2023年12月30日土曜日

覚え書: 三流の経営者が「選択と集中」を行ってきた悲劇ということか

ずっと以前、何年も前になるが、ある旧友と研究費の配分について議論したことがある。

旧友は、日本国内の研究費の配分は悪平等で、非戦略的、実に知恵のない方法で決められている。これでは研究成果に結びつくはずがない。大半の研究予算はドブに捨てられている。もっと《選択と集中》を徹底しなければならない。

こんな事を友人は主張したのだが、それに対して小生は

そもそも研究は砂漠で水脈を探すようなもので、あらかじめ水脈がありそうな区域が分かっているわけではない。分かっているなら、それは研究ではなく、ビジネスだ。所在不明の水脈を探すときに「選択と集中」などが有効とは思えない。

こんな反論をした記憶がある。

その後、同じテーマで論争をすることはなかったが、今でも小生は

純粋の研究費は、一様分布に沿って配分しても可である

そう考えている。 

もちろん結果の見込みがついているなら必要経費を割り振ってもよい。但し、こうした段階にある研究はもはやスタートアップを間近に控えたもので、アカデミックな研究というよりTechnology Licensing Organization(技術移転機関)に委ねるべき活動だ。

よく批判されているが、日本の大学間研究費分布は極端な少数集中型になっている。例えば、下の図を参照されたい。




URL: https://www.f.waseda.jp/atacke/kakenQA.htm

あからさまに言えば、日本においては東大、京大、東北大、阪大、名大に研究費の大半が集中して投下されている。

もちろん、東大、京大に研究予算が配分されても、その研究費を使える研究者が東大、京大所属の人だけに限定されるわけではない。研究チームに含まれる人は、学外の人材であっても研究には参加する。とはいえ、何を研究するか、どのような人材を研究チームに含めるかは、研究費を配分された大学に所属する人物が決定している(はずである)。

極端に言えば、日本におけるアカデミックな研究活動は東大・京大が主導していると言っても言い過ぎではないかもしれない。


上の図は、見ようによっては研究費総額に日米で大きな差があるため、日本においてはトップ層未満の大学に配分される研究予算が絶対的に乏しいのだ、と。大学間配分に問題があるのではなく、研究費総額が貧困であることが日本の学術分野の主たる問題である。そう考えることもできそうでもある。


しかし、個人的な感想だが、仮に日本で学術研究費総額が飛躍的にアップされるとしても、その時はその時で、研究費はやはりごく少数の大学に集中的に投下されるのではないか。即ち、上の図の赤い線がただ上方に平行移動するだけの結果になるのではないか。そんな風に観ているのだ。

かつて旧友が嘆いたような悪平等は日本の研究予算配分に認められない。むしろ事実は真逆なのである。

これは文科省(及び国内学術界?)が、研究活動においても「選択と集中」に徹しているということなのだろうか?それはメリハリのある、適切な方法なのだろうか?

上で書いた小生の発想に基づけば、純粋の研究にはなるべく一様に予算を散布し、見通しのついた研究は選択と集中で、ということになるロジックだが、そういうことか?

問いかけに全て回答しつくすのは難しいが、ビジネス分野に限っては手掛かりがある。

先日、読んでいたブログでこんな記事を見つけた。テーマは『日本の労働生産性はなぜ低いのか?』という問題である。

考えてみれば、初等中等段階の学力では先進国の中でも遜色のない日本人が、成長するに伴い劣化し、社会人になってからは低い労働生産性しか発揮できていないという現象は、不思議ではないか?

そんな問題意識から出発している。

この記事はこうまとめている:

公表されたリポートは、繰り返しになりますが、日本の人材の潜在的な優秀性を明らかにするものであり、企業部門において日本の労働力・人的資源を活かしきれていない実情を浮き彫りにしています。特に、イノベーション活動はひどい状況です。これは、いわゆる「選択と集中」の失敗によるものといわざるを得ません。選択先を失敗したわけではありません。逆に、イノベーションのためのは広くリソースを配分する必要があるのですが、成功しそうなところだけに集中的にリソースを配分しようとして失敗しているわけです。言葉を変えれば、「当たる宝くじを買う」ことを狙っているわけで、私には極めて非現実的な戦略に見えます。幅広い対象に向かって実施している教育と真逆の方向を志向するイノベーション戦略の転換も必要です。

上でいう「公表されたリポート」とは、日本生産性本部が本12月に公表した『生産性評価要因の国際比較』のことである。

日本の企業、つまり生産現場において、元々は能力のある労働資源を活用できていない。そんな実態を指摘している ― もっと前に指摘できなかったかネエ……。有効なイノベーションがほとんど実現できていない。これは、要するに《選択と集中》の失敗によるものだ。

こんな風に考察している。

そこから得られる一つの帰結は

凡人が行う選択と集中などが成果を生むはずがない。 

選択と集中は一流の人材が行ってこそ結果が出る。三流の人物が下手に選択し、集中を行うと、最悪の結果につながるものだ。

日本の企業経営では、往々にして人柄のよい人がトップ層を形成する。そんな人々が「選択と集中」を行うのは、実に危険な選択なのである。そして、それが「危険な選択」であることが分かってこなかったことこそ、この20年ないし30年間の日本の失敗である。

似たような論題は以前にも投稿したことがあるが、マ、(今更とも言えそうだが)当たり前すぎる事実だ。そう思われるのだ、な。



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