2022年12月25日日曜日

断想: ずっとある変わらない問題といま流行している問題と

ちょうど100年前になる1922年の日本を『現代日本経済史年表』で確かめてみると、2月6日にワシントン条約が調印されている。

第一次世界大戦後の国際外交関係を方向付けたいわゆる《ワシントン体制》は、ここから始まるのだが、主たる潮流は《軍縮》であった。特に海軍軍縮は各国の財政再建にもつながる最重要な国際的課題だった。国際連盟の常任理事国となった日本が「協調外交」を進めたのもこの「ワシントン体制」の枠組みを尊重したからだ。ただ、ワシントン条約の影響で日本国内の造船業は大打撃を蒙ることになり、上の『年表』にも「造船業界、海軍軍縮により大打撃を受ける。以後1932年まで不況』と説明が付記されている。また、英米に比べて相対的劣位を強いられるようになった帝国海軍に不満を残した点も後々の火種になった。その意味では、1922年という年は日本の針路を決める歴史的分岐点でもあったのだ。

その5日前の2月1日には明治初めから一貫して「帝国日本」のあり方を設計してきた山縣有朋が死去している。また前年、1921年11月4日には明治末期から大正にかけて日本の政治を主導した政友会の原敬首相が東京駅頭で暗殺されている ― 本年7月の安倍晋三元首相の暗殺事件といい、この辺り何だか非常に重要な歴史的分岐点にさしかかるタイミングで、悲劇的な暗殺事件によって中心的政治家を失うという日本の悲運を感じる。原といい、山縣といい、日本国の針路を決める船長を失い、その1ランク下の部下が指導者になって、難しい時代を漂流するように進む感覚がそのまま昭和時代にまで受け継がれていったのかもしれない。

1922年7月15日には「日本共産党」が結成され、それに対抗したのかもしれないが、8月1日には「日本経済連盟」が設立されている。「ブルジョア vs プロレタリアート」、つまり「財界と左翼」というべき、今に至る左右対立構造がちょうど100年前の日本で視覚化され、庶民の目にも明らかになったわけだ。いわゆる《大正デモクラシー》を象徴する出来事である。

そして、1922年の翌年、1923年は関東大震災が首都を襲った年である。明治維新で戦火を免れた東京の街は焼亡し、時代は明治・大正から昭和へと一気に変容する区切りとなった。

前の投稿で江藤淳『漱石とその時代』から一つ引用したのだが、パラパラとページをめくると興味を魅かれた箇所には傍線を引いていて、どことなく自分史を振り返るような思いがする。

そんな中で忘れていた一か所(―句読点、送り仮名など、適宜、書き換えている):

国運の進歩の財源にあるは申すまでもこれなく候へば、お申し越しの如く、財政整理と外国貿易とは目下の急務と存じ候(そうろう)。同時に、国運の進歩は、この財源をいかに使用するかに帰着致し候。

ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、ただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存じ候。

欧州今日文明の失敗は、明らかに貧富の懸隔甚だしきに基因致し候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、もしくは無教育に終わらしめ、却って平凡なる金持ちをして愚なる主張を実行せしめる傾きなくやと存じ候。

明治35年3月15日付け、岳父・中根重一宛ての書簡でこう書いている。西暦なら1902年。日英同盟が締結された年にあたる。

この時代、大蔵省でも内務省勤務でもない一介の英文学専攻の研究者である夏目金之助(漱石)が、この専攻、この年齢で、財政整理(=財政健全化)と外国貿易(=おそらく外貨蓄積を指す)とが国家運営の勘所であることを理解し、限られた財源から毎年の歳出をどうするかが最重要だと認識できているのは驚きだ。やはり(同時代の人には周知のことだったろうが)漱石なる人物は単なる「小説作家」とは言えない。

「財産の不平均」は、所得・資産分配の不平等を指しており、この分配不平等が生活困窮、教育の遅れなどを通じて、高級な問題を担当するべき有能な人材の枯渇をもたらし、結果として富裕階層出身の平凡な子弟が大事な仕事を担当する。そういうシステムが社会に定着してしまう……こんなことまで指摘している ― 本当にこのような因果関係があったのかどうかはデータに基づいたキチンとした実証的検証が必要だが、その可能性を指摘できているのは単なる英文学者には出来ない話だ。それにしても

結局、日本社会の問題というのは、明治の昔から、というより江戸の昔から変わらないんだネエ

と改めて確かめられる次第。それと、夏目金之助は、小説作家・漱石というよりは、海外事情にも通じた有識者・夏目金之助であった、ということだ。

そんな夏目漱石であっても、「ジェンダーフリー」という言葉や「LGBTQ」などという言葉は、現実にあった人間の行為はともかく、こんな単語を目にすることはなかったに違いない。

その逆にあたるが、明治の人・漱石が現代日本人は聞いたことがないような明治という時代に特有の感覚で言葉を尽くすことは多かった。例えば、現代日本では消滅してしまった「家」の濃密さやその面倒臭さなどはその好例だろう。晩年の傑作『道草』などは全編そんな類の悩みで作品が成り立ってしまっている。

そういう時代の違いを意識させる点が多々あるものの、漱石の作品が現代日本人にも(比較的)分かりやすいのは、島崎藤村のように明治時代に特有の問題を作品で扱ったわけではなく、今でもあるような普遍的な問題をテーマとしているためだ。それでも、『それから』から『門』にかけての主人公夫婦が、<たかが不倫くらいで?>何故あれ程まで世間から隠れるように生きなければならないのか、現代日本人には(正直)ピンと来ない所がある、そう感じる人も多いのではないだろうか。漱石の倫理観と言えばそれまでだが、彼の生きた時代には妾(=愛人)を複数もつ大物も珍しくはなかったのである。明治という時代に特有の生活感情を自分にとってのリアリティだと理解しながら、なおかつ漱石の倫理観を共有するのは考える以上に難しいものだ。

つまり、問題意識とは時代とともに変わっていくものだ。何が大事な問題であるかは、そもそも世代によって異なる。

話しは戻るが、漱石が言ったのと同じ問題が現代日本にも観られるとすれば、それはずっと解決できていないからである。でなければ、敗戦と高度成長で一度はリセットされたものの再び同じような社会状況が現れてきたからだ。それは「そうなってもよい」と日本人が実は思っているからだ。そうでなければ、所得や資産に関係なく才能のある人材が公費に支えられて教育を受け、有能な人材となり、海外にも公費で派遣されて、経験を積み重ねてからは国会議員に選ばれたり、官公庁、民間企業、その他でも大きな仕事を担当しているはずである。そんな社会であるべきだと、与野党を問わず、実現のために努力をしているはずであるし、マスコミも取り上げ続けるはずである。

それが今になっても出来ていないとすれば、カネがないからでも、資源がないからでもない。日本人にその気がないからだ。そう考えざるを得ないではないか。

もう何度も指摘されたことながら、結局は「ヒトの問題」である。つまり「われわれ自身の問題」だというわけだ。

ジェンダーフリーという問題は漱石が生きた時代にはなかった問題意識である。ということは、少なくとも時代を超えた普遍的な問題ではなかったと言える。

古い問題は解決するのが難しい。人類がいくら考えても回答が得られないという点で解決困難なのだ。

こういう問題と上にあげた「ジェンダーフリー」や「LGBTQ」といった問題とは性質が違う。これらは新しく意識されてきた問題である。人の外見に基づいて判断する「ルッキズム」からの脱却などもそうだ。

どれも100年前の漱石が聞けば、問題の存在自体に驚くだろう。

100年後の世間じゃ、そんな話になっているんで……、やっぱりあれだネエ、100年もたてば世の中変わるってことですネエ。想像もできない。

とでも言うだろうか。

上のどれもが、人類始まって以来、初めて問題化されている。

ただ、どうなのだろう・・・と、(小生、へそ曲がりなもので)疑わしい気持ちにもなる。

男性と女性は人類発祥以来、というより多くの生物種の誕生以来、ずっと存在してきた個体差である。その中で、人間社会における両性の処遇が同じではないという、その《同じではない》ということ自体が、人間社会にとって極めて大きな問題なのだというのは考察の自由に属するが、本当にそれが人類にとっての問題であれば、人類史を通して既に性差に基づく役割の違いはあったのだから、とっくの昔から同じ問題について議論され続けてきたはずだ。しかし、文字が発明され、文芸が始まってから残されてきた人文的資料に基づく限り、ジェンダーフリーという問題意識は具体的な形をとって残されていないと、小生は理解している。これが実証的観点というものだろう。

つまり純粋に新しい問題提起だと思うのだ、な。純粋に新しいということに着目すると「問題」というより、現代という時代を彩る服装や料理、味付けといった「流行」、固く言うと「風俗」により近いのではないかと観ているのだ。


統計分析の世界では、<ビッグデータ>を分析することによって<新しい知>が獲得できると、よく言われるのだが、膨大なデータを観察して初めて確認できるような細かな違いが、実は極めて重要であるということはあるのだろうか?

確かに<ビッグデータ>は流行の真っ盛りだが、こんな問題意識はそもそもの最初からある。

それほど大きな意味がある、重要な発見であるなら、今になって初めて気がつくってことがあるんでしょうか?検証はともかく、予想なり、仮説なりの形で人間は気が付いていたはずではないか。これまでの人間は、まったくのお馬鹿さんだったわけですか?

そういうことであって、最近になって登場した新しい問題提起もこれと似た面がある。


ごく最近になってから初めて気が付いた問題点は、そもそも大した問題ではないのではないか、と。

もちろん科学技術知識は単調に増大するので、自然界については真の意味で《発見》というものがある。しかし、人間社会はずっと昔からあるわけで(マア、ずっとあるのは自然界もおなじであるが)、社会があるなら愛憎や財産相続、強者と弱者の違い、更には政治や経済、宗教や迷信、伝説もあったはずだ。人間社会に<発見>などという「いま初めて分かる事」など残っているのだろうか?何しろ、自分たちに関する事だ。自分たちの傾向など、とっくに気が付いているはずではないか ― 世間に疎い専門家は別として(?)。

やはりどうせ考えるなら、解明は難しくとも、古くからずっと人間が考え続けてきた問題に取り組みたいものだ。

【加筆】2022-12-27、12-28






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