2023年12月26日火曜日

ホンノ一言: メディア報道にも「第三者による品質評価」が必要では

 少し前の投稿

2023年という年は《人権元年》と呼ばれるようになるかもしれない

と、こんな事を書いている。

実際、そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。というのは、年の瀬になってから、自民党安倍派による政治資金パーティ裏金作りが露見して、そうかと思えばダイハツによる不正検査が暴露されたりと、人権というよりガバナンスの問題が次々に浮上したからだ。

であるので、

2023年という年は《人権元年》、もしくは《メディア崩塊の始まり》

ひょっとすると、こう予想しておく方が適切かもしれない。

政治資金裏金作りは、一介の大学教授が刑事告発する前に、大手メディア企業がスクープしておくべき事柄だった。油断というより、サラリーマン化してヤル気がなくなっているのだろう。

結局、日本国内のマスコミは、報道するべき事柄は報道せず、大した事ではない不祥事をネタにして無防備の個人を追い詰め、社会的制裁を加えて人権を侵害することを生業とするようになった ― 許認可に基づく寡占を公認されているTVメディアを想定して書いているのだが。

『味噌もクソも』という表現があるが、味噌・クソ混ぜこぜなら、まだ許せる。しかし大半はクソだという状態になれば、敢えてオカミ公認のビジネスにする必要もないだろう。これで信頼が崩壊しないなら、日本社会がどうかしている。

大雑把な筋道を書く。

(NHKを除く)地上波TVメディアとその他のメディアが担う報道機能には大きな違いがある。

TV以外の報道メディアの受益者は、情報の受取者であって、故に情報の信頼性に疑問符を感じれば、受け取り側が対価を支払わず、その情報を利用しないという選択肢をもつ。それが市場規律となって(最小限の?)報道品質を守らせる。

それに対して、TV企業が提供する(報道・情報を含めた)番組の受益者は、実はスポンサー企業であって、提供される情報の受取者ではない。TV企業が放送する報道番組は、スポンサー企業のプロモーションが目的であって、視聴者はプロモーションのターゲットとして認識されている。視聴率が参照されるのは、視聴者の満足を測定するためではなく、プロモーションが機能しているかどうかを測るのが目的だ。

そして、視聴率を上げるには、(以前にも投稿したことがあるが)歪みのある能力分布を前提すれば、平均未満の階層をターゲットにすれば母集団の過半数に対して遡及することができる。TV企業が放送する情報番組が、社会全体の平均に対して幼稚と思われる水準に近付くのは、必然的かつ合理的な帰結である。

メディア報道に対して視聴者側から批判の声が高まらないのはロジカルである。

もちろん、「こんな仮説とロジックが当てはまるのではないか」という推測である。

自民党も党改革に向けた検討会議を設けるようである。また「検討」かと呆れるというのが感想だが、問題意識をもっているだけまだマシであろう。日本国内のマスコミ界は、信頼崩塊の中にいるにもかかわらず、体質改善に向けて何のアクションも起こしていない。

例えば、大学では授業担当教官ごとに《自己評価》を行うとともに、受益者たる学生による《他者評価》を毎年行っている。何年に一度は《外部評価》も受けている。他教官による《相互評価》、《相互参観》もある。これらがどれだけ教育の品質向上に役立っているかを確言するのは難しいが、実証的分析には値するであろう。何にせよ活動と成果を結びつけるには客観的検証が不可欠だ。PDCAサイクルの狙いもここにある。

だとすれば、マスコミの報道品質について、《第三者による報道品質評価》をネット上で実施すれば良いのではないだろうか?対象は、メディア企業を評価単位としてもよいし、個々の報道番組、情報番組を評価対象にしてもよいだろう。

運営は、メディア業界と利害関係のない独立した消費者、企業、学界から選任し、消費者団体、教育界、財界、労働界などが寄付をして非営利団体を創設すればよい。

日本の経済活動の中で、民間企業は取引先や同業他社による厳しい目にさらされている。他方、政党や政治家は有権者の目を逃れがちであるし、官僚は政治家と国民をだますことが可能だ。同様に、メディアが提供する情報は、ドラマやバラエティなどとは異なり、現実社会をとりあげながら、自社都合に合うように内容を恣意的に編集する動機をもつ。

実際、オープンな場であるネット上の論調とメディア上の論調とが大きく乖離している話題は数多い。学界の専門家が疑問とする解説や報道も数多いようだ。

メディア報道にも《第三者による品質評価》を定期的に行うシステムが必要だ。

第三者による報道評価と人権擁護団体が連携して活動できれば、日本社会の風通しもずいぶん良くなるだろう。

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