2019年3月9日土曜日

一言メモ: 政策不効率の原因になりうるマスメディアの理解力不足

官庁統計をめぐる問題は、基本的には単純な技術的、というより初歩的ミスの見落としに主たる原因があったと報道等では伝えられている(多数の関心は首相官邸の指示の有無など別方向を向いてしまったが)ので、これ以上はあまりつけ加える点がなくなった。

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ただ、この騒動を通してつくづく痛感したのだが、厚労省内の特別監査委員会、総務省に設けられた検証委員会の作業でほぼ明らかにされてきたような、大半の幹部に通有する統計業務への無理解と無関心だ。そして、現場の統計業務担当者にある疎外感と事なかれ主義的体質である。

まあ、小生にも分かるような気はする。あれから30年……、現場も変わっているに違いないから。色々な事があったはずだ。

これでは、幹部を処罰しても『運が悪かった』、担当者を処罰しても『自分に何が出来たのか?』という反応しか期待できず、本当に困ったものだと思う。そして、この辺に問題の核心があるということは、厚労省の特別監査委員会や総務省の検証委員会の認識を丁寧にフォローしていれば、自然に正確な状況認識がそろそろ浸透してきていてもよいはずである、と。そう思われるのだ。

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ところが、首相官邸の指示の有無や首相官邸への忖度があったのではないかという功名心にも似た先入観に凝り固まったマスメディアは、自分のイメージと事の本質が少々違うという点が(もうさすがに)分かってきたと思うのだが、それでも問題解明の基本的な方向を正しく理解するのに非常に時間がかかっている。

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東京地検特捜部の常套戦略ではないが、メディアが先入観をもってストーリーを先取りして報道すると、政治や行政に高い関心をもったA層だったか、B層だったか、「▲▲層」もその報道に無批判的に影響される。

時間が経過した後で、マスメディアが最初のイメージと実際の内容が違うと知れば、マスメディアは方向が誤っていたとは言わず、ただ報道をしなくなるだけなのである。

しかし、正しい方向への解決策が当事者によって直ちに実行されるわけではない。正しい対応を実行するには、それが正しい方向だと世間全般が正しく理解していることが必要である。マスメディアは、世間が抱いているイメージが事の本質とはずれていると知りながら、その乖離を指摘することには消極的である。

もし、問題発覚後、規定の行政ルーティンに則して検証なり監察が淡々と進められ、検証結果が確定するまでは一切の対メディア対応を停止するならば、今回のようなケースではもっと遥かに効率的に措置すべきことが可能となっていただろう。そして、1年もたてばいわゆる「統計不正」について行政評価がまとめられ、緻密な検証結果がレポートされているだろう。

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本当は、そんな道筋について国会議員は質問するべきなのだろう。ま、「べきだ」とここに書いても、まったく意味はないのだが。

以前の投稿でも書いたように、世間で統計が分かる人は少数だ。故に、不祥事が起これば長きにわたって「迷走」する。分かってもらえるまでは改善されない。そんな風になってきている。

色々な瞬間にマスメディアの活動が社会的不効率の原因となっていると批判されることが多いが、今回の統計不正の件においても、メディアの側の理解力不足から先入観報道をやってしまったのではないか。とすれば、またまた無駄な社会的コストを支払ってしまったことになる。これも「民主主義のコスト」などだとすれば、民主主義ってヤツは「べらぼうにカネのかかる仕組みでござんすな」と、そんなことを言う輩が出てくるかもしれない。

2019年3月7日木曜日

一言メモ: 官庁統計業務は『何らかの対応が必要だ』の好例

厚労省の毎月勤労統計は現在もなお炎上中であるが、統計業務の総括を任じる総務省でも類焼が起こりつつあるようだ。

「家計調査」である。少し長いが引用しておこう:
その一方で、総務省の「家計調査」が、昨年は個人消費がやや持ち直した形になっていました。これをとらえて、政府もそれに近いエコノミストも、個人消費が回復を見せ始めたと、前向きに評価しています。
しかし、その家計調査も、途中で調査用の「家計簿」を変えてしまい、データの不連続や分かりにくさが強まったほか、「2人以上世帯」の改善に対して単身世帯を含む「総世帯」の不振が際立ちました。
そして、さらに不自然なデータが出てきました。 
(中略) 
ところが、2018年の世帯構成が突然若返りました。世帯主が60歳以上の世帯割合が52.3%と、前年の53.4%から1%以上も減りました。
また年々増加している「無職世帯」の割合も18年は33.8%と、前年の34.6%から減少。代わって「勤労者世帯」が52.9%と前年の49.6%から大きく増加しています。
無職世帯の消費額は勤労者世帯に比べて2割程度少ないため、消費額の大きい勤労者世帯の比率が高まると、それだけ平均消費水準が高まります。
定年延長で無職世帯に移らず、勤労者世帯に留まる世帯が増えることはある程度理解できますが、この動きはこれまでも徐々に進んでいたわけで、2018年に突然勤労者世帯が大きく増加したのはあまりに不自然です。
まして60歳以上の世帯が減るというのは、さらに不自然です。片方が亡くなって単身世帯が増えているなら、それらを含めた「総世帯」の結果を毎月公表すべきです。
このサンプルの変化が消費水準を高めるために、意図的に行われたとすれば、まさにデータ偽装になります。
URL:https://www.mag2.com/p/money/647458

「家計調査」はGDP統計の基礎統計(というより四半期計数の基礎統計)の一つにもなっているが、水準の推計に使うにはともかく、前年比などの「変化」をみるには余りにもサンプル入れ替えに伴うノイズが大きく、特にリアルタイムの景気判断に重用するには極めて不適切であると小生は考えてきた。かつ、水準推計に使う場合でも費目間でアンバランスな「過小性」が否定できず、大いに問題を含んでいるというのは、小生がずっと昔に学会や専門誌で公表した結果にも現れていることで、これまた「家計調査」を常用している人なら感覚的に分かっているはずである。

それを今さら「信用できない」と批判してみても、同じ畑で仕事をしている人なら「分かっとるワ!」と言うところなのだが、問題は本当に総務省の統計作成業務が問題視されてきたときに、それを行政評価したり監察するための行政組織が同じ総務省内にしかないことだ。

いまでも厚労省内の身内の監察委員会報告は「甘すぎて信用できない」と批判されているくらいだ。

先が思いやられるとはこの事だ。

前にも投稿したが、行政機構の再配置を内々にでも検討し始めたほうがよいのではあるまいか ― もうしているかもしれないが。後手に回ると、もたないのではないかと予想する。司法統計の不正で法務省、ひいては検察庁全体が動揺するようなものだ。犬の尻尾が胴体を振り回すようなものだが、まったくブラックユーモアにもならないだろう。

厚労省の「不正統計」は、それ単体を(伝えられているままに)みると、プログラムコード管理者と推計担当者レベルの不注意と怠慢が原因であると(専門家の間では)おおよそ見当がついている状況だ。要は、再発防止策を技術的観点から立案すればよい。ただ、経緯を踏まえた事後的監察が満足に機能していない点は否定できない。ここでキチンと方をつけなければ、官僚は「不祥事を起こしても、責任を問われるのは総理と大臣と幹部だけで、やりすごしていれば自分には何も起こらない」ということになり、悪い意味での事なかれ主義が今後横行するのは確実だ。

分かっとんのかいな…という点こそ問題の核心になりつつある。単純な話なのだがナア……。これも与党絶対多数がもたらした「国内だけは平和ボケ」なのか?それとも次の選挙までの時間を超えるような問題は、結果がすぐに出ないので、そもそも取り組まないということなのだろうか。

2019年3月6日水曜日

職業倫理の乱れ、性倫理の乱れがそれほど難問か?

こんな報道記事があった:
問題の根本が、職務倫理や性意識といった職員ひとりひとりの内面にある以上、即効性のある有効な改善策も講じにくい。自衛隊も警察も、どちらもただ途方に暮れている状況なのだ。
これで日本の安全と治安は本当に維持されるのか。抜本的な問題解消には、隊員・捜査員教育の見直しにまで踏み込まざるを得ない惨状のようだが……。
URL:http://news.livedoor.com/article/detail/16115771/

典型的な世間話、井戸端会議のネタであるが、最近の世相の一端をよく伝えていて、男女間の乱れ、性倫理の乱れ、職業倫理の乱れを嘆く、一般的な感想が込められている。

とはいうものの、性倫理、職業倫理の乱れを多くの人が嘆いているその世間で、絶句するような不祥事が頻発しているというのだから、今風の社会は口では嘆きながら、いざとなれば口とは別に体が動く。そんな御仁が増えているご時世ということなのだろう。

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ほんの一言メモなのだが、自衛隊、警察(他分野にも類似の職種はあるだろうが)で余りに男女間不祥事が多く、職務遂行の障害になりつつあるのなら、何百年も継続した伝統的組織原理に戻して、組織構造を男女別建てにするのが宜しかろう。男には男の仕事、女には女の仕事。そんな仕組みが何百年も継承されてきたのは、先祖たちが頑固で馬鹿であったからではなく、そうすれば巧く行くという一面もあったことは認めておかなければなるまい。

前時代はすべて問題が多く、それを改めれば未来は必ず進歩するという…のであれば、共産主義革命でも何でもとにかく革命でも起こして、ちゃぶ台返しをすればよい理屈だが、実際にそうしてみると現実は惨憺たる失敗に終わったのが20世紀の経験であった。

男女雇用均等法の理念に背くということなら、例外規定を設ければよいだけのことである。それほどの難問というわけでもあるまい。

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この世界にオールマイティの理念も方法も存在しない。生存環境の変化に応じて、最適の選択は変わる。

知恵は現実を洞察する力である。現実をみず人間の小さな頭の中の理想にこだわる姿勢は笑止であろう。無理を押し通せば道理が引っ込む。崩壊を招くだけだ。
知ったかぶりをしちゃあいけねえヨ…分かんねえことは分かんねえと白状すりゃあ、気が楽になるってものヨ。何もかも考えりゃあ分かるってなりゃあ、俺たちゃ神様だって言ってるのと同じじゃねえか…
社会の問題は「解決する」のではなく、時の流れの中で自然に変質し、本当は何が問題かがわかり、落ち着き、陳腐化され、問題としては評価されなくなり、そして忘れられていくことで「解決されてしまう」ことが多いように思っている。「安保」も「米帝」も「構造汚職」も「全共闘」も「東側」も「南北問題」もみなそうであった。すべて変質し、世界は変わり、古い問題の多くは自然に消失してしまっている ― もちろん新しい問題が一方では生まれている。そういえば「学校群」もそうであったなあ・・・あの時は高校受験が混乱した。誰だったか理想主義者がいたはずだが、名前を思い出せない。で、いまは高校統廃合、大学経営危機が時代の課題になった。これまた20年もたてば自然氷解して別の問題と人々が取り組んでいるだろう。

そんな「変化」を「進歩」と呼びたければ呼んでもいいと思うが、本当に進歩しているのは「科学技術」だけであると小生は思う。

2019年3月4日月曜日

これは幼稚化現象なのか?それとも妬みなどの劣情か?

昨年世を騒がせた東京医大ほか私大(国公立も?)医学部の「不透明入試」。

最近とんと耳にしなくなったが、新たにこんな報道があった:

理事長や受験生関係者との間に、優遇を依頼して合格すれば多額の寄付をするという「暗黙の了解」があったと推認している。
URL:https://mainichi.jp/articles/20190304/k00/00m/040/229000c

文章全体から一部を切り取るのはアンフェアなのだが、上の引用に限っては論旨をミスリードすることはないと思う。

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まあ、いわゆる「裏口入学」である。その手法は実に千差万別なのであるから、具体的内容を新たに縷々と述べるとしても、本質的に新たな真相を解明したことになるわけではない。「やっぱりネ」と言うしかない。

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ただ、思うのだが「多額寄付行為者」の子弟を優先合格させることは、学理上のロジックに基づいて否定されることなのだろうか?

ここで「学理」と言っているが、この「学理」に法律上の規定は(当然ながら)含まれない。なぜなら、その時々の法律上の規定などは、その時に生きている有権者と議員の意志と感情の流れの中でどうにでも規定されうるからである。どうにでもなりうる事には学問上の真実性はない。

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そもそも特定の日の一回の筆記試験の得点のみに基づいて合否を判定するべきではないという議論は、ずいぶん昔からある。試験万能主義と学歴主義は戦前期の帝国陸海軍、というより日本の官僚組織全体にみられる通弊である。

この件については前にも投稿したが、小生は極端な方式として、60点以上獲得者はすべて基準点充足としておいて、あとはくじ引き抽選方式でもよいと考える。そして抽選方式でよいのであれば、特に私立大学の場合は寄付金額上位者から30位くらいまでは優先入学の権利を与えても、入学者の学力管理上何ら問題は生じない、と。そう確信しているのだ。それ程までに、(上位1パーセント以内の超秀才は別として)1回1回の筆記試験の得点と真の学力の間には偶然性が介在する、ということは一度でも学生を教えた人間であれば当たり前の経験的常識になっていると思うのだ、な。

故に、寄付金の多寡に応じる形で合否を決めること自体が不合理であるとはどうしても感じられない。偶然性が左右する微細な得点差に拘っても実質的な意味は含まれないが、金銭を負担して大学教育に貢献する意志があるかどうかは、それが本人の負債でなく保護者の負担であるとしても、最も重要な入学意欲の真剣さをそこに見てもよいではないか。まさに背水の陣である。

ただ、それを堂々と公開せず、試験の得点調整という方式で陰伏的に行っている点が非常に不透明で<コソコソ>やっている。そこが非常に悪印象を与えている。言うべき点はこの一点である。

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大学で行うべきことは授業と教育を厳格に行う事である。たとえ多額寄付行為者の子弟であっても、単位認定、進級、卒業の取り扱いにおいては厳格に公平に判定されているならば、何の問題もない理屈である。

仮に、万が一、学内において多額寄付行為者の子弟が他の学生よりも甘い基準で卒業だけができるとしても、国家試験に合格しなければ医師にはなれないのである。大学もそれは分かっている。故に、余りに愚かな不適格者を卒業はさせないだろうし、保護者の圧力に屈して卒業を認めるとしても、大学の評価が下がるだけであって、社会的な害悪にはならない理屈だ。

もちろんこう述べれば、この件に執着する人は多額寄付によって医学部に入学をした者の国家試験合格率を公表せよと主張するに違いない。公表をするまでは延々とこの件に執着することも予想できる。そうした人たちの個人名を公表せよとも言うだろう。それは個人情報であると言えば、ことは医師になるべきではなかった者が医師になっている以上、その人物の氏名を公表することは社会的要請であると議論するだろう。

そうして、実際にはおそらく平凡な医師として職業生活を送りうるはずであった平凡な人物が社会的正義という大義名分によって非難され人生を奪われる結果となる・・・。

これは愚かしい悲劇だ。

愚かしい悲劇が現実に起こるとすれば、多くの場合、善意と悪意が入り混じっているものだが、決定的なのは善意を利用する悪意がまず最初に存在しているということだろう。


2019年3月1日金曜日

これは幼稚化現象なのか?それともマナー確立への一歩なのか?

 先日の投稿の中でこんなことを書いている:

言葉の事を書いてきたが、そういえば『大事なのは言葉です』という言葉も昔はなかった。誰もそんなことは言わなかった。 
CMにもあったくらいだ。「男は黙ってサッポロビール」、そんな時代だ。 
明治生まれの祖父が一番好きだった言葉は「巧言令色スクナイカナ仁」。要するに、言葉上手な人間は信用できない。「剛毅朴訥仁に近し」。ボキャ貧で、マスコミ受けしない人物こそ、徳があつく、力量もあるもので、いざという時に信頼できる人物である。物事を任せるに足る。これはもう経験則であろう。 
大事な事は「知行合一」。口先の言葉に価値はなく、汗をかく行動が価値を創る。この点では古典派経済学の労働価値説は本筋に沿っている。小生はそう思っているのだ、な。「知価革命」などというが、知価の知は苦心の末の賜物であり、いま思いついた言葉とは無縁である。 
口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(マタイによる福音書、第15章、11) 
人物評価の根本も小生の若い時代と今とでは一変してしまったねえ。
★ ★ ★

以下の「報道」(?)を目にして思わず上の投稿を思い出した。
「女性ドライバーの皆様へ質問です。やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?」――。そんなメッセージをトヨタ自動車が1日、公式のツイッターで投稿したところ、批判が殺到。トヨタは投稿を取り消し、謝罪した。
 トヨタはツイッターの投票機能を使って、「とても苦手」や「すこし苦手」など回答を募っていた。このメッセージに対し、SNS上では「やっぱりって何? 女性蔑視?」、「普通の運転で男女差ってあるのでしょうか」、「免許取得以来無事故無違反の私でも、車の会社からやっぱり運転下手って思われてるのかと思うと悲しい」、「私の周りには事故を起こした人もいないし、みんな毎日バリバリ運転しています」といった批判的な意見が広がった。

(出所)朝日新聞、2019年3月1日

『やっぱり、車の運転って苦手ですか?』という表現が適切であったかどうか、ということだ。

特に『やっぱり』という副詞にクレームをつけているということのようだ。

ま、『ものいえば唇寒し』などとうそぶくのは月並みだろう。

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 トヨタの担当者はシンプルに『やっぱり、クルマの運転って苦手ですか?』とズバリいう言葉にした方が、ずっと訴求力があったと今頃は後悔していることだろう。

つまり余計なものは「やっぱり」ではなく、「女性ドライバーの皆様へ質問です」という前の句である。

推測するしかないのだが、AI(人工知能)を使った先端的な安全制御機能や自動運転機能により高い関心を持っているのは、男性よりもむしろ女性客の方であるという現場の感覚があったのかもしれない。

自動車ではないが、例えばカメラでマニュアル撮影を好むのは男性の方が多いと聞いたことがある(今でもそうであると思う)。同様に、車の世界でもマニュアル操作はずいぶん減ったが、それでもまだギアシフトをガチャガチャやりながら、クラッチメダルを踏んで運転するドライバーはいる。小生の同僚の中にも二人を知っているが、二人とも男性である。

ただ、小生こうも思うのだが、カメラや自動車を面倒くさいマニュアルで操作する男性は、機械が好きだからというのも理由だろうが、もう一つ「人と違ったことをしたい」という動機もあるかもしれない。ときにトンデモナイ行動をするのは、女児よりも男児に多いというのは、これはもう子育てをした経験のある人なら納得するのではないだろうか。

亡くなったエンジニアの父は「女性はメカニズムというのが苦手だからなあ……」と時々こぼすように話していたことを思い出す。

カメラにせよ、自動車にせよ、その他の電気機械や工作機械にせよ、その好みや傾向には男女間性差が歴然とあるように小生も感じる ― 実際、うちのカミさんも<機械音痴>というといい顔はしないが、苦手である。

なので、本当はこの件は実証的な科学的検証に訴えると、面白い法則が得られるかもしれず、その面白い発見が新しいマーケティングにつながっていき、ひいては誰にとってもより良い製品開発に結び付いていく可能性があるように思う。

言葉の片言一句にまで神経質にこだわるのは、あまり生産的な態度ではないというのが、第一印象である。「やっぱり」おおらかな社会の方が結果として着実に進歩すると思うのだ、な。

★ ★ ★

しかし、問題は科学的検証のための問題提起ではなく、単なる言葉遣いの紛争になってしまったようだ。

「ああ言われた」とか「そんな言い方はないでしょう」という言い回しもあるので、日常生活の上で言葉は大事だ。「ものも言いよう」という格言もある。

確かにマナーは平穏に暮らしていくためには不可欠な約束事である。

しかし、やはり小生は言葉の問題はレベルの低い事柄だと考えている。社会の進歩や問題を解決するのは、言葉ではなく行為である。

「どんな風に言ったか」は振り返ってみると、大した事ではないということが分かるものだ。大した事でもないのに執着する人は器が小さいからだと感じられてならない。


2019年2月28日木曜日

一言メモ: 凡人はこういう話し方をする一例

日産(及び日産と結託した検察当局も?)が主導したゴーン元会長追放劇も最近はとんとメディアでも取りざたされなくなった。

最近は、『ゴーン流の成功は幻想』などと現社長は語っているよし:
日本経済新聞の取材に応じた日産自動車の西川広人社長兼最高経営責任者(CEO)は、元会長のカルロス・ゴーン被告個人に依存しすぎたガバナンス(企業統治)に問題があったと認めた。自ら社長を続投し仏ルノーとの関係を改善させることに意欲を見せ、ゴーン元会長時代の数値目標を重視する「数字ありきの経営」を転換する考えも示した。
(中略)
基本的にそれぞれのセクションだけで仕事をして、経営的に困ったら元会長1人という状態だった。市場の好況が続かねば回る訳がない。また、海外の事業運営を完全に別物として扱っていた。(ゴーン元会長が率いた)当時うまくいっていたとの見方は幻想だ
(出所)日本経済財新聞、2019年2月28日

遠い昔ではないが、それなりに長い時間でもあった。その間、ITバブル崩壊も起きた。債務・設備・雇用の三つの過剰に苦闘したこともあった。1999年3月にフランスのルノーが日産に救済の手をさしのべなければ日産は倒産していたはずである ― マア、ルノーが日産救済を決断しなければ、次はドイツのダイムラーベンツ辺りが最終候補として登場し、完全子会社になって存属していたとは思うが、日本企業・日産という企業はその時に消え去っていただろう。

以来20年弱。近年の日産の経営状況は周知のとおりだ。

「現実」は正直である。「歴史認識」などと難しい言葉を振り回す必要はない。

1999年以降に日産がたどった歩みをただ「幻想」などと称しているような御仁は、知性がよほど粗雑に出来ているに違いない。

フランス人はナポレオンによる戦争と暴政を「幻想であった」などとは言っていない。日本の明治政府も旧幕時代を「永い幻想であった」などとは言わなかった。その理由は、前時代から継承された多くの資産が恩恵となって新時代の発展の基礎になったことを理解できたからである。

理解力=知性、だ。表面だけを見て、本質に無頓着な人は、知性をもっていない。マ、知性がなくとも仕事は出来る。凡人にとって知性はそれほど重要ではないのかもしれないが。



2019年2月27日水曜日

不思議な新聞記事の一例

マスメディアは民間企業である。である以上、経営姿勢や行動パターンには合理性がなければならない。理にかなわないことばかりをやっている企業は、人間もそうであるが、いずれ生存の危機を迎えるというのは自然の法則である。これによって「進化」という現象が生まれてくる。

なので、報道記事に不思議なものがあるというのは、それ自体が逆説的存在だ。

 いずれも、米国を核攻撃する能力を北朝鮮に与えないための手段を模索しているトランプ氏が間違っていると言うための例ではない。それに、ノーベル平和賞を共同受賞し、それをオスロから世界にひけらかすチャンスに魅力を感じた正恩氏が、非核化に向けた純粋かつ検証可能なディールに至る―そしてそれを尊重する―シナリオもあり得る。 
 だが今週の首脳会談が行われる場所、そしてノーベル平和賞の悲しい歴史は、私たちに教訓を与えている。共産主義世界の大半が消えた中でも、ベトナムと北朝鮮は共産主義国家のまましっかり残っている。それは、両国の指導者が世界を分かっていないからではない。 
 ベトナム入りしたトランプ氏が周囲を見回せば、73年のノーベル平和賞という欺まんをハノイ(米国が防衛を約束した南ベトナムをのみ込んだ共産主義国家の首都だ)があざ笑っていることに気づくだろう。ノーベル賞の呪いがなくても、正恩氏だけで手いっぱいであることも分かるはずだ。
 (出所)ウォール・ストリート・ジャーナル、2019年2月27日

『共産主義世界の大半が消えた中でも、ベトナムと北朝鮮は共産主義国家のまましっかり残っている。』とはネエ・・・絶句であります。

一体誰が書いたの?William McGurnという御仁か・・・

こんな風に共産主義国家と言うなら「中国とベトナム」と言うべきだ。それに北朝鮮は、共産党独裁ではなく、一族独裁国家であり、むしろ「王朝国家」という言う方が適切だ。

WSJにしてこんな記事が載っている。虚心に新聞記事を読んでいると、世界に関して飛んでもない誤解を抱きそうである。「世界を分かっていない」のはまだましである。

何が怖いといって、今風のマスコミほど怖いものはない。