2023年1月7日土曜日

断想: 「変わらない日本人というもの」はずっと昔から意識されていたわけか

以前は元日に「家族そろって初詣」というのが習慣であったが、昨年も今年も今日七日の「どんど焼き」に松飾を持っていくのと併せて本殿に初詣するという方式になった。楽である。それでも朝食後に寒い境内で行列したせいか腹を下してしまった。やはり「松の内」というのでまだまだ参拝客は多い。

日本人は「無宗教」というがどうしてどうして……、無宗教と無神論とは明らかに違うという実例がここにある。


そういえば……、先日、小林秀雄が戦前の日中戦争期に書いた評論を引用したので思い出した一節がある。先日の引用箇所とそれほど離れた場所ではない。例によって、仮名づかいや鍵括弧を適当に変えたり、付けくわえている。

なるほど「自由主義」とか「マルクス主義」とかいう思想は、西欧の思想であるが、そういう主義なり思想なりを、今日これを省みれば、僕らはなんと日本人らしい受け取り方で受け取って来たか。主義を理解することは容易だが、理解の仕方がいかにも自分らしい、日本人らしいと思い至るには時間が要るのだ。総じて習い覚えた主義とか思想とかいうものには、人間を根底から変える力などないものだが、その根底のところにある変わらぬ日本人というものの姿を、僕らは今日捕らえあぐんでいる。

(中略)

自分という人間が変わったと信じていると、案外変わっていない自分を見つける機会に出会う経験は、僕らの日常生活によくある事だが、文化の伝承もまた微妙に行われる。

Source: 小林秀雄『戦争について』所載「満州の印象」(昭和14年)より引用 

とても戦前期に書かれた文章とは思えない……、21世紀になった現代においても、そう思う人は少なくないのではないか。


戦後になって「戦争放棄」を定めた新憲法を公布し、これまでその原則を厳格に守ってきたが、つい先日、それを「抜本的に」方向転換したところである。それもとても自然に。日本人は「これも仕方ないよね」と、どことなく割り切っている雰囲気が漂っている。

小生は、(我ながら)日本人の非論理性には呆れ、驚くばかりなのだが、小林秀雄が上で言っている《根底のところにある変わらぬ日本人というもの》が、いま足元で表面に現れているのだと解釈すれば、これまでの歴史の中で何度も繰り返されてきた一種の《転換》が、今まさに進みつつあるのだ、と。そんな風にも思われるわけだ。

ただ、よほど深く交流して、日本人の特性を深く理解してくれている近隣国ならよいが、通常の他国であれば、変わりつつある日本人に困惑したり、警戒感を強めたりするのではないかと心配になったりする。


小林秀雄は、「根底のところにある変わらぬ日本人」について何だか余裕ありげに記しているが、この余裕は明治維新から70年も経った昭和初期に生きていたから得られたものであるはずだ。

明治維新直前の慶応3年に誕生し、明治初期から中期にかけて成長した夏目漱石にはとてもこんな余裕はなく、変わらぬ日本人と「役に立つ人間になるため」修得しなければならない西欧式の思考との矛盾や葛藤、軋轢に、強過ぎるストレスを感じ、さいなまれたのも、同時代の日本の青年世代には共通の傾向であった。「文明開化」の被害者世代と言えるかもしれない。

そんな同種のストレスをいま現在の日本人もやはり感じているのかもしれない。ただ、今の日本は「民主主義」であるから、政府が強引に「欧化政策」を推進するのは不可能であり、日本国民が強く拒絶するのであれば、いかにそれが日本国にとって必要な政策であっても、実行は不可能である。


マスメディアに登場する「専門家」は、アメリカ・ヨーロッパ発の言葉と価値観に沿って話をしているが、実は視聴している普通の日本人の感性は案外昔のままの日本人に近い。それでギスギスする。こんな因果関係があるとすれば、ずっと昔から続いている日本的現象なのである。しかし、メディアも民間企業であるから、そんなギスギス感は出せるはずはなく、普通の日本人が受け止められる範囲内で、欧米風の議論を語ってもらっている。

日本のマスメディア事情はこんな風に達観している。


2023年1月5日木曜日

年頭の感想: 賃金引き上げのお願い? 何だか、前に聞いたような気がするが

今年最初の投稿も少し情けない話だ。

というのは《賃金引上げ》である。

いま、政府は躍起になって今春の《賃金引き上げのお願い》をしている。

確かに、日本経済が永年のデフレから脱却して、賃金上昇→物価上昇→年金引上げ→消費需要増加→経済成長→ディマンドプル型インフレ持続、とマアこんなバラ色の夢を描くのも無理はない。これまでの丸々1世代というもの、正に正反対の負のループに陥っていたのが日本経済だから、とにかくこの苦境から脱したいと思うのは無理のない願いであるに違いない。

しかし、行政トップである内閣総理大臣までも「賃金引き上げのお願い」を口にするのは、何だか異様である。


というのは、賃金引上げが「日本病」の治療に(真に)必要なのであれば、公定の最低賃金引き上げを政治的にコミットする旨、総理か厚労相か、政府の責任者が、ハッキリ明言するのがベストのやり方であるからだ。

たとえば

政府といたしましては、今後、インフレ率をカバーする程度の最低賃金引き上げを続けてまいる方針で御座います。

一言こういえば賃金は確実に上がるのだ。 

この当たり前の事実を誰も口にしない。ここが足元の日本の政治、日本の社会、日本の学界、日本のメディア業界に見られる最も異常なところだ。


もちろんその理由は明らかだ。

最低賃金引き上げに堪えられない中小企業が続出するからである。前にも投稿したが、以下の様なことを書いている:

いま、戦後日本を支えてきた産業基盤、というか企業群の多くは日本国内で利益機会を失いつつある。実際、こんなデータがある。偽装か事実かは議論があるにせよ、現状は既に周知のことである。

国税庁が2021年3月26日に公表した「国税庁統計法人税表」(2019年度)によると、赤字法人(欠損法人)は181万2,332社だった。 全国の普通法人276万7,336社のうち、赤字法人率は65.4%(前年度66.1%)で、前年度から0.7ポイント改善した。

Source:東京商工リサーチ

利益も出ていないのに賃金を上げられるはずがない。お願いされても駄目なのだ。経済のロジックに沿って議論をすれば、そんなゾンビ化した中小企業は退場し、職を失った雇用者は適切な職業訓練(=リスキリング)を公費で受けて、人出不足の産業分野に再雇用されるプロセスを通じて、先ず成長分野に労働資源がシフトしていく。こうなって初めて問題解決への道筋が見えるわけだ ― もちろん人出不足を単に解消するだけではダメで、人出不足が常にあるようにビジネスチャンスを日本国内に創出し続けるのが政府の責任だ。そのためには規制分野に手を入れなければならない。「お願い」するのが政治家の職務ではないのだ、な。「身を切れ」というのはこの辺のことである。

マア、要するに、この《市場からの退出》、つまり倒産、廃業が増えるのが怖いのだろう。

★

政府が賃金引き上げをお願いしても、「無い袖は振れない」と開き直る企業が出てくるだろう。

お願いに応じない企業に対して行政上対応できる手段はない。

結果として、甚だしく《不公平》な状況が生まれるだろう。賃金引き上げをしない企業経営者も雇用を守ってくれていることに変わりはないという理屈をマスコミが口にし始めるに違ない。目に見えるようである。

法令で強制しないことによる実質的な不公平、不公正が拡大する。予想されるが故に決して「想定外の状況」ではない。

★

ここまで書いてきて、何だかデジャブ感を覚える。

コロナ禍の中のマスク装着である。《欧米先進国》のような、法令によるかよらないかはともかく、《マスク装着の義務化》を日本社会は嫌った。もちろん行動の自由を保障した憲法に違反するのではないかという問題はあるわけで、コロナ禍終盤において、アメリカでも違憲判決が出されたものである。が、(価値観を日本と共有する欧米先進国の)政府と議会は、原則どおり<法令等規則>に従って政治を行うという《法治主義》から逸脱することが少なかった。

日本では《緊急事態》を政府が宣言し、(こんなお願いをするのも緊急だからとばかりに)、「マスク装着」や「ワクチン接種」のお願いを繰り返したり、飲食店に対して「営業時間短縮」のお願いを何度も反復したり、であった。病院に対しても「コロナ病床増加」をお願いするやり方をとった。

こんな風に、政府が国民に「お願い」をして、コロナ禍に対応したかと思えば、今度は賃金引き上げを「お願い」しているわけだ。そういえば、公共交通機関でも何と頻繁に利用者に「お願い」して安全を確保していることだろう。これが日本という国の《お国柄》なのだ、と言われれば「そうだネ」とうなずく自分がいたりする。

しかし、お願いベースの管理形態というのは、上層部は責任を免れ、被統治者には自由があるようだが、不公平、不公正の温床になるのである。


こんな体たらくではそのうち

脱税は犯罪です。税はきちんと納めましょう。

こんな《納税のお願い》をやり始めるのではないか、と。

こんなお願いを繰り返しながら、実はサラリーマンに対しては「この方が便利でしょうから」とばかり、毎月なに食わぬ顔をして、国税、地方税と社会保険料を天引きする。

こんな政府であれば、いつの間にか

防衛費協力金として2パーセントを所得税率に付加いたします。これは「臨時的な協力金」でありまして、所得税をなすものではございません。勤労者の方は勤務先で事務処理を行いますので特に手続きは必要ございません。

こんな政策がにわかに決まって、新年度から始まる。NHKは「新年度から変更される制度」というタイトルでそのまま報道する……いや、マア、大いにありうる事態だ。

黙ってやっていることとお願いしていることが奇妙に食い違っている日本の政治。

(愚かな?)日本国民は変わりゆく世の中で毎日の暮らしに懸命で、妙に納得、というか変化に気が付くこともなく、忙しく過ごしている……、何だか怖いナア、昭和恐慌から満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦前期の世の中も、「激動」と言うよりこんな感じで「いつの間にか」だったのかナア……そう思うこの年明けでございます。




2022年12月31日土曜日

感想: 最悪の一年の大晦日を迎えて

今年は本当に「最悪の一年」だった。「コロナ禍、いまだ終わらず」に加えて、ロシアがしないでもすんだはずの戦争を友邦であるはずのウクライナを相手に始めたかと思えば、アメリカ(といわゆる西側陣営)もしないですんだはずの経済制裁に踏み切って、世界はインフレになった。金利は急上昇し、年明け後は景気後退が本格化、生活水準は低下するだろう。阿呆な我慢比べをして、多くの人命を犠牲にし続けている。これに中国のコロナ規制撤廃による感染大爆発が新たに加われば世界は大混乱である。

What silly guys! You stupid!!

為政者になるべきではない三流の人物が為政者として権限をふるっている。

これを「悲劇」と言わずして何と呼ぶか。いやあまりにテンポの速い悲劇は喜劇に変ずるというから、後の歴史家は<戦争喜劇>とでも呼ぶかもしれない。そんな状況でもなお、西側陣営はロシアを「戦争犯罪国」などと呼んでいる。おのれは無罪と言いたいのだろうが、今から「アリバイ」を気にしてどういうつもりかと呆れ果てる。

"Black! Black!! The Blackest Year!!! Get out, you, get out!!!!". まあ大部分の人にとってはこんな感想ではないだろうか ― 話題に困らなかったマスコミ業界はホクホクだったかもしれないが・・・、イヤイヤ、これは嫌味が過ぎた。申し訳ござらぬ。

先日の投稿にも書いたが、

株価は今年の春以降ずいぶん下がった。今年は寅年で「千里をかける」はずだったのだが、どうやら下り坂を疾風のように駆け下ったのが「虎は千里を走る」の意味であったようだ。

大体、《戦争とインフレ》は、古来、典型的な経済問題のワンペアである。これに財政破綻が加わると《悪魔のトライアングル 》になる。案外、日本辺りはまったく意識せずして、こんな状況に近づきつつあるのかも・・・イヤイヤ、日本は憲法9条で戦争行為は禁止しているので、そうなる理屈はない(はずだ)。


とはいえ、ともかくも

真っ白に 降りつもりたる 雪をかく

     ひとの声して としは過ぎゆく

尺雪や むかし思うて 朝寝坊

神棚と 仏ゆかしき 小つごもり 

この街に住んでもう永い年月が過ぎた。北海道に移住してきた時から歳も大分とった。来た当座は、昼まで家族連れで近くのスキー場で一滑りしてから、昼食を自宅でとり、午後の講義に合わせて登校し、授業後はまたPCを叩いて研究に没頭した。まるで<馬車馬>のようであった。いまは「やれ」と言われてもお断りだ。


下らないおのれの主義や主張を強弁する三流政治家を早く"Kick Out"して、和平と経済再生を成し遂げられる人物に登壇してほしいものだ。中国の習さん、世界中の期待を集めていたが、どうやら馬脚が見えちまったようだネエ・・・そして、誰もいなくなったか。情けない大晦日にござります。


2022年12月30日金曜日

断想: 「運命論」と「責任論」

 技術進歩や経済成長の加速・減速についても「人為的コントロールは不可能であり、なるべくしてなるもの」と考える「運命論」の観方があるくらいだ。歴史全体がどのように進んでいくかなど、一介の政治家や国民が望みどおりに決められるものではないという観方があって当然だろう。歴史はHow-Toで割り切れるものではない。「運命論」がなくならないのは正に当たり前である。

もし世界を運命論的に解釈するなら、人間社会のあらゆる結果は歴史の必然によるもの、個々人の立場に立てば「業(ごう)」が然らしめたもの、という観方になるので、当事者個々人に結果の責任を負わせるという思考にはなるはずがないわけだ。全ては「神のはからい」となり、人間に大事な行為は「責めること」ではなく、「許すこと」になる。日本の鎌倉仏教を開いた一人である親鸞が『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』と言ったのは、悪行を重ねる業(ごう)を負った悪人こそ憐れむべきであり、救済されるべきであるという主旨であり、この意味で「他力本願」の思想は「運命論」に分類される。

ずっと昔から《戦争》は戦われるべくして起きる避けがたい悲劇である、そう観られていたものだ。というより、すべて《悲劇》というのはそんなものである。誰でも悲劇の主人公にはなりたくはない。それでも悲劇が起きてしまうのは、それが避けがたいからであろう。戦争が人類にとって悲劇であるとすれば、やはり当事者には避けがたいからであるに違いない。実に、人間社会の行く末は神のみぞ知る。人智を超えた超越的存在を信じる立場に身を置けば、どうしてもこんな世界観になるはずだ。

もう何年も前になるが東京に住む一人の叔父が

〇〇君、本当に何事も思う通りにはいかないものだネエ・・・

と電話の向こうで話していたが、これが人の生きるこの世界の本質ではないだろうか?


正反対の世界観もある。例えば、中国の儒学は『怪力乱神を語らず』を鉄則にしている。理屈で説明できない現象、人間の普通の頭で理解できない存在は相手にしない。そんな世界観である。人間の感覚でとらえられない存在を否定するのは、自然科学が発展する中でにわかに18世紀・西欧で影響力をました《啓蒙主義》とも似通っていて、どちらも人間中心のヒューマニズムにつながる見方である。

啓蒙的な世界観に立てば、人間世界のことは人間本位で決めるべき事になる。真理や善悪の判別、何が美しいか醜いかといった「守るべき価値」も神が定めた規範というより人間が生み出すもの、人間が決めるものというロジックになる。

その果てに科学的社会主義が誕生し、毎日の生活や富の分配も自然に任せるのではなく、人間が最良の形で計画すれば理想的な社会を築くことが出来る、と。そんな思考にまで発展していくのは、啓蒙主義的に世界を考えているからである。

この啓蒙主義的世界観、これに加えて超越的存在に否定的な儒教的世界観もそうだが、その時に生きて活動している人間を中心に社会の出来事を観るが故に、戦争は必然的に発生したものではなく、誰かが主体的に選択した人間の行為であると解釈することになる。更に、全て社会的な現象は避けがたい結果ではなく、賢明な政策によって改善されうるものである、と。こんな風に思考することになる。そして、こんな世界観によれば、戦争には「戦犯」が必ず存在することになり、その戦犯が戦争を決意したと解釈するのであり、ロジックとしては戦争犯罪の認定から刑罰の確定、こんな手順に沿うべきである、と。マア、こういう《責任論》が盛んに論じられるという帰結になるわけだ。


少なくとも現代世界で支配的な世界観は、17世紀以降の西欧市民革命の精神をそのまま継承するような、科学と理性に信頼を置く啓蒙主義の潮流にあるのだろうと思っているのだが、実はこう考える立場は一方の極端を占めるもので、正反対の世界観から出発して物事を判断している人たちは、今でも現代世界において予想以上に多くいるのではないか。そう思うのだ、な。

多くの人たちがもっている思考や価値を下らないものとして軽視するのは傲慢というものだ。


《人類の知》は、(バートランド・ラッセルが整理したように)科学の反対側に宗教があり、両者を介在するポジションに哲学がある。西欧と北米では(あるいは日本も?)啓蒙的な思想が濃厚であるが、その基盤には科学がある。科学はなるほど人類に《豊かな社会》をもたらしてきた。厳しい肉体労働から人間を解放し、長寿社会をもたらした。しかし、長寿は必ずしも幸福を約束しないだろう。科学は必ずしも《幸福》をもたらすわけではない。

人類社会に最も重要な価値は《豊かさ》というより《幸福》であるのは自明だと思っている。

いま、ロシア=ウクライナ戦争をめぐって、ロシアの「戦争犯罪」を追及する欧米の姿勢がよく伝えられているが、これまた極端な観点に立った見方だと小生は考えているし、これが極端な見方であることを意識しないことはもっと恐ろしい、というのは最初から本ブログにも投稿している観点でもあるのでこれ以上書く必要はない。

2022年12月29日木曜日

メモ: 景気先行き警戒高まる? そんなことは前から分かっていたことだ

 日経にアンケート調査結果が載っていた:

アンケートは国内主要企業の社長(会長などを含む)を対象にほぼ3カ月に1回実施。今回は12月2~16日に行い、145社から回答を得た。

世界景気の現状認識は「悪化」「緩やかに悪化」の合計が36.5%と9月の前回調査(31.1%)から約5ポイント増えた。一方「拡大」「緩やかに拡大」の合計は11.7%で同約4ポイント減った。

Source:2022年12月28日 0:00 (2022年12月28日 5:46更新)

世界景気が「悪化するだろう」、あるいは「悪化している」というのは(多くの人が知っているはずの?)当たり前の事実で、この程度のことは経済データをフォローしていれば、ずっと前から明瞭になっていた。

例えば、OECDが毎月公表しているLeadding Economic Indicatorを各国別にみると下図のようになっている:

URL:https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

図は、OECDが公表している先行指数から英米独仏日の5か国についてプロットしたものだ。

これをみると、昨年秋をピークにして先行指数は各国共通で下降している。データは先行性をもつから、半年ないし1年以内の景気悪化の可能性を告げている。本年2月に始まった「ウクライナ戦争」と経済制裁による混乱は経済状況悪化をより酷いものにしたにすぎない。

2022年の年末にさしかって「世界景気は現に悪化してきた」と経営者が判断しているのは、既に予見されていたことであり、驚くには当たらない。

ただ、図の中で日本だけは景気悪化の度合いが緩やかである。もちろんこれは本年春以降に急速に進んだ《円安》のプラス効果によるものだ。

米・FRBは《インフレとの戦い》を止めないと明言している。

いい加減にしないとドン・キホーテの対インフレ戦争版になりますゼ

と。そろそろこんなことを言われ始めているようだ。

経済政策にも確固たる戦略と、その戦略の最終目的は何かという理念が大切ということだ。

2022年12月25日日曜日

断想: ずっとある変わらない問題といま流行している問題と

ちょうど100年前になる1922年の日本を『現代日本経済史年表』で確かめてみると、2月6日にワシントン条約が調印されている。

第一次世界大戦後の国際外交関係を方向付けたいわゆる《ワシントン体制》は、ここから始まるのだが、主たる潮流は《軍縮》であった。特に海軍軍縮は各国の財政再建にもつながる最重要な国際的課題だった。国際連盟の常任理事国となった日本が「協調外交」を進めたのもこの「ワシントン体制」の枠組みを尊重したからだ。ただ、ワシントン条約の影響で日本国内の造船業は大打撃を蒙ることになり、上の『年表』にも「造船業界、海軍軍縮により大打撃を受ける。以後1932年まで不況』と説明が付記されている。また、英米に比べて相対的劣位を強いられるようになった帝国海軍に不満を残した点も後々の火種になった。その意味では、1922年という年は日本の針路を決める歴史的分岐点でもあったのだ。

その5日前の2月1日には明治初めから一貫して「帝国日本」のあり方を設計してきた山縣有朋が死去している。また前年、1921年11月4日には明治末期から大正にかけて日本の政治を主導した政友会の原敬首相が東京駅頭で暗殺されている ― 本年7月の安倍晋三元首相の暗殺事件といい、この辺り何だか非常に重要な歴史的分岐点にさしかかるタイミングで、悲劇的な暗殺事件によって中心的政治家を失うという日本の悲運を感じる。原といい、山縣といい、日本国の針路を決める船長を失い、その1ランク下の部下が指導者になって、難しい時代を漂流するように進む感覚がそのまま昭和時代にまで受け継がれていったのかもしれない。

1922年7月15日には「日本共産党」が結成され、それに対抗したのかもしれないが、8月1日には「日本経済連盟」が設立されている。「ブルジョア vs プロレタリアート」、つまり「財界と左翼」というべき、今に至る左右対立構造がちょうど100年前の日本で視覚化され、庶民の目にも明らかになったわけだ。いわゆる《大正デモクラシー》を象徴する出来事である。

そして、1922年の翌年、1923年は関東大震災が首都を襲った年である。明治維新で戦火を免れた東京の街は焼亡し、時代は明治・大正から昭和へと一気に変容する区切りとなった。

★

前の投稿で江藤淳『漱石とその時代』から一つ引用したのだが、パラパラとページをめくると興味を魅かれた箇所には傍線を引いていて、どことなく自分史を振り返るような思いがする。

そんな中で忘れていた一か所(―句読点、送り仮名など、適宜、書き換えている):

国運の進歩の財源にあるは申すまでもこれなく候へば、お申し越しの如く、財政整理と外国貿易とは目下の急務と存じ候(そうろう)。同時に、国運の進歩は、この財源をいかに使用するかに帰着致し候。

ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、ただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存じ候。

欧州今日文明の失敗は、明らかに貧富の懸隔甚だしきに基因致し候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、もしくは無教育に終わらしめ、却って平凡なる金持ちをして愚なる主張を実行せしめる傾きなくやと存じ候。

明治35年3月15日付け、岳父・中根重一宛ての書簡でこう書いている。西暦なら1902年。日英同盟が締結された年にあたる。

この時代、大蔵省でも内務省勤務でもない一介の英文学専攻の研究者である夏目金之助(漱石)が、この専攻、この年齢で、財政整理(=財政健全化)と外国貿易(=おそらく外貨蓄積を指す)とが国家運営の勘所であることを理解し、限られた財源から毎年の歳出をどうするかが最重要だと認識できているのは驚きだ。やはり(同時代の人には周知のことだったろうが)漱石なる人物は単なる「小説作家」とは言えない。

「財産の不平均」は、所得・資産分配の不平等を指しており、この分配不平等が生活困窮、教育の遅れなどを通じて、高級な問題を担当するべき有能な人材の枯渇をもたらし、結果として富裕階層出身の平凡な子弟が大事な仕事を担当する。そういうシステムが社会に定着してしまう……こんなことまで指摘している ― 本当にこのような因果関係があったのかどうかはデータに基づいたキチンとした実証的検証が必要だが、その可能性を指摘できているのは単なる英文学者には出来ない話だ。それにしても

結局、日本社会の問題というのは、明治の昔から、というより江戸の昔から変わらないんだネエ

と改めて確かめられる次第。それと、夏目金之助は、小説作家・漱石というよりは、海外事情にも通じた有識者・夏目金之助であった、ということだ。

★

そんな夏目漱石であっても、「ジェンダーフリー」という言葉や「LGBTQ」などという言葉は、現実にあった人間の行為はともかく、こんな単語を目にすることはなかったに違いない。

その逆にあたるが、明治の人・漱石が現代日本人は聞いたことがないような明治という時代に特有の感覚で言葉を尽くすことは多かった。例えば、現代日本では消滅してしまった「家」の濃密さやその面倒臭さなどはその好例だろう。晩年の傑作『道草』などは全編そんな類の悩みで作品が成り立ってしまっている。

そういう時代の違いを意識させる点が多々あるものの、漱石の作品が現代日本人にも(比較的)分かりやすいのは、島崎藤村のように明治時代に特有の問題を作品で扱ったわけではなく、今でもあるような普遍的な問題をテーマとしているためだ。それでも、『それから』から『門』にかけての主人公夫婦が、<たかが不倫くらいで?>何故あれ程まで世間から隠れるように生きなければならないのか、現代日本人には(正直)ピンと来ない所がある、そう感じる人も多いのではないだろうか。漱石の倫理観と言えばそれまでだが、彼の生きた時代には妾(=愛人)を複数もつ大物も珍しくはなかったのである。明治という時代に特有の生活感情を自分にとってのリアリティだと理解しながら、なおかつ漱石の倫理観を共有するのは考える以上に難しいものだ。

つまり、問題意識とは時代とともに変わっていくものだ。何が大事な問題であるかは、そもそも世代によって異なる。

話しは戻るが、漱石が言ったのと同じ問題が現代日本にも観られるとすれば、それはずっと解決できていないからである。でなければ、敗戦と高度成長で一度はリセットされたものの再び同じような社会状況が現れてきたからだ。それは「そうなってもよい」と日本人が実は思っているからだ。そうでなければ、所得や資産に関係なく才能のある人材が公費に支えられて教育を受け、有能な人材となり、海外にも公費で派遣されて、経験を積み重ねてからは国会議員に選ばれたり、官公庁、民間企業、その他でも大きな仕事を担当しているはずである。そんな社会であるべきだと、与野党を問わず、実現のために努力をしているはずであるし、マスコミも取り上げ続けるはずである。

それが今になっても出来ていないとすれば、カネがないからでも、資源がないからでもない。日本人にその気がないからだ。そう考えざるを得ないではないか。

もう何度も指摘されたことながら、結局は「ヒトの問題」である。つまり「われわれ自身の問題」だというわけだ。

★

ジェンダーフリーという問題は漱石が生きた時代にはなかった問題意識である。ということは、少なくとも時代を超えた普遍的な問題ではなかったと言える。

古い問題は解決するのが難しい。人類がいくら考えても回答が得られないという点で解決困難なのだ。

こういう問題と上にあげた「ジェンダーフリー」や「LGBTQ」といった問題とは性質が違う。これらは新しく意識されてきた問題である。人の外見に基づいて判断する「ルッキズム」からの脱却などもそうだ。

どれも100年前の漱石が聞けば、問題の存在自体に驚くだろう。

100年後の世間じゃ、そんな話になっているんで……、やっぱりあれだネエ、100年もたてば世の中変わるってことですネエ。想像もできない。

とでも言うだろうか。

上のどれもが、人類始まって以来、初めて問題化されている。

★

ただ、どうなのだろう・・・と、(小生、へそ曲がりなもので)疑わしい気持ちにもなる。

男性と女性は人類発祥以来、というより多くの生物種の誕生以来、ずっと存在してきた個体差である。その中で、人間社会における両性の処遇が同じではないという、その《同じではない》ということ自体が、人間社会にとって極めて大きな問題なのだというのは考察の自由に属するが、本当にそれが人類にとっての問題であれば、人類史を通して既に性差に基づく役割の違いはあったのだから、とっくの昔から同じ問題について議論され続けてきたはずだ。しかし、文字が発明され、文芸が始まってから残されてきた人文的資料に基づく限り、ジェンダーフリーという問題意識は具体的な形をとって残されていないと、小生は理解している。これが実証的観点というものだろう。

つまり純粋に新しい問題提起だと思うのだ、な。純粋に新しいということに着目すると「問題」というより、現代という時代を彩る服装や料理、味付けといった「流行」、固く言うと「風俗」により近いのではないかと観ているのだ。


統計分析の世界では、<ビッグデータ>を分析することによって<新しい知>が獲得できると、よく言われるのだが、膨大なデータを観察して初めて確認できるような細かな違いが、実は極めて重要であるということはあるのだろうか?

確かに<ビッグデータ>は流行の真っ盛りだが、こんな問題意識はそもそもの最初からある。

それほど大きな意味がある、重要な発見であるなら、今になって初めて気がつくってことがあるんでしょうか?検証はともかく、予想なり、仮説なりの形で人間は気が付いていたはずではないか。これまでの人間は、まったくのお馬鹿さんだったわけですか?

そういうことであって、最近になって登場した新しい問題提起もこれと似た面がある。


ごく最近になってから初めて気が付いた問題点は、そもそも大した問題ではないのではないか、と。

もちろん科学技術知識は単調に増大するので、自然界については真の意味で《発見》というものがある。しかし、人間社会はずっと昔からあるわけで(マア、ずっとあるのは自然界もおなじであるが)、社会があるなら愛憎や財産相続、強者と弱者の違い、更には政治や経済、宗教や迷信、伝説もあったはずだ。人間社会に<発見>などという「いま初めて分かる事」など残っているのだろうか?何しろ、自分たちに関する事だ。自分たちの傾向など、とっくに気が付いているはずではないか ― 世間に疎い専門家は別として(?)。

やはりどうせ考えるなら、解明は難しくとも、古くからずっと人間が考え続けてきた問題に取り組みたいものだ。

【加筆】2022-12-27、12-28






2022年12月21日水曜日

一言メモ: アメリカFRBの金利引き上げは続くのだろうか?

アメリカの金融当局であるFRBが《インフレと戦う騎士》よろしく、今春以降果敢に進めてきた《攻撃的金利引上げ政策》、12月には引き上げ幅を縮小するものの、より高い金利ピーク値に向けて今後も「上げスタンス」は(断固として)継続する姿勢を鮮明化してきている。


この点に関連して、少し前にこんな投稿をしている。タイトルは『ホンノ一言: 景気後退が見えてきたのは政策的には明るい兆しかも』。

株価は半年程度の先行性をもつ。景気上昇のピークが見えず、金利が上がり始めれば株価は現実に下がり始める。逆に、景気後退が予見され、金利低下局面が見えて来れば株価は上がり始める。

株価は今年の春以降ずいぶん下がった。今年は寅年で「千里をかける」はずだったのだが、どうやら下り坂を疾風のように駆け下ったのが「虎は千里を走る」の意味であったようだ。

ところがまだ株価は上がり始めない。金利ピーク感が中々見えてこないからだ。

先日のWall Street Journalにはこんな記事があった:

 米連邦準備制度理事会(FRB)が信頼性の問題を抱えている。FRBは「利上げの継続」、「5%超までの利上げ」、「少なくとも来年末まではその水準で維持」という三つのことを市場に信じさせようとしているが、投資家は三つ目を完全に拒絶している。

URL: https://jp.wsj.com/articles/the-markets-dont-believe-the-fed-11671177198

Source: WSJ, 2022 年 12 月 16 日 16:54 JST

具体的には、FRB当局とNY市場に集まる投資家の見通しに乖離している:

インフレ抑制を目指すFRBにとってはさらに悪いことに、投資家が利下げについて、開始時期は政策当局の見解よりも早く、スピードはそれよりもずっと速くなると考えている。市場が正しければ、政策金利は2023年夏のピークから24年末までに約2ポイント低下することになる。

 FRBは14日、政策金利のピーク水準の見通しを引き上げ、ピーク後の引き下げ幅をより緩やかにすることを示唆した。これを受けて株価は下落し、米国債利回りは一時的に上昇した。それでもまだ市場が政策当局に同意しているとは言い難い。

URL: 同上


FRBが親共和党のスタンスをとれば傾向としてWall Streetと親和的になる。反対に、親民主党のスタンスをとればFRBは投資家の期待よりは一般勤労者世帯の経済に配慮する傾向が出てくる。一般勤労者世帯の経済とは「暮らし向き」のことである。従って、親民主党的な金融政策は、基本目標として雇用重視、賃金重視になる理屈である。故に、親民主党的なスタンスをとれば「景気後退」は最も忌むべきリスクとなる。これが基本的なロジックだった。


いま現在のFRBは投資家の思惑と溝を深めつつある。しかし、民主党に近いと目される経済学者達とも何だか見解を異にしつつあるようだ。

たとえば、クルーグマンはThe New York Timesにこんな見方を伝えている:

 So where are we on the inflation fight? Until recently it was clear that overall spending was rising too fast to be consistent with low inflation, and my superdupercore measure suggests that this may still be true. I certainly understand why the Fed isn’t ready to declare victory yet.

But given the absence of evidence that inflation is getting entrenched, victory may be a lot closer than many people imagine.

FRBはインフレとの戦いに勝利することを最優先の目標に掲げている ― インフレが庶民の暮らしを直撃する点は間違いない。このこと自体に反対してはいないが、しかし、予想よりも早いタイミングで現在のインフレ・ファイター姿勢から方針転換するのではないかと期待している。そんなモヤモヤした心情が伝わってくる書きぶりではないか。

KrugmanはBlanchardと同様、<インフレ2%目標>にも疑念を明らかにしており、むしろ物価上昇率が4%まで低下すれば、その状態が望ましいとも(別のNYTコラム記事で)述べている。

スティグリッツはもっと過激で、金融引き締め(=金利引き上げ)に軸足を置いた経済政策自体を批判している。

Let us return to the big policy question at hand. Will higher interest rates increase the supply of chips for cars, or the supply of oil (somehow persuading MBS to supply more)? Will they lower the price of food, other than by reducing global incomes so much that people pare their diets? Of course not. On the contrary, higher interest rates make it even more difficult to mobilise investments that could alleviate supply shortages. And as the Roosevelt report and my earlier Brookings Institution report with Anton Korinek show, there are many other ways that higher interest rates may exacerbate inflationary pressures.

Well-directed fiscal policies and other, more finely tuned measures have a better chance of taming today’s inflation than do blunt, potentially counterproductive monetary policies. The appropriate response to high food prices, for example, is to reverse a decades-old agricultural price-support policy that pays farmers not to produce, when they should be encouraged to produce more.

URL:  https://www.theguardian.com/business/2022/dec/09/raising-interest-rates-inflation-central-banks-recession

Source:  The Gurardian, Project Syndicate

Date:  Fri 9 Dec 2022 14.02 GMT

このように、足元のインフレーションの発生原因がサプライ側にある点を考えると、金利引き上げによってインフレ抑制を図るのは愚策であり、コロナ禍に対応した大盤振る舞いの後の収拾段階として財政を引き締める方策が最良であった、と。金融政策ではなく財政政策が現在のインフレ抑制には効果的である、と。<攻撃的金利引き上げ>は即刻止めるのが正解だ、と。こんな風に論じている ― 「正論」という点ではこちらが正論であると、小生も同感だ。

最初に引用した投稿の最後に

どちらにしても、来年になってまだ金利を上げるようなら「バカじゃないか」という声が増えそうである。

こう書き足しているのだが、どうも現状をみると、果たしてこんな風に展開しそうになって来た。


財政政策はバイデン政権の判断を待つしかない。大盤振る舞いが好きなのは民主党政権の傾向でもある。その民主党に親和的なスティグリッツが財政引き締めを提案しているのは、非常に興味深いところだ。

・・・となると、現在のFRB当局は基本的にどんなスタンスをとっているということなのか?

親共和党的ではない。かといって、親民主党的とも言えないようだ。アカデミック・サイドの経済学者の見方ともずれて来ているようだ。誰の影響を一番受けているのだろう?FRB部内で共有されている《経験知》、誰の見解とも言えない《集合知》が働いている、ということなのだろうか?