2022年12月30日金曜日

断想: 「運命論」と「責任論」

 技術進歩や経済成長の加速・減速についても「人為的コントロールは不可能であり、なるべくしてなるもの」と考える「運命論」の観方があるくらいだ。歴史全体がどのように進んでいくかなど、一介の政治家や国民が望みどおりに決められるものではないという観方があって当然だろう。歴史はHow-Toで割り切れるものではない。「運命論」がなくならないのは正に当たり前である。

もし世界を運命論的に解釈するなら、人間社会のあらゆる結果は歴史の必然によるもの、個々人の立場に立てば「業(ごう)」が然らしめたもの、という観方になるので、当事者個々人に結果の責任を負わせるという思考にはなるはずがないわけだ。全ては「神のはからい」となり、人間に大事な行為は「責めること」ではなく、「許すこと」になる。日本の鎌倉仏教を開いた一人である親鸞が『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』と言ったのは、悪行を重ねる業(ごう)を負った悪人こそ憐れむべきであり、救済されるべきであるという主旨であり、この意味で「他力本願」の思想は「運命論」に分類される。

ずっと昔から《戦争》は戦われるべくして起きる避けがたい悲劇である、そう観られていたものだ。というより、すべて《悲劇》というのはそんなものである。誰でも悲劇の主人公にはなりたくはない。それでも悲劇が起きてしまうのは、それが避けがたいからであろう。戦争が人類にとって悲劇であるとすれば、やはり当事者には避けがたいからであるに違いない。実に、人間社会の行く末は神のみぞ知る。人智を超えた超越的存在を信じる立場に身を置けば、どうしてもこんな世界観になるはずだ。

もう何年も前になるが東京に住む一人の叔父が

〇〇君、本当に何事も思う通りにはいかないものだネエ・・・

と電話の向こうで話していたが、これが人の生きるこの世界の本質ではないだろうか?


正反対の世界観もある。例えば、中国の儒学は『怪力乱神を語らず』を鉄則にしている。理屈で説明できない現象、人間の普通の頭で理解できない存在は相手にしない。そんな世界観である。人間の感覚でとらえられない存在を否定するのは、自然科学が発展する中でにわかに18世紀・西欧で影響力をました《啓蒙主義》とも似通っていて、どちらも人間中心のヒューマニズムにつながる見方である。

啓蒙的な世界観に立てば、人間世界のことは人間本位で決めるべき事になる。真理や善悪の判別、何が美しいか醜いかといった「守るべき価値」も神が定めた規範というより人間が生み出すもの、人間が決めるものというロジックになる。

その果てに科学的社会主義が誕生し、毎日の生活や富の分配も自然に任せるのではなく、人間が最良の形で計画すれば理想的な社会を築くことが出来る、と。そんな思考にまで発展していくのは、啓蒙主義的に世界を考えているからである。

この啓蒙主義的世界観、これに加えて超越的存在に否定的な儒教的世界観もそうだが、その時に生きて活動している人間を中心に社会の出来事を観るが故に、戦争は必然的に発生したものではなく、誰かが主体的に選択した人間の行為であると解釈することになる。更に、全て社会的な現象は避けがたい結果ではなく、賢明な政策によって改善されうるものである、と。こんな風に思考することになる。そして、こんな世界観によれば、戦争には「戦犯」が必ず存在することになり、その戦犯が戦争を決意したと解釈するのであり、ロジックとしては戦争犯罪の認定から刑罰の確定、こんな手順に沿うべきである、と。マア、こういう《責任論》が盛んに論じられるという帰結になるわけだ。


少なくとも現代世界で支配的な世界観は、17世紀以降の西欧市民革命の精神をそのまま継承するような、科学と理性に信頼を置く啓蒙主義の潮流にあるのだろうと思っているのだが、実はこう考える立場は一方の極端を占めるもので、正反対の世界観から出発して物事を判断している人たちは、今でも現代世界において予想以上に多くいるのではないか。そう思うのだ、な。

多くの人たちがもっている思考や価値を下らないものとして軽視するのは傲慢というものだ。


《人類の知》は、(バートランド・ラッセルが整理したように)科学の反対側に宗教があり、両者を介在するポジションに哲学がある。西欧と北米では(あるいは日本も?)啓蒙的な思想が濃厚であるが、その基盤には科学がある。科学はなるほど人類に《豊かな社会》をもたらしてきた。厳しい肉体労働から人間を解放し、長寿社会をもたらした。しかし、長寿は必ずしも幸福を約束しないだろう。科学は必ずしも《幸福》をもたらすわけではない。

人類社会に最も重要な価値は《豊かさ》というより《幸福》であるのは自明だと思っている。

いま、ロシア=ウクライナ戦争をめぐって、ロシアの「戦争犯罪」を追及する欧米の姿勢がよく伝えられているが、これまた極端な観点に立った見方だと小生は考えているし、これが極端な見方であることを意識しないことはもっと恐ろしい、というのは最初から本ブログにも投稿している観点でもあるのでこれ以上書く必要はない。

0 件のコメント: