2023年1月7日土曜日

断想: 「変わらない日本人というもの」はずっと昔から意識されていたわけか

以前は元日に「家族そろって初詣」というのが習慣であったが、昨年も今年も今日七日の「どんど焼き」に松飾を持っていくのと併せて本殿に初詣するという方式になった。楽である。それでも朝食後に寒い境内で行列したせいか腹を下してしまった。やはり「松の内」というのでまだまだ参拝客は多い。

日本人は「無宗教」というがどうしてどうして……、無宗教と無神論とは明らかに違うという実例がここにある。


そういえば……、先日、小林秀雄が戦前の日中戦争期に書いた評論を引用したので思い出した一節がある。先日の引用箇所とそれほど離れた場所ではない。例によって、仮名づかいや鍵括弧を適当に変えたり、付けくわえている。

なるほど「自由主義」とか「マルクス主義」とかいう思想は、西欧の思想であるが、そういう主義なり思想なりを、今日これを省みれば、僕らはなんと日本人らしい受け取り方で受け取って来たか。主義を理解することは容易だが、理解の仕方がいかにも自分らしい、日本人らしいと思い至るには時間が要るのだ。総じて習い覚えた主義とか思想とかいうものには、人間を根底から変える力などないものだが、その根底のところにある変わらぬ日本人というものの姿を、僕らは今日捕らえあぐんでいる。

(中略)

自分という人間が変わったと信じていると、案外変わっていない自分を見つける機会に出会う経験は、僕らの日常生活によくある事だが、文化の伝承もまた微妙に行われる。

Source: 小林秀雄『戦争について』所載「満州の印象」(昭和14年)より引用 

とても戦前期に書かれた文章とは思えない……、21世紀になった現代においても、そう思う人は少なくないのではないか。


戦後になって「戦争放棄」を定めた新憲法を公布し、これまでその原則を厳格に守ってきたが、つい先日、それを「抜本的に」方向転換したところである。それもとても自然に。日本人は「これも仕方ないよね」と、どことなく割り切っている雰囲気が漂っている。

小生は、(我ながら)日本人の非論理性には呆れ、驚くばかりなのだが、小林秀雄が上で言っている《根底のところにある変わらぬ日本人というもの》が、いま足元で表面に現れているのだと解釈すれば、これまでの歴史の中で何度も繰り返されてきた一種の《転換》が、今まさに進みつつあるのだ、と。そんな風にも思われるわけだ。

ただ、よほど深く交流して、日本人の特性を深く理解してくれている近隣国ならよいが、通常の他国であれば、変わりつつある日本人に困惑したり、警戒感を強めたりするのではないかと心配になったりする。


小林秀雄は、「根底のところにある変わらぬ日本人」について何だか余裕ありげに記しているが、この余裕は明治維新から70年も経った昭和初期に生きていたから得られたものであるはずだ。

明治維新直前の慶応3年に誕生し、明治初期から中期にかけて成長した夏目漱石にはとてもこんな余裕はなく、変わらぬ日本人と「役に立つ人間になるため」修得しなければならない西欧式の思考との矛盾や葛藤、軋轢に、強過ぎるストレスを感じ、さいなまれたのも、同時代の日本の青年世代には共通の傾向であった。「文明開化」の被害者世代と言えるかもしれない。

そんな同種のストレスをいま現在の日本人もやはり感じているのかもしれない。ただ、今の日本は「民主主義」であるから、政府が強引に「欧化政策」を推進するのは不可能であり、日本国民が強く拒絶するのであれば、いかにそれが日本国にとって必要な政策であっても、実行は不可能である。


マスメディアに登場する「専門家」は、アメリカ・ヨーロッパ発の言葉と価値観に沿って話をしているが、実は視聴している普通の日本人の感性は案外昔のままの日本人に近い。それでギスギスする。こんな因果関係があるとすれば、ずっと昔から続いている日本的現象なのである。しかし、メディアも民間企業であるから、そんなギスギス感は出せるはずはなく、普通の日本人が受け止められる範囲内で、欧米風の議論を語ってもらっている。

日本のマスメディア事情はこんな風に達観している。


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