アメリカ勢力をも(可能な限り)守って来た。

それでも心配だ。栄光ある古代アテネの民主主義も最後には反民主主義陣営に敗北したのだ。後には専制的なヘレニズム世界に拡大、吸収されていった。

情けないナアと思う日本人が(少なからず?)いることは知っている。

なおそれでも、戦争ではなく、(曲がりなりにもでも)平和を続けるには、世道人心を救うことになど関心をもたず、衆生済度などには無関心を決め込み、ひたすら自分自身の願望と欲望を追求することが、正しい道なのである・・・マ、確かにこれがロジックであると考える自分がいる。

合理性と情けなさは往々にして同居するのである。非合理性と立派さが両立するケースが意外と多い事実と同じである。

2025年8月1日金曜日

断想: 同じ楽曲がなぜだか前触れもなく蘇るのだが

少し前の投稿

近代ドイツ哲学では「理性」の働きには強い関心を示したが、仏教でいう「煩悩」を正面から深く議論してはいなかった
と、こんな風な事を述べていた。今日はそこを補足しておきたい。

実際には、カントが「根元的悪(radikales Böse)」を考えていて、ただそれは(シェリングは例外かもしれないが)、「善の欠如」に近い概念で、いわゆる「煩悩具足の凡夫」という人間観とは違うと思っているのだ。
 

なぜこんな話題から書き始めたかといえば、この何日かどういう訳か知らないが、ずっと昔によく好んで聴いていた"Die Alte Kameraden"が頭の中で、というか心の中で鳴るのである。と思うと、ベルリンフィルのWaldbühneでアンコールの定番になっている"Berliner Luft"(ベルリンの風)が何度も耳の奥でリピートされる。思い出そうとしているわけでもなく、何の契機があるわけでもなく、無意識の世界から蘇るように、何度も繰り返して演奏されるのだ、な。こんな経験は誰でもあるのではないかと想像するのだが、自らの意図とはまったく別に、なぜそんな考えが心の中に湧きおこって来たのだろうと、後になって不思議に思うことは他にもよくあることだ。

唯識論の八識説は本ブログにも投稿したが、そのカギとなるのは阿頼耶識あらやしきである。仏教思想の(一方の)基礎となっている《空の思想》(=中観派)では、すべては空であると実在性を否定するところから話が始まる。しかし、これでは空という概念すらも否定されるはずだ。中観派の後に登場した瑜伽行唯識ゆがぎょうゆいしき派では、阿頼耶識が死と転生を繰り返す輪廻的生存の根底に実在して   ―   「実在」というと専門の方に叱られそうだがこれはまた別の機会に  ― 、 過去から現在、未来へと継承される本体だと考える。弥勒、無著、世親を以ていわば古代以来のインド哲学思想は一つの終着点を形成するわけである。

この阿頼耶識は例えば三島由紀夫の『豊饒の海』の第3巻にあたる『暁の寺』でも物語の中心テーマになっているのだが、小生は勝手に

阿頼耶識は、永遠の(とは言えず有限の)過去に誕生した(個体としての)「生命」をずっと継承し続けてきた一本の生命の糸のような存在、というか断絶のない流れに似ている。
と、こんなイメージを(勝手に)もっている。生命体は有性・無性生殖を含めてすべて母体の細胞に遡れる。母親もまたその母に、そのまた母も・・・と生命誕生時にまで遡及して行くことができる。もちろん(父系があれば)父系を遡ってもよい。

生命体(=有情とも衆生ともいうが)の物質的身体が死ぬとき物質的身体を駆動していた阿頼耶識は別の個体と結合し転生する、そう考えるのが唯識論がいう輪廻転生の本質である。「輪廻的生存」とは永遠に死と生をこの世において繰り返す生命現象のあり方を指している。生けるものなら持っているはずの「生への執着」という煩悩に塗れている限り、阿頼耶識は転生を繰り返し、悪のはびこる濁世の中で煩悩苦を何度も経験する、というのが仏教的な宇宙観である。

阿頼耶識と結合することから物質的身体は生命をもって活動を始める。たとえ人工的生命体を(一時的に)創造するとしても、それはホムンクルスに過ぎない。つまり、物理化学的に進行する物質的プロセスだけでは、持続性ある《生命体》は生まれず、生命を生むのには十分な非物質的要素がいる。それが小生の理解する阿頼耶識であって、その意味では小生はかなり厳格な《二元論者》であることを自覚するようになった。

人類の特質は、考える器官、つまり《大脳》を備えている所だ。人の根底にある阿頼耶識は、自らの物質的身体を把握するが、視覚や聴覚などを可能にする感覚器官とともに、考える器官である大脳をも使う。器官としての眼や器官としての耳などなど眼・耳・鼻・舌、身の五感覚器官が提供する知覚情報を受け取り、表象を形成する《前五識と第六識である意識》と共に、得られた情報について考えたり、判断したり、推論するための器官である大脳を駆動させる第一の主体は阿頼耶識である  ―  なぜ大脳の適切な使い方を知っているのか、それは解決困難な謎だと思う。

しかしながら、《考える》という動作そのものは大脳が行うのであって、故に思考そのものは大脳という物質的器官の物理化学的な反応プロセスである。それは確かにそうなのだが、考えるには考える主体が必要である。この事を唯識論哲学では「みられる対象」と「みる主体」との分離と呼んでいる。「考える我」と「考えられる対象」とはこの段階で分かれる。眼で見ようとし、耳で聞こうとする主体は阿頼耶識である。同じように、考える器官を把握した阿頼耶識は大脳に考えさせようとする。考える対象について人間に考えさせているのは、その人の阿頼耶識である。しかし、考えるためには《我》という仮想的存在を定義しなければならない。これが唯識論で言う第七識としての末那識まなしきであると、勝手に理解している。

「我」が考えるから「我」があるのではない。人間の大脳を駆動させて考えるには「我」が仮想的に必要なのである。

デカルトとは逆にそう思うようになった。阿頼耶識は過去生から現在生、更に未来生へとつながる糸であり、いま生きている身体に宿る「魂」ではない。故に「我」ではありえない。しかし身体器官としての大脳を駆動させて考えるには、「この身に宿っている我」を仮想的に設定する必要がある(と今はイメージしているわけだ)。つまり、人の根底にある阿頼耶識は、「我」として自覚する末那識に考えさせるのであるが、実際に考える動作をするのは物質的器官である大脳である。

末那識(=我)は阿頼耶識が求めることを考えるのである。そして、阿頼耶識を常に見つめる末那識は、永遠の過去からずっと継承されてきた《業》の余習(≒潜在記憶)、即ち《種子しゅうじ》の中の、たまたまその時点で燃えている部分、つまり活性化され《現勢》となっている種子に応じる内容を「考える対象」として大脳に伝え、大脳はそれに応えて考察したり、意図したり、想像したり、あるいはまた思い出したり、回想したりする・・・その結果が"Die Alte Kameraden"であったり、"Berliner Luft"であったりする。

こういうことか・・・??

とすると、わが身の根底に実在する阿頼耶識は、一体、どんな因縁で、どんな種子が熱を帯びているのだろう?

いずれにせよ、煩悩の炎に小生の思惟は焦がされているものと推測される。

阿頼耶識も末那識もすべて無意識下において活動している。人が自覚している第六識である「意識」は、大脳内部の化学的状態をイメージや論理として解釈しているだけである。ちょうど半導体の物理的プロセスの結果を人間の目に可視化するPCのモニターと同じ役割を果たしている。


最近になって私たちは、AI(=人工知能)によって色々な問いかけに答えさせている。問うのは端末の前にいる我々であり、考えているのはネットの彼方にあるサーバー群であると使っている側はそう考えている。しかし、実は「考えている」のはサーバー群ではなく、またサーバーを構成している半導体でもない。物質的存在である半導体は「考える」ことはできない。もし半導体が考えられるなら、自動運転で動いている自動車も考えていることになる。半導体の中で進行する物理化学的な反応プロセスを解釈して、「考える」という動作に対応付けている人間の側の《設計》、即ち《知識》が、実は半導体に考えさせている本体である。人間と大脳の関係もまた同じである。

AI(人工知能)に対して考えることを要求しているのは、AIサーバーとは別に遠く離れた所にいる人間たちである。そして、考えている真の実在はサーバーという機械でも、それを構成する半導体でもなく、それらを設計した人間であって、更にいえば人間がそれらを創造できる基礎となっている《知の体系》である。《知》という実在があれば、別に人類という生物がおらずとも、同じ現象が自然界に生じ得るわけだ。過去から生命をつないできた糸として考えられる阿頼耶識はここに関係している。


とマア、以上、最近になって考えている事を覚え書きにしたまで。

【加筆修正:2025-08-02】