2019年2月14日木曜日

思いつくまま: 使われなくなった言葉

前稿で「自浄作用」という言葉をサッパリ耳にしなくなったということを書いた。そう言えば・・・というので、思いつくままに。

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「自浄作用」は「自浄能力」ともいう。「自己規律」という言葉も同根であるし、更には自らの失敗、失策の責任は自分が真っ先に負担するという意味では「自己責任」という言葉とも縁が近い。

「自浄能力」に期待しないから「独立した第三者の目」という方法論になるのだが、外部の目をとにかく入れるという発想は、言葉を換えれば「自浄能力」よりは「他人の監視」をより信頼するという感性があるからだ。

なぜか?

そう考える人が増えているからだ。

この根本的理由は小生にもハッキリとは分からない。何かがあると直ぐに「進駐軍」がやってくるご時世だ。

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「プライバシー」という言葉も最近はメッキリと使われなくなったと思う。むしろ「個人情報保護」という術語を使う中で「プライバシー侵害」という以前はあれほど使われていた言葉が廃れてきたのだろう。

ただモラルとしての「プライバシー」と法律としての「個人情報」はどこか違っている。

そもそも「個人情報保護」を法制化した原因は、個人情報がまったく保護されてはいないからである。この点は小生、100パーセント、老子のいう『大道廃レテ仁義アリ』の信者なのである。モラル、モラルと五月蠅くいうのは、モラルが守られていないからである。個人情報など今の世間で本気で尊重する企業も人もいないからこそ、法制化して保護している。そう考える方が理に適っている。

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「悠々自適」とか「晴耕雨読」という言葉もほとんど使わなくなった。同じことを言うなら「年金生活」と言うようになった。

忙しい雑務から卒業して、後は後世代に任せて自分は自由に生活をするのは、経済的基盤があるからだ。その昔は、現役時代に資産を蓄積して、引退すれば労働所得ではなく資産収益で暮らすというのが理想の人生であった。今では、私的貯蓄ではなく公的貯蓄、つまり社会保険料という名の税金が資産となり、国が管理をして、その収益で年金生活が支えられている ― 制度の建前では。

悠々自適と年金生活がどことなく違ったニュアンスであるのは、年金生活者=寄食者というイメージができてしまったからだろう。

やはり「もらい得」でこの世からサラバをするのは不公平だ。「もらい得」になっている分は個人資産になっている。故に、自分がもらい過ぎた分は死後社会にお返しをするのが理には適っている。相続税、富裕税の税率を上げる。なるほど公平だ。

それでも不足する分があれば、「使ってしまったカネは返せねえ」。年金ではなく、生活保護の領域だ。この二つがゴッタ煮になっているから「年金生活者」イコール寄食者のイメージになるのだろう。これはプライドの侵害である。


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「忖度」も昔と今では言葉のイメージが真逆になってしまった。

言葉の使い方が変わってしまうのはよくあることだ。「すごい」という言葉の元々の意味は「寂しい」であり、「かなしい」の原義は「かわいい」であった。

仕事の方向性を決めるのは部下ではなく、上司の方、というよりトップであるが、全員が目的感を即座に共有できるわけではない。故に、日常の習慣としては上司の身になって、聞いた言葉の真の意味を思い返すことが習慣となっていた。これが「忖度」である。

自分の属する組織はプラスになる事をやっていると信じなければ仕事をする気にならない。しかし、組織は目に見えず、自分こそ組織であると信じるのは自信過剰だ。なので、まずは上司の真の意図を理解しようと努める。当たり前であったな・・・・。

「忖度」がマイナスのイメージをもつようになったのは、上司にとってプラスであっても本当のプラスではないかもしれない。疑ってかかるべきだ。組織にとってプラスであっても本当のプラスではないかもしれない。疑ってかかるべきだ。こんな理屈があるからだろう。

サムライとは侍。侍従の侍。つまり手足となって立ち働くプロの職業人を日本では侍(サムライ)といった。だから弁護士や公認会計士には<士>の字が使われる。立ち働きながら、疑わしくなればお上にすぐに訴える。これはユダである。芥川龍之介は『駆け込み訴え』を書いたが、実行するのは嫌だなあ・・・。

小生は古い人間だ。上司の真意を忖度するなという組織であるのなら、いても仕方がないから、辞めますわな。

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言葉の事を書いてきたが、そういえば『大事なのは言葉です』という言葉も昔はなかった。誰もそんなことは言わなかった。

CMにもあったくらいだ。「男は黙ってサッポロビール」、そんな時代だ。

明治生まれの祖父が一番好きだった言葉は「巧言令色スクナイカナ仁」。要するに、言葉上手な人間は信用できない。「剛毅朴訥仁に近し」。ボキャ貧で、マスコミ受けしない人物こそ、徳があつく、力量もあるもので、いざという時に信頼できる人物である。物事を任せるに足る。これはもう経験則であろう。

大事な事は「知行合一」。口先の言葉に価値はなく、汗をかく行動が価値を創る。この点では古典派経済学の労働価値説は本筋に沿っている。小生はそう思っているのだ、な。「知価革命」などというが、知価の知は苦心の末の賜物であり、いま思いついた言葉とは無縁である。

口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(マタイによる福音書、第15章、11)

人物評価の根本も小生の若い時代と今とでは一変してしまったねえ。

今日はこの辺で。

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