リベラルな意見を持つよりも先に『自分はリベラル派なのか?』とか、保守的な社会観を自分はもっていると自己認識する以前に『自分は保守派に属するのか?』といったような《帰属に関する懐疑》を自分で抱いては、《自分の居場所》について悩んでいる人が、この日本では意外と多いのかもしれない。
というのは、こんな記事がネットにはあるのだ、な。失礼の段は御寛恕賜るとして、一部を引用させてもらおう:
ちなみにリベラルの反対語は保守ではなく、権威主義です。今週、バイデン大統領がメキシコとの国境の壁の建設を再開させました。ついに公約を覆した理由は「想定以上の国境破りに手を焼いたから」とされます。この場合は不法越境者に穏便な態度を取ったことで「我も、我も」とアメリカ大陸のはるか南から何千キロも北上して藁をもつかもうとする難民に奇妙な期待感を提示したのです。結局、バイデン氏はギブアップして権威的に壁を作らざるを得なかったわけです。
対中国の外交姿勢はアメリカも日本もリベラルっぽいところと権威的なところの折衷です。日本の権威的な姿勢はアメリカに同調という名の服従型で同盟国内のリベラルとも言えなくはないでしょう。個人的に思うのはリベラルに走り過ぎるとグリップが効かなくなるのです。永遠に人の欲望を聞き続けなくてはなりません。アメリカの自動車業界のストライキもまだひと月はやるでしょう。その後も様々な産業で好き勝手な主張が出てくるはずです。組合が強いのはリベラル主流だともいえます。その点、日本は歴史的には結構、権威主義的な国です。
Source:あごら AGORA 言論プラットホーム
Author: 岡本裕明
URL:https://agora-web.jp/archives/231006215052.html
書かれてある内容は小生もまったくその通りだと思うが、なぜリベラルとか権威主義とか、そもそも社会に様々ある意見をクラスタリングした結果としてのグループ名が、これほど真剣に議論されるのだろうか?
個人個人のマチマチ、バラバラの意見の分布がまずあって、その後に主張や価値観の類似性に着目してグルーピングする。そうしたら、たまたま英単語の中の"Liberal"や"Conservative"というネーミングが偶々マッチする。そんなクラスター(=グループ)があります。それだけの意味しかないのではないか?
まして、自分が社会全体の中のどのクラスターに所属するかなど
あっしにゃあ、関わりのねえことでござんす
と、社会学者か政治学者か知らないが、そんな括り方には我関せずと、オトボケの姿勢を終始一貫保つとしても、何ら罪ではないのである。なのに単なるネーミングだけのグループ名を
なぜ気にする?
自分はリベラルであるのか、コンサバであるのか、自分の意見よりも先に自分の帰属先を気にする心理が小生には七不思議なのだ、な。まず先に企業なる存在がある就職活動じゃあないのだ。自分はどう感じ、どんな風に考えているか。自分の考えがまず先にある。それがリアリティである。各自、自由勝手のはずである。その自己自身というリアリティが、統計的仮構に過ぎないグループのいずれに属するかになぜこだわるのだろう?
経済学者のGregory Mankiwというと世界的ベストセラーとなった教科書の著者として有名だが、氏のブログに面白い投稿がある。
This graph from David Leonhardt's column is illuminating. Now I understand why those of us who are fiscally conservative and socially liberal have trouble finding political candidates to fully represent our views. There are too few of us!
"This graph"というのは下の図である。
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