2024年1月4日木曜日

断想: 「満足して逝く」というのは想像もできません

この正月には同じ市内に住む上の愚息が一泊して帰って行った。下の愚息夫婦とは年の瀬にランチを一緒にしたので年末年始は嫁の実家で過ごすはずだ — 愚息は大晦日に宿直があるとかで詳細な予定は知らないが。

まあ、倅達たちとも長い付き合いになった。独立するまで同じ屋根の下で暮らしていた時分とはたまに会っても気分が違う。


将来、小生の方が先に逝くのは自然な順序だ。その後は、小生が「うつそみ」としては存在しない世界になる。

最近、憶測することが多いのだが、人生の最期を迎えるとき、ドラマのように『満足して世を去りました』などという状態はありうるのだろうか?

送る側としては

満足して逝ったと思います

と、参会者には挨拶したいものである。

小生も、ずいぶん昔になったが、父を送ったことがある。これまでにも何度か投稿しているが、父は成功を目指して取り組んだプロジェクトに失敗し、比較的若い年齢で世を去ったから、その時は『満足して逝ったと思います』などとは話しようがなかった。


ただ、最近になって気持ちが変わって来た。

リスクを承知で引き受け、あの時代には珍しいほど欧米を隈なく巡って海外調査をし、それが実施段階に入ってから提携先の労使紛争に巻き込まれ、事業が軌道に乗らない苦悩から体調を壊し、やがて担当からも外れ、最後には事業そのものも頓挫したわけなのだから、文字通り父の人生訓であった

人事を尽くして天命をまつ

を身をもって実践したとも言える。漢楚興亡の項羽ではないが、

これ天のわれを亡ぼすなり、戦の罪にあらず

満足するまで、というか刀折れ矢尽きるまで戦った人間は、自らの敗北を天命として受け入れるはずであり、であれば父も無念であったというよりは、やっぱり結果には満足だったのではないか、と。だから『父も満足であったと思います』と、どうしてあの時に挨拶できなかったかナア、と今では思うようになった。

*

ただ、満足して逝くという気持ちには、小生はついになれないだろうナアとは思っている。

大体、矛盾だらけの現世で煩悩にまみれた人生の最後に《満足》などを感じるはずがない。感じるとすれば《安堵》であるか、《解放感》であるに違いない。

*

少し前にも書いたが、『源氏物語』は全体としては恋愛物語であるが、肝心の主人公は5分の4の辺りで死んでしまい、後は孫の世代が活動する『宇治十帖』で、これは典型的な三角関係の悲恋の話しであり、主役の人物たちの無責任さが際立つ筋立てだ。

が、平安盛期の当時、男性達は漢詩・漢文・歴史の勉学に明け暮れ、同時代の藤原公任は『和漢朗詠集』を編纂している。そんな中、女流作家の日記文学が現れていたものの、『源氏物語』が描いている情景描写はいま読んでも露骨で他の作品とは異質であると感じる。異なる人物の心理は人物ごとの意識から描かれていて、登場する人物の数だけの世界があるので、互いに分かりあえることはない。家族には支えられているが本質的に孤独である。

だからこそ、男女を問わず中年を過ぎた後は《出家》を願い、家族・友人と離れて隠遁生活を送ることを願いとするのだと思われる。

現代流の言い方をすれば、深い教養をもったエリートが書いた高級なポルノ小説に近い読まれ方をしたのではないかナアと。そんな想像をしているのだ。もし宇能鴻一郎か川上宗薫が作中に詩を挿入しながら、同じ人物群の性愛、家族愛、自己愛を大河小説として書き続けていたとすれば、『源氏物語』と似たような文学作品になったかもしれない。谷崎潤一郎が現代語訳などには手を出さず、自ら『現代版源氏物語』を創作していれば、日本文学の至宝が生まれたかもしれない。

そして、そんな作品の主役は、煩悩に苦しむこの世の人生に満足するはずもなく、最後には解放され、安堵して逝くに違いない。平安盛期に浄土信仰が浸透したのは当然である。法然上人による阿弥陀信仰と専修念仏思想がやがて生まれる素地は平安盛期に既にある。そう思っているのだ、な。

千年も前の時代を前提としているが、それでも共感可能であるのは我ながら驚きに値すると感じる。この辺りは、化学を専攻し唯物主義的であった父とはまったく違っている。

 

2023年12月31日日曜日

断想: たかが会計、されど会計ということに尽きるはずだが

本年最後の投稿。

あまり明るい話題ではない。2023年という年は、コロナ禍は一段落し、株価も上がり盛況だったが、何だか意気が上がらない。変な一年であった。日本社会の基本構造に大規模欠陥箇所が確認され、その改造コストが無視できないレベルになると見通されているということか。

その一つ。

政治資金パーティによる裏金作りは、自民党安倍派ばかりではなく、他派閥でも横行していたというのでTVワイドショーでも年の瀬の大型ネタとして重宝されている。

世間の受けがよい意見であるが、小生にはピンと来ず、疑問に思う点を一つ。


ある中小都市の元市長が

キックバックが幾ら以上なら起訴し、それ未満なら起訴しないというのは可笑しいです。不正には変わらないのですから、捜査を徹底し、金額の多寡にかかわらず全員を起訴するべきです。

こう述べたところ、

その通り!もともと私はそう思っていました。不正は不正。額の多少じゃありません。

某レギュラー・コメンテーターが全面的に賛成です、と。

小生、ひっくり返りそうになりました。


同じ理屈を一貫させると

三人以上殺すと死刑になる、と。判例からそんな話があります。しかしネ、これは可笑しい。一人だろうと三人だろうと、殺人は殺人です。三人殺したから死刑なら、一人殺害の場合でも死刑にするのが順当です。一人ならイイという理屈は法律のどこにも書いていません。

こんな意見を述べなけりゃ理屈が通らない。問題が違うという御仁もいるかもしれないが、ロジックは同じだ。

更に、

意に反して人が殺されている事実に故意と過失に違いはありません。少なくとも遺族にとっては同じです。死んだ家族は戻らないんです。危険な速度で走行して、その結果、事故を起こし、人が死んだなら、殺人犯と同じです。死刑です。

そんな主張を展開することになりかねないのではないか?世の中、ひっくり返りますワナ。


そんな主張は誰もしない。刑罰の適用には色々な情状というのがあると誰もが承知しているからだ。一つ一つの不正や犯罪は、一人一人の人間と同じで、人が違えばみな違うものだ。要するに

一律にはいかない。

だから大陸欧州なら予審判事が起訴するかどうかを吟味し、英米なら大陪審か予備審問を行う。日本は予審がないので検察がそれをやっているわけだ。 

起訴法定主義なら予審で裁判の必要を吟味し、起訴便宜主義なら検察が起訴を検討し、起訴すれば裁判になる。刑事訴訟について国際比較でもすれば済む話しだ。今の法制度の検察を批判しても筋違いだと分からないとすれば、それ自体が不可思議。何か別の狙いがあるのだろう。


裁判にかける前に先ず事件を吟味するのは当たり前のことで、誰でも知っている事である。視聴者の方が賢いですゼ。

何度も投稿したが(例えばこれ)、まったくいつになっても、日本というお国は、

頑張る下とダメな上

そんなお国柄だ。

いま日本社会は、TV画面の中の三流専門家(?)を賢い庶民が面白がって視ている。そんな図式になっている……TV画面の向こうに一流の人物はまずいない。一流の人物はTV局の上層部の意向に従わないからだろう。これが邪推でないことを祈る。


まず先に、死刑とは何か、刑罰に死刑を設けるというのは何故か、要するにこういう問題を最初に考えないといけない ― ちなみに、小生は何度も投稿しているように、厳格な死刑廃止論者である。

政治資金も同じことだ。表か裏か、金額が〇〇超であるか否かではなく、政治資金とは何か、どう会計されるべき資金か?ここから固めておけば、後の議論が続く。そもそも、権力の座にいれば、贈収賄に巻き込まれがちで、意図することなく脱税を犯してしまうものなのだ。真の不正も混じるだろう。

会計を厳格にしておくのは、政治を守り、同時に政治にたずさわる「権力者」を守るためである。

全く同じだとは言わないが、国立大学教授が民間企業から研究費を受け入れ、それを黙っていれば、例え私的流用がなくとも「脱税」に認定される(はずだ)。必ず「奨学寄附金」として(企業側の手続きと相応して)学内手続きを済ませておく必要がある。研究資金というからには、当然、使途には制約がある。それでも、色々な事情があるのだろう、潜りで副業をしたり、潜りで金銭、資機材を受け入れたりする不祥事は大学内で発生しうる。

政治活動にも通じる話ではないか。機密費は機密費として認められているからそう計上しておけばいい。

目の前の問題が解答不能な難問に感じる原因は、ほとんどの場合、基礎をしっかり固めていないことにある。



2023年12月30日土曜日

覚え書: 三流の経営者が「選択と集中」を行ってきた悲劇ということか

ずっと以前、何年も前になるが、ある旧友と研究費の配分について議論したことがある。

旧友は、日本国内の研究費の配分は悪平等で、非戦略的、実に知恵のない方法で決められている。これでは研究成果に結びつくはずがない。大半の研究予算はドブに捨てられている。もっと《選択と集中》を徹底しなければならない。

こんな事を友人は主張したのだが、それに対して小生は

そもそも研究は砂漠で水脈を探すようなもので、あらかじめ水脈がありそうな区域が分かっているわけではない。分かっているなら、それは研究ではなく、ビジネスだ。所在不明の水脈を探すときに「選択と集中」などが有効とは思えない。

こんな反論をした記憶がある。

その後、同じテーマで論争をすることはなかったが、今でも小生は

純粋の研究費は、一様分布に沿って配分しても可である

そう考えている。 

もちろん結果の見込みがついているなら必要経費を割り振ってもよい。但し、こうした段階にある研究はもはやスタートアップを間近に控えたもので、アカデミックな研究というよりTechnology Licensing Organization(技術移転機関)に委ねるべき活動だ。

★

よく批判されているが、日本の大学間研究費分布は極端な少数集中型になっている。例えば、下の図を参照されたい。




URL: https://www.f.waseda.jp/atacke/kakenQA.htm

あからさまに言えば、日本においては東大、京大、東北大、阪大、名大に研究費の大半が集中して投下されている。

もちろん、東大、京大に研究予算が配分されても、その研究費を使える研究者が東大、京大所属の人だけに限定されるわけではない。研究チームに含まれる人は、学外の人材であっても研究には参加する。とはいえ、何を研究するか、どのような人材を研究チームに含めるかは、研究費を配分された大学に所属する人物が決定している(はずである)。

極端に言えば、日本におけるアカデミックな研究活動は東大・京大が主導していると言っても言い過ぎではないかもしれない。


上の図は、見ようによっては研究費総額に日米で大きな差があるため、日本においてはトップ層未満の大学に配分される研究予算が絶対的に乏しいのだ、と。大学間配分に問題があるのではなく、研究費総額が貧困であることが日本の学術分野の主たる問題である。そう考えることもできそうでもある。


しかし、個人的な感想だが、仮に日本で学術研究費総額が飛躍的にアップされるとしても、その時はその時で、研究費はやはりごく少数の大学に集中的に投下されるのではないか。即ち、上の図の赤い線がただ上方に平行移動するだけの結果になるのではないか。そんな風に観ているのだ。

かつて旧友が嘆いたような悪平等は日本の研究予算配分に認められない。むしろ事実は真逆なのである。

これは文科省(及び国内学術界?)が、研究活動においても「選択と集中」に徹しているということなのだろうか?それはメリハリのある、適切な方法なのだろうか?

上で書いた小生の発想に基づけば、純粋の研究にはなるべく一様に予算を散布し、見通しのついた研究は選択と集中で、ということになるロジックだが、そういうことか?

★

問いかけに全て回答しつくすのは難しいが、ビジネス分野に限っては手掛かりがある。

先日、読んでいたブログでこんな記事を見つけた。テーマは『日本の労働生産性はなぜ低いのか?』という問題である。

考えてみれば、初等中等段階の学力では先進国の中でも遜色のない日本人が、成長するに伴い劣化し、社会人になってからは低い労働生産性しか発揮できていないという現象は、不思議ではないか?

そんな問題意識から出発している。

この記事はこうまとめている:

公表されたリポートは、繰り返しになりますが、日本の人材の潜在的な優秀性を明らかにするものであり、企業部門において日本の労働力・人的資源を活かしきれていない実情を浮き彫りにしています。特に、イノベーション活動はひどい状況です。これは、いわゆる「選択と集中」の失敗によるものといわざるを得ません。選択先を失敗したわけではありません。逆に、イノベーションのためのは広くリソースを配分する必要があるのですが、成功しそうなところだけに集中的にリソースを配分しようとして失敗しているわけです。言葉を変えれば、「当たる宝くじを買う」ことを狙っているわけで、私には極めて非現実的な戦略に見えます。幅広い対象に向かって実施している教育と真逆の方向を志向するイノベーション戦略の転換も必要です。

上でいう「公表されたリポート」とは、日本生産性本部が本12月に公表した『生産性評価要因の国際比較』のことである。

日本の企業、つまり生産現場において、元々は能力のある労働資源を活用できていない。そんな実態を指摘している ― もっと前に指摘できなかったかネエ……。有効なイノベーションがほとんど実現できていない。これは、要するに《選択と集中》の失敗によるものだ。

こんな風に考察している。

そこから得られる一つの帰結は

凡人が行う選択と集中などが成果を生むはずがない。 

選択と集中は一流の人材が行ってこそ結果が出る。三流の人物が下手に選択し、集中を行うと、最悪の結果につながるものだ。

日本の企業経営では、往々にして人柄のよい人がトップ層を形成する。そんな人々が「選択と集中」を行うのは、実に危険な選択なのである。そして、それが「危険な選択」であることが分かってこなかったことこそ、この20年ないし30年間の日本の失敗である。

似たような論題は以前にも投稿したことがあるが、マ、(今更とも言えそうだが)当たり前すぎる事実だ。そう思われるのだ、な。



2023年12月26日火曜日

ホンノ一言: メディア報道にも「第三者による品質評価」が必要では

 少し前の投稿で

2023年という年は《人権元年》と呼ばれるようになるかもしれない

と、こんな事を書いている。

実際、そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。というのは、年の瀬になってから、自民党安倍派による政治資金パーティ裏金作りが露見して、そうかと思えばダイハツによる不正検査が暴露されたりと、人権というよりガバナンスの問題が次々に浮上したからだ。

であるので、

2023年という年は《人権元年》、もしくは《メディア崩塊の始まり》

ひょっとすると、こう予想しておく方が適切かもしれない。

政治資金裏金作りは、一介の大学教授が刑事告発する前に、大手メディア企業がスクープしておくべき事柄だった。油断というより、サラリーマン化してヤル気がなくなっているのだろう。

結局、日本国内のマスコミは、報道するべき事柄は報道せず、大した事ではない不祥事をネタにして無防備の個人を追い詰め、社会的制裁を加えて人権を侵害することを生業とするようになった ― 許認可に基づく寡占を公認されているTVメディアを想定して書いているのだが。

『味噌もクソも』という表現があるが、味噌・クソ混ぜこぜなら、まだ許せる。しかし大半はクソだという状態になれば、敢えてオカミ公認のビジネスにする必要もないだろう。これで信頼が崩壊しないなら、日本社会がどうかしている。

★

大雑把な筋道を書く。

(NHKを除く)地上波TVメディアとその他のメディアが担う報道機能には大きな違いがある。

TV以外の報道メディアの受益者は、情報の受取者であって、故に情報の信頼性に疑問符を感じれば、受け取り側が対価を支払わず、その情報を利用しないという選択肢をもつ。それが市場規律となって(最小限の?)報道品質を守らせる。

それに対して、TV企業が提供する(報道・情報を含めた)番組の受益者は、実はスポンサー企業であって、提供される情報の受取者ではない。TV企業が放送する報道番組は、スポンサー企業のプロモーションが目的であって、視聴者はプロモーションのターゲットとして認識されている。視聴率が参照されるのは、視聴者の満足を測定するためではなく、プロモーションが機能しているかどうかを測るのが目的だ。

そして、視聴率を上げるには、(以前にも投稿したことがあるが)歪みのある能力分布を前提すれば、平均未満の階層をターゲットにすれば母集団の過半数に対して遡及することができる。TV企業が放送する情報番組が、社会全体の平均に対して幼稚と思われる水準に近付くのは、必然的かつ合理的な帰結である。

メディア報道に対して視聴者側から批判の声が高まらないのはロジカルである。

もちろん、「こんな仮説とロジックが当てはまるのではないか」という推測である。

★

自民党も党改革に向けた検討会議を設けるようである。また「検討」かと呆れるというのが感想だが、問題意識をもっているだけまだマシであろう。日本国内のマスコミ界は、信頼崩塊の中にいるにもかかわらず、体質改善に向けて何のアクションも起こしていない。

例えば、大学では授業担当教官ごとに《自己評価》を行うとともに、受益者たる学生による《他者評価》を毎年行っている。何年に一度は《外部評価》も受けている。他教官による《相互評価》、《相互参観》もある。これらがどれだけ教育の品質向上に役立っているかを確言するのは難しいが、実証的分析には値するであろう。何にせよ活動と成果を結びつけるには客観的検証が不可欠だ。PDCAサイクルの狙いもここにある。

★

だとすれば、マスコミの報道品質について、《第三者による報道品質評価》をネット上で実施すれば良いのではないだろうか?対象は、メディア企業を評価単位としてもよいし、個々の報道番組、情報番組を評価対象にしてもよいだろう。

運営は、メディア業界と利害関係のない独立した消費者、企業、学界から選任し、消費者団体、教育界、財界、労働界などが寄付をして非営利団体を創設すればよい。

日本の経済活動の中で、民間企業は取引先や同業他社による厳しい目にさらされている。他方、政党や政治家は有権者の目を逃れがちであるし、官僚は政治家と国民をだますことが可能だ。同様に、メディアが提供する情報は、ドラマやバラエティなどとは異なり、現実社会をとりあげながら、自社都合に合うように内容を恣意的に編集する動機をもつ。

実際、オープンな場であるネット上の論調とメディア上の論調とが大きく乖離している話題は数多い。学界の専門家が疑問とする解説や報道も数多いようだ。

メディア報道にも《第三者による品質評価》を定期的に行うシステムが必要だ。

第三者による報道評価と人権擁護団体が連携して活動できれば、日本社会の風通しもずいぶん良くなるだろう。

2023年12月23日土曜日

覚え書: 運送にも人が足らないのに、国防に人が足りるわけないのでは

 最近の投稿で、

日本に足らないのは人手だけではない。電力(≒エネルギー)もまた恒常的に不足している。

こんな事をメモしている。世間では「足りない、足りない」とばかり話している様子なので、人だけではないということを言いたかったわけだ。

そうそう、足りないといえば、日本政府もまたカネ不足である。が、まあこちらは日本国としては資金余剰(=経常収支黒字)、つまりは貯蓄超過(=投資不足)であるので、それほどは心配は必要ない。

本日は、米紙のNYTが、先頃、至極ご尤もな指摘をしていたので、転載しておきたい。

Japan has committed to raising military spending to 2 percent of gross domestic product, or by about 60 percent, over the next five years, which would give it the third-largest defense budget in the world. It is rapidly acquiring Tomahawk missiles and has spent about $30 million on ballistic missile defense systems.

But as the population rapidly ages and shrinks — nearly a third of Japanese people are over 65, and births fell to a record low last year — experts worry that the military simply won’t be able to staff traditional fleets and squadrons.

The army, navy and air force have failed to reach recruitment targets for years, and the number of active personnel — about 247,000 — is nearly 10 percent lower than it was in 1990.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 13, 2023

Author: Motoko Rich and Hikari Hida

URL: https://www.nytimes.com/2023/12/13/world/asia/japan-military.html

防衛予算(=国防費)を対GDP比で2パーセント水準まで拡大しようという、誰もが知っている話しである。

その財源をどうするかというので、いま岸田内閣は苦悩しているのであるが、上のNYT記事は、仮に財源が増税か何かで(その何かはないはずだが)見つかったとしても、もう日本には「使える人」がおらんでしょう、と。

高齢化と少子化に歯止めがかからず、国のために動く人は減り、国から面倒をみてもらおうと願う人ばかりが増えている。これが戦後約80年が過ぎた今の日本国である。

国防ばかりは移民に頼るわけにはいくまい。

国防予算拡大が絵に描いた餅にならないよう願う。

軍事と外交、経済のリバランスをもう一度よく考えた方がよいだろう。経済は《経国済民》、経済をしっかりと固め、次に外交へ、最後に軍事をどう用いるかを考えるのが自然な順序というものだろう ― 戦力不保持という憲法上の、というか法理的な問題解決は脇に置くとして。

2023年12月21日木曜日

覚え書: 自分がリベラルか、保守派か、どうでもいい事ではないのだろうか?

リベラルな意見を持つよりも先に『自分はリベラル派なのか?』とか、保守的な社会観を自分はもっていると自己認識する以前に『自分は保守派に属するのか?』といったような《帰属に関する懐疑》を自分で抱いては、《自分の居場所》について悩んでいる人が、この日本では意外と多いのかもしれない。

というのは、こんな記事がネットにはあるのだ、な。失礼の段は御寛恕賜るとして、一部を引用させてもらおう:

ちなみにリベラルの反対語は保守ではなく、権威主義です。今週、バイデン大統領がメキシコとの国境の壁の建設を再開させました。ついに公約を覆した理由は「想定以上の国境破りに手を焼いたから」とされます。この場合は不法越境者に穏便な態度を取ったことで「我も、我も」とアメリカ大陸のはるか南から何千キロも北上して藁をもつかもうとする難民に奇妙な期待感を提示したのです。結局、バイデン氏はギブアップして権威的に壁を作らざるを得なかったわけです。

対中国の外交姿勢はアメリカも日本もリベラルっぽいところと権威的なところの折衷です。日本の権威的な姿勢はアメリカに同調という名の服従型で同盟国内のリベラルとも言えなくはないでしょう。個人的に思うのはリベラルに走り過ぎるとグリップが効かなくなるのです。永遠に人の欲望を聞き続けなくてはなりません。アメリカの自動車業界のストライキもまだひと月はやるでしょう。その後も様々な産業で好き勝手な主張が出てくるはずです。組合が強いのはリベラル主流だともいえます。その点、日本は歴史的には結構、権威主義的な国です。

Source:あごら AGORA 言論プラットホーム

Author: 岡本裕明

URL:https://agora-web.jp/archives/231006215052.html


書かれてある内容は小生もまったくその通りだと思うが、なぜリベラルとか権威主義とか、そもそも社会に様々ある意見をクラスタリングした結果としてのグループ名が、これほど真剣に議論されるのだろうか?

個人個人のマチマチ、バラバラの意見の分布がまずあって、その後に主張や価値観の類似性に着目してグルーピングする。そうしたら、たまたま英単語の中の"Liberal"や"Conservative"というネーミングが偶々マッチする。そんなクラスター(=グループ)があります。それだけの意味しかないのではないか?

まして、自分が社会全体の中のどのクラスターに所属するかなど

あっしにゃあ、関わりのねえことでござんす

と、社会学者か政治学者か知らないが、そんな括り方には我関せずと、オトボケの姿勢を終始一貫保つとしても、何ら罪ではないのである。なのに単なるネーミングだけのグループ名を

なぜ気にする?

自分はリベラルであるのか、コンサバであるのか、自分の意見よりも先に自分の帰属先を気にする心理が小生には七不思議なのだ、な。まず先に企業なる存在がある就職活動じゃあないのだ。自分はどう感じ、どんな風に考えているか。自分の考えがまず先にある。それがリアリティである。各自、自由勝手のはずである。その自己自身というリアリティが、統計的仮構に過ぎないグループのいずれに属するかになぜこだわるのだろう?


経済学者のGregory Mankiwというと世界的ベストセラーとなった教科書の著者として有名だが、氏のブログに面白い投稿がある。

This graph from David Leonhardt's column is illuminating. Now I understand why those of us who are fiscally conservative and socially liberal have trouble finding political candidates to fully represent our views. There are too few of us!

"This graph"というのは下の図である。


財政については保守的、社会的にはリベラルであるような人々が余りに少ない、というのがMankiwの所感である。

実際、弱者救済を政府の責任と考えるリベラル派は「大きな政府」、つまり高い税負担率と高額の福祉給付を主張して、初めて論理が一貫する。Mankiwはそうではないというのだから、確かに極めて珍しいタイプの経済学者である。例外的カテゴリーに属しているので、彼が属するクラスター名は無いというべきだろう。

ま、これ以上のことは同氏の所論を直接に読み込んで知るべきだ。少なくとも、自分の意見が先にあって、自分の帰属先は後から分かる。自分が少数派に属する事もその時になって分かる。自分が属するクラスター名などは付いていない。だとすれば、Mankiwと同じで、名誉なことだろう。

実に健康だと思う。

料理にはフランス料理もあれば、和食もある、中華料理もある。フランス料理にはフランス料理のメニューとレシピがある。和食もそうだ。中華もそうだ。しかし、自分で美味だと思って作った料理がフランス料理になるのか、はたまた和食になるか、中華になるか、そんな質問を自分に投げかけても意味はない。フランス風中華料理であるかもしれないし、日本風フランス料理であるかもしれない。同じことである。

 


2023年12月20日水曜日

覚え書: 先行き不透明でも、いま伝えるべき事実があれば伝えるべきだろう

 植田日銀総裁が今後の経済見通しに関して

当然のことながらこういう状態になったらどこをどういうふうに変えていくか政策について常日頃からいろいろ考えている。ただ、先行きの不確実性がまだ極めて高い状況で、物価目標の持続的安定的な達成が必ずしも見通せない状況なので、出口でどういう対応をしていくかということについて確度の高い、こういう姿になるというものを示すことが現在は困難であるということかと思う。そこが見通せる状況になれば適宜、発信していきたいと思う

19日の記者会見で、このような見解を述べたそうだ。 

金融面での超緩和政策を転換するとして、どんな形で進めていくか、今の段階で具体的イメージを語りにくい、と。

まったくその通りだ。


それより、米経済はソフトランディングに成功する確率が上がっている一方で、ヨーロッパ経済、日本経済はどうかと、全体に先行き不透明感が晴れないのは、コロナ禍三年の間のセンチメントとほぼ同じであるのは、むしろ驚くべきことである。そして、ロシア=ウクライナ、イスラエル=ハマスでは戦争状態になり、この他にもいつ戦争状態になってもおかしくないという地域がある(と言われている)。極めて不透明である。


試みに日本とアメリカの経済見通しをOECDのLeading Economic Indicator(LEI)でみると、


URL: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

アメリカ経済の先行き見通しが強気になっているのが指数にも表れている。日本は何だか冴えないが、少なくとも今後3カ月から半年先にかけて下向きの懸念があるとは言えない。

これに対して、ヨーロッパ経済はどうかといえば、


ドイツ、フランスといったEURO圏は暗い。一方、イギリスは様相が違う。この数カ月で随分とセンチメントが改善されてきた ― ちょっと不思議ではある。イギリス経済については厳しい見方が大半を占めていた。それなのに、ということだ。

実際、
イギリスの国立経済社会研究所(NIESR)は、同国が今後5年にわたる「失われた経済成長」を迎え、貧しい人ほど影響を受けると警告した。

Source: BBC NEWS JAPAN

Date: 2023年8月9日

こんなBBC報道もある。同じ報道で
イギリスの国内総生産(GDP)が、パンデミック前の2019年の水準まで戻るのは2024年下半期だと、NIESRはみている。

また、弱く「ぎくしゃくとした成長」が5年間続くことで、国内の経済格差が拡大するとした。

たとえば、ロンドンの実質賃金は来年末には2019年と比べて7%高くなる見込みだが、ウェスト・ミッドランズなどでは5%低くなるという。

しかし賃上げにもかかわらず、高いインフレ率によって物価は上昇。生活費の高騰はイギリス全土の家計を圧迫している。
こんな風にも伝えている。イギリスの先行指数の回復が著しいのは、経済状態がどん底に陥っても、そこにはそこで、低迷や回復があるということか。

それはそれとして、英経済について指摘されている
国内の経済格差が拡大する

この点だが、イギリスも日本も事情は同じだ。 

本ブログの投稿でもとりあげたが、年間収入別に食費が総消費に占める割合(=エンゲル係数)をみると、最低所得層は足元で驚くほどの高さに上がっている。日本では消費税率引き上げが大きく影響したのだが、同じ図を描けば、イギリスも同じような形になるのではないかと想像する。最近の経済的ショックの衝撃(=> 生活の苦しさ)は、特に低所得層において大きなダメージになっているのである。株価の暴落とはワケが違うのだ。

その意味では、岸田内閣による「低所得層」への定額給付金支給は否定するべきではない。着眼点は評価すべきだ。

ネットをみていると、批判者たる自分自身が好きでたまらず、つまり自己愛が強くて、更にそのうえ世間受けも狙っているのかどうか、そこは不明なのであるが、例えば

低所得層はホボゝ高齢者ですからネ、金融資産を持っていて、毎月の所得は低くとも生活はそれほど苦しくはないんですヨ、カネもってますから。それより現役層が苦しいんじゃないでしょうか?中間層ですよ、助けるべきは。

こんな「意見?」を開陳している御仁もいる。しかし、多額の金融資産を保有し、消費支出を切り詰める必要がなければ、やりくりも苦しくないわけで、エンゲル係数が上がるはずもない。データは事実を淡々と伝えているだけである。明らかな事実は、要するに、明らかなのである。

大体

低所得層とは高齢者ですって、そんなデータがどこにありますか?カネをもってる高齢者がどの位いるとお思いで?

普通なら誰でも聞きたくなりますゼ。


《見たくない事実はみたくない》というメンタリティが日本人の間で共有されているとしても、伝えるべき事実は伝えるべきだ。そうしなければ適切な政策対応につながっていかない。ジャニーズ性犯罪も宝塚パワハラ体質もここから生まれた。上のBBC報道は、データが示す事実は最小限にとどめているが、インフレの中の格差拡大という問題に目を向けているだけ、マシである。