2024年8月31日土曜日

ホンノ一言: こんな簡単なインタビューが出来ないのかナア、と感じるとき

自民党総裁選が近づくにつれて、立候補者がTV画面に登場する機会が増えてきている。

その時、非常に疑問、というか「そのセンス、分からないナア」と感じることも増えてきている。

たとえば

スタジオ: 派閥にとどまっていて党内の改革が進められるのでしょうか?

候補者: 総裁が派閥を離脱することで、それは可能だと思います。

こんな風なやりとりがあるが、ここで小生の頭の中は

?????

になってしまうのだ、な。そもそも上のような問いを発するインタビューアーは「〇〇だから、できないンではないだろうか」という憶測を頭の中で先に持ってしまっている。「予断」というヤツで、これでは相手の見解を引き出せない。自分の見方をぶつけているだけである ― 意識することなく。

*

そもそもトップに選ばれようとすれば、自分を支持してくれる人々を集める必要がある。それを派閥というか、グループというかは、言葉の遊びである。

党内全員から一致して支持が集まれば、自動的に当選するわけだ。こんな場合は、当選後に一部のグループだけの意に沿うという理屈にはならない。が、こんな状況はありそうもないし、望ましいとも言えないだろう。

とすれば、当選後に自分を支持してくれた人々を重用するのは、当たり前の帰結であって、これが政治というものだ。というより、こんな当然のことは世界の民主主義国で共通の理解であるはずだ。

誰が自分を支持してくれたかとは関係なく、当選後はやるべきことはやる、と。多分、そんな期待が現代日本社会にはあるのだろう。が、これでは独裁者である。支持には支持の理由がある。当選後に、支持者に対する約束を守らなければ、政治家としては失格だ。これが『信なくば立たず』の主旨ではないのか、と。こう思いますがネエ・・・違うのかな?

それから、大事な点は

(今回立候補したわけですが)当選すれば何から行いますか?

これを真っ先に聞くのが素直な質問ではないか。

次に、「国民一般が最も願望している」とされる(?)「自民党改革」については

どんな党内改革を進めるつもりですか?

なぜ単刀直入にこう聞かないのだろう?

大体、人が変われば前任者と違った何かの改革をするのは当たり前だ。要点は、

何をするつもりなのか?

これ以外に聴きたいことはないはずではないか。

もっと具体的におっしゃっていただけませんか?

この位は学生サークルだって出来ますゼ。

実力のあるインタビューアーなら

しないと決めていること

ここまで浮かび上がらせるようなインタビューをやるだろう。ここまで行けば、

この候補者は、何をやって、何はしないか

候補者のプロファイルが明確にイメージとして伝わる。これがメディアの目的だろう。

*

多分、色々な方面の「反感」を避けつつ、今のビジネス環境を守ろうと、番組編集者側の自主規制が入っているのだろうと、そう憶測しているが、こうして日本国内の「公式」の報道機関はネットの自由な意見表明に主たる役割を奪われていく・・・もはや民間放送企業は情報提供メディアとしてはジリ貧だと感じる次第。ドラマ制作では有料のコンテンツ配信企業が競争優位を確立した。海外資本が黒船として来航するまで何とか頑張るのだろうが、それまで日本社会の知的劣化をもたらし続けるのではないかと心配だ。メモしておきたい。

【加筆修正:2024-09-01】

2024年8月29日木曜日

ホンノ一言: カギはハリス候補をどう観るかなんだろうナア・・・という話し

 日本の民間TVで放送するワイドショーは「情報番組」とはいうものの、実際には「お天気」と「スポーツ」、それに「政局」や「犯罪」、「事故」、「災害」に関する情報が大半で、暮らしに役立つ情報はほとんど含まれていないのが現状だ。

ただ、アメリカの大統領選は勝敗予想を語れるゲームでもあるので、ロシア=ウクライナ戦争、イスラエル=ハマス紛争と同様、その筋にある専門家にとっては大いなる稼ぎ場になっている様だ。

確かに、今度の米・大統領選挙は

ト氏が勝てば実行力はあるだろうが制御不可能で西側陣営が崩壊しかねない。ハ氏が勝てば制御可能だがどの位まで有能かが分からない。

いわば「無謀なヒト」と「無能なヒト」とどちらがイイかという究極の悪魔の選択になりかねないというのが、今の世界の心配のコアだろうと思われる・・・

*

そんな状況で、新顔のハリス候補については、アメリカの経済学者も立場によって分かれているようだ。

Krugmanは、周知の民主党シンパであるから、基本的には好意的である。

 So what have we learned about Harris’s economics? She is, as expected, moderately center-left. And for those determined to view her as a communist — sorry, she isn’t.

Source: The New York Times

Date:  Aug. 19, 2024

Author: Paul Krugman

食料品に対する値上げ規制と来れば、誰もが1970年代にニクソン大統領が強行した所得政策(=価格規制)を思い出す。共和党の大統領がまるで共産党のような経済政策を始めたというので、世界はアッと驚いたものだ。案の定、ト大統領候補は『ハリスは共産主義者だ』と非難している。上のKrugmanの批評は中道左派に対する親和的な姿勢をにじませている。

*

これに対して、これも著名な経済学者であるGregory Mankiwのコメントが面白い。タイトルは"Kamala Harris...sigh"になっている。

確かなことは、Mankiwもまたト候補はダメだと判断している点だ―というか、ト候補の主張する関税の大幅引き上げに賛同する経済学者は(何か邪念を隠しているなら別だが)ゼロであるはずだ。

なので、以下のようなMankiwの所感は多数の共感を得るだろう。

I plan to vote for Kamala Harris. Why? Simply because she is not Donald Trump. In my judgment, Trump is (1) an authoritarian narcissist whose rhetoric is mean-spirited and untethered from reality and (2) an isolationist with wrong-headed views on trade and immigration and downright scary views on national security issues like NATO, Ukraine, and Taiwan.

But every time Harris says something specific about economic policy, she makes my voting for her more painful. For example: No taxes on tips, stricter rules against price gouging, expanded price controls on pharmaceuticals. 

Google翻訳で和訳を載せておくと:
私はカマラ・ハリスに投票するつもりです。なぜかって?単純に、彼女はドナルド・トランプではないからです。私の判断では、トランプは(1)意地悪で現実からかけ離れた発言をする権威主義的なナルシストであり、(2)貿易と移民について間違った見解を持ち、NATO、ウクライナ、台湾などの国家安全保障問題に関して実に恐ろしい見解を持つ孤立主義者です。

しかし、ハリスが経済政策について具体的なことを言うたびに、彼女に投票するのが苦痛になります。例えば、チップに課税しない、価格つり上げに対するより厳しい規則、医薬品の価格統制の拡大などです。

無料の機械翻訳でもかなり完璧に近い和文になる。少なくとも文章で伝えるジャーナリズム産業で「言語の壁」がコスト優位性を築く要素として機能しなくなってきたことが分かる。 


それにしても、
(ワタシ、経済のことは分からないんですけど、)これはやったほうがイイと思うんですヨネ。皆さん、望んでいるでしょ?エエッ、ここで約束しますとも!食料品やお薬の価格を勝手に値上げはさせません、と。
こんなハリス風な「女性政治家」が日本に登場したら、日本では支持されるだろうか?

試してみてもイイかもしれない。

日本の民主主義のレベルが自然と浮かび上がるような気がする。


2024年8月25日日曜日

断想: 江戸と現代日本のプロモーション、本質は同じだネエという話し

最近、司馬遼太郎の『街道をゆく』を何度も引き合いに出している。

ずっと昔の若い時分に(全巻とまでは行かないが)相当割合を読んだのだが、奈良旅行が契機になって第24巻『近江散歩・奈良散歩』を読み直し、その後芋づる式にもう10冊以上を読み直した、という情況に至っている。

全部で43巻ある。各巻の概要はAmazonでも分かるがホームサイトが便利だ。筆者の司馬氏が挿絵画家の須田剋太氏と一緒に旅行をした時期は、1971年から1996年までの25年間に及んでいる。紀行文を書く時代背景もシリーズが続く間に大きく変わった。その変わりゆく時代の中で、筆者が述べる社会観の変化や、ずっと変わらぬ人間観を読み取るのがこれまた面白いのだ。一口に言えば、司馬氏は作家というより文字通りの意味でジャーナリストであった、いま読み直してつくづくそう思っているところだ。

いま第4巻を読んでいて、ちょうど京都の鞍馬街道を北上して花背に来たところなのだが、鞍馬というと高野聖ならぬ願人坊主が有名だ。ここでは「スタスタ坊主」という呼び名もあったことを紹介している。筆者たちが旅行したのは1972年の9月であるから52年前になる。ちなみに小生は実際に見たことはない。

その中に、(例によって)奇妙に現代性を帯びた下りがあったので、引用させてもらう。

伊勢の御師、空也念仏、高野の聖、それに馬聖――虚無僧のこと――などが室町期から戦国を経て江戸期までさかんに活躍する。かれらはなにがしかの宗教的行為をすることによって銭や食物を得るのだが、これらのほかに江戸中期になってスタスタ坊主というのが世の中に群がり出てきた。願人坊主ともよばれた。

(中略)

六、七人が、群れをなして歩いてゆく。それもスタスタ歩いてゆく。いでたちは異様であった。頭を向う鉢巻で締めあげ、上半身はハダカである。腰にシメナワをぶらさげている。右手に錫杖をつき、左手に扇子をひらいていた。ふつうはスタスタと歩いている。(略)

急に声をあげ、どっと駆けだす。急に駆けるというのが、スタスタ坊主のみそらしかった。町なかで大坊主がハダカで群れ歩くさえ人目をひくのに、にわかに駆けだせば家々から人がとびだすに相違ない。 「はだか代参代参」  と、口々に叫んでゆくのである。代りにお詣りするぞ、代りに寒中行をするぞ、という意味であろう。もっとも時代によっては「まかしょ、まかしょ」と叫ぶこともあったらしい。まかせてくれ、まかせてくれ、ということらしい。

この下りを読んで、つい現代日本で市場が拡大しつつある<退職代行サービス>を連想した。


明治維新前の近世日本では、宗教行事が現代日本とは比較にならない程の重要性を占めていた。健康や事業拡大、果ては人生の幸不幸までが、参詣や△△参り、普段の喜捨、寄付によるものと信じられていた。迷信と言えばその通りであるが、迷信という概念に該当する人々の非科学的な観念は、現代日本においても多々残っていると小生は観ている。

江戸の昔、実際に遠方まで巡礼するのは、非常な時間とカネがかかる。誰にでも可能な消費ではない。そこで、総本山としては営業部隊を各地に派遣して参詣代行サービスを展開するチャンスが生まれるわけである。現代日本で言えば<リモート参詣>に当たるだろう。お布施はクレジットカードで送金すればよい。

江戸時代はこんな技術はなかった。しかし、必要な参詣を済ませて安心したい。参詣は不可欠の手続きであるが、面倒である。だから代行をしてもらう。カネを払って「やってもらう」。やってもらってそれで済むと考える位には、そもそも舐めてかかっている。

これは(本来は)自分自らが行うべき退職手続きを他人に「やってもらう」。カネを払って代行してもらう選択と同じである。

ビジネスモデルとしては同じではないか、と。

需要が供給を生み出すのである ― 行政による規制さえなければ。


現代日本ならば、例えばGoogleで<退社代行>と検索すれば、【比較】退職代行サービスおすすめ人気ランキングが、直ちに返って来る。これが現代標準のプロモーション技術である。

明治維新前の日本には、もちろんGoogleがない。故に、生身のスタスタ坊主が江戸なり大阪の目抜き通りを、上半身ハダカでスタスタと集団で歩く。好いタイミングで一斉に走り出し、大声で「まかしょ、まかしょ」と叫び回って、大衆の注目を集める。

「まかしょ」というのは、現代日本から類似例を探せば、例えば

ポンポンスポポン……ポンス…ポンポン……!

ポンポンスポポン!ポンッスポンポン!!

ポンポンスポポン!!!ポンスポンポン!!!!!!

日清食品がテレビCMでやっている日清チキンラーメンの《キラーワード》になる。

こう考えると、日本の小売り産業のプロモーションは技術的には進化しているものの、そのロジックは江戸時代とほとんど同じことをやっている。大前提である消費者ニーズが江戸時代と現代日本では違うだけである。

違いはほんの少しだ(と言えるかもしれない)。

消費者のニーズをとらえることが出来るかどうかで小売りビジネスの成否が決まるわけだ ― ここで話しているのは宗教サービス、つまり宗教活動のはずなのだが。つまり

「顧客価値」をどう認知するか?

である、な。

こう考えると、江戸時代の日本においても、ビジネススクールの標準カリキュラムが有効性を発揮しそうである。ふ~~む、資本主義的生産様式は近世日本でも理屈としては生まれつつあったのではないか・・・ここまで考えると、何だかウェルナー・ゾンバルトのような歴史学派経済学が議論できそうである。


やれやれ、日本の流通産業はずいぶん進化したと思っているが、その本質は同じなんだネエ、と。そう感じた次第で、覚え書きとしたい。 

『街道をゆく』は、イイ機会だ、この際だから全部読むかという気になっている。これから当分の間はこんな覚え書きが増えそうだ。

2024年8月22日木曜日

ホンノ一言: 「東海」と書くとき日本語と韓国語では違った意味になるわけで・・・

 「夏の甲子園」で実に面白い記事がネットにあったのでコメントしたくなった。

全国高校野球選手権大会(甲子園球場)で初の決勝進出を決めた京都国際を巡り、NHKが韓国語校歌の歌詞「東海」を「東の海」として放送していることについて、韓国人教授がNHKに抗議したと韓国メディアが21日、報じた。韓国の誠信女子大学の徐敬徳(ソ・ギョンドク)教授が「固有名詞の『東海』を『東の海』と表記したのはNHKの明らかな誤りだ」とメールしたという。

 京都国際は在日韓国人向け学校をルーツに持ち、校歌の歌詞は日本海について、韓国が国際的な呼称にするよう主張している「東海」が含まれている。NHKは同校の意向でテロップで歌詞を表示する際、日本語訳を「東の海」としている。

Source:: Yahoo! Japan ニュース

Date:8/22(木) 13:12配信

Original:産経新聞

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/c4938bf40164e5ca184ff0ca8f4db818a8a3c672


もし自分がNHKの職員で、この抗議の電話を受けた担当者であったならどう対応するだろうと、シミュレーションしてみた。頭の体操だ。

一番簡単なのは

いま担当の者と変わりますから・・・

すぐにパスしてしまう。これが第一案。しかし、それなりの年配になっていれば、これはできない。自分で対応しなければならない。

次は、

少々、お待ちください。

という時間稼ぎ。これが第二案。誰か、いい答え方を思いつく人に相談するのだ。

小生はその相談を持ち掛けられた人になったつもりで考えた。それが次の応答だ ― 日本語のやり取りになっているのもシミュレーションゆえである:

小生: もしもし、あっ、お電話代わりました。韓国語の歌詞を日本語に訳したその中の語句でご連絡をいただいたのですネ。

それでですネ。画面下のテロップなンですが、元の歌詞が韓国語ですので、それを日本語に訳しているだけなんですヨ。

先方: だから元の歌詞の「東海」という言葉を「東の海」に訳しているのは間違いだと言っとるンです。

小生: 元の歌詞にある「東海」は固有名詞だということですよネ。 

ただですネ、日本語訳のテロップで「東海」としてしまうと、日本では愛知県や静岡県辺りの「東海地方」という意味になってしまうんですネ。「東海道」という呼び名も普通に使われているくらいですから。ですから、日本語文章でただ「東海」と書くと、元の歌詞の意味が通らないンですね。和訳という作業を機械的にやると、韓国語の「東海」は日本語の「日本海」になるんですヨ。

先方: それは怪しからん言い分だ!

小生: そうなってしまうンですね。日本語ではそういう言葉になるんです。 

ですから、言葉の意味をとって「東海」を「東の海」という日本語に訳したのは、こうしたトラブルを避けるためだったと思うんですヨ。京都国際高校のサイドと相談したかどうかまでは私には分かりませんけど・・・もし詳細が必要なら京都国際高校の方に聞かれた方が確かだと思うンですが・・・私どもとしては、あくまでも日本語にどう訳するかというだけなので・・・

これが第三案になるが、さてNHKはどう対応するのだろう。

これで思い出したのが、イギリスとフランスを隔てる「英仏海峡」、英名の”English Channel"だ:





以前投稿したように、海洋ではイギリスの先輩格であるスペインでは"El canal de la Mancha"と呼んでいる。フランスに行けば"la Manche"になる。



しかし、イギリスのBBCが"English Channel"と言ったからといって、スペイン人やフランス人がBBC本社に抗議をすることはない(と思う)。この点ではヨーロッパ諸国の方が永年の対立抗争から多くの事を学んだこともあって、成熟しているのだろう。

言葉が違えば、使用する単語、呼び方、発音が違うのは当たり前である。

そもそも「国際」とはこういうものなンだと弁えれば、原文のハングル歌詞のまま「東海」と訳しても(意味不明になる可能性が高いが)別に大問題ではないし、歌詞末尾の「韓国の云々」を「韓日の云々」に修正する必要もない。そのまま原文の通りにストレートに和訳しておけばイイ。せいぜい「東海」をこんな風に鍵括弧で囲むかどうか位が判断のしどころになる程度のことである。そして、こんな風に対応しても、別段「我が国の国益」が損なわれることにはならないと思う。無駄な議論に汗を流す必要はない。

この件で、ちょっと検索をかけると、くだんの歌詞の原文と和訳全文がかかってくるどころか、『ハングルの校歌など聞きたくない」などといった感情的な記事ばかりが検索されてかかって来る、そんなネガティブな反応ばかりでネット世界があふれるという、日本社会の醜悪な側面を露呈するよりは余程「国益」にはプラスである。そう思うのだ、な。

【加筆修正:2024-08-23】

2024年8月21日水曜日

ホンノ一言: 政治(とは限らないが)で「男性 vs 女性」が現実にそれほど重要視されているのだろうか?

アメリカの民主党・党大会が開催された。今秋の大統領選にカマラ・ハリスが候補となり、大物たちの応援演説が相次いだそうだ。

トランプ・前大統領と闘ったヒラリー・クリントンは

ガラスの天井を打ち破るのは間近だ

と。(アメリカの?)女性たちを抑圧していた壁を破るのは近いと大見えを切った由。

*

最近、常々、不思議に感じているのだが、なぜ「女性」であることをこれほどまでに強く意識している(かのような)発言を、アメリカの女性政治家はするのだろう?

イギリスでは45年も前の1979年にマーガレット・サッチャーが初の女性首相になっている。その際、閣僚経験の少なさを懸念する声はあったようだが、女性で大丈夫かという声は、小生も若かったが、日本にまでは聞こえてこなかった記憶がある。

サッチャー首相は、その後11年間の長期政権を築き、世界の潮流を新自由主義へ転換する大仕事をやった。

その後、最近年ではテリーザ・メイさん、リズ・トラスさんとイギリスでは女性がどんどん首相に選ばれている。

ドイツでもアンゲラ・メルケル首相が16年間の長きにわたって首相を務めた。彼女の親露外交は、今となっては批判の的になっているが、現代世界においてメルケル政権の東方融和外交は非常に有意義であったと個人的には考えている ― 反面、親中外交には、正直、腹が立ったりもしたが。

イギリス、ドイツ以外でも既に多くの女性宰相が登場しており、女性政治家への評価は広く定まっていると言ってもイイのではないだろうか?

にも拘わらず、アメリカでは《女性政治家が打ち破るべきガラスの天井》といった言葉が女性政治家の演説には普通に入っている。イギリスやドイツ、その他のヨーロッパ諸国とは異なり、アメリカではそれほどまでに女性差別意識が残っているのだろうか?それほどまで、アメリカ国民の政治意識はヨーロッパとは違っているのだろうか?

この日本でも、初の女性首相になりたいという女性政治家は複数いると言われている。やはり日本でも《女性を差別するガラスの天井》なるものがあるのだろうか?

女性天皇はイイが、女性首相だけはダメだ

本当に日本国民は思っているのだろうか?ちょっとそうは思えないのですネ。

もし可能なら是非問いたい疑問がある。女性政治家が「ガラスの天井を打ち破ろう」という時、

アメリカ社会の(更に日本社会の?)「ガラスの天井」を打ち破ることが、あなたが一番やりたいことなンですか?他に何かないンですか?

と、こう質問したいのですネ。

*

小生は男性であるが、「男たるもの・・・」と自らに喝を入れるなど、あまりしたことがない。小生は、カネと力のない一介のブ男であるのだが、だからこそと言うべきか、女性たちが「ガラスの天井、ガラスの天井」と連呼する姿勢が、大変不思議に映るのである。

男性だから「ガラスの天井」がない「青天井」だと感じることなどない。そもそも人生は壁や制約に満ちている。何より自分自身の「能力」、「体力」、「性格」、「運」に制約づけられる点こそ一番の壁だ。

普通に考えればイイのではないかナア、と思う次第。

*

世界の人々一般は、既に「男性 vs 女性」といった尺度で政治家を評価することなどしてはいないのでないか?

これが冷静に観た現実ではないか?

ある女性政治家が選ばれないとすれば、それは社会の女性差別ではなく、その女性政治家の属人的特性による、簡単にいえば評価されていないだけの話ではないか。そう思ったりしているのだ。

女性政治家も男性政治家と同じで、一流もいれば、二流、三流もいる。そんな当たり前のことは、もうみんな知っている。イギリスでもサッチャー首相は大きな実績を残したが、メイ首相、トラス首相が行った政治は低レベルだった。とはいえ、あの程度に低レベルな男性政治家は山のようにいるだろう。

サッチャー首相は、就任3年目にフォークランド島の領有権をめぐってアルゼンチンと軍事衝突した際、直ちに艦隊を派遣して多大の犠牲を払いながらも敵国に勝利した。優柔不断で口ばかり達者な男性政治家にはできない決断だった。

*

アメリカ人も(日本人も?)見ているのは、男性か女性かではないと思われる。単純に「この人物で大丈夫か?」、それだけだと思う。そんな時、「女性を抑圧するガラスの天井を打ち破りましょう」と、これが目標であるかのように言っていては、逆に政治家としての能力、認識力に疑問符がつけられても仕方がないのではないだろうか?

もし「ガラスの天井」が意識されているとすれば、確かにそれは意識の問題であるには違いない。が、それは(政治)活動を需要する側の意識ではなく、(政治)活動を供給する側の意識に主な原因があるのではないか、と。

そう感じている次第。

日本の政治事情にも同じことは言えると思う。

***

「宗教上の教義」、「信仰、祭礼の場における伝統、慣行」といった論点はある。当然だ。世界は多様である。こういう論点は別の問題として考えるべき文明的な問題で、現代社会の大勢になっている価値観に沿っているかどうかという意識で議論をしても不毛であろう。

【加筆修正:2024-08-22、08-28】


2024年8月19日月曜日

ホンノ一言: 「10年に1人の天才!」・・・あかんナア、という感想

先日、スポーツ分野では若き天才が続出しているのに、なぜ学術分野ではそんな天才が現れてこないのだろうと、不思議な気がすると投稿で書いた。

そうしたら、今朝のこと、Yahoo!ニュースのヘッドラインに

灘高でも10年に1人の天才

こんな文字が躍っていたので、面白いと思って読んでみた。

一部分を(名前だけをイニシャルに変えた上で)抜粋させてもらうと、まず以下のような感じだ。

  京都大医学部にもっとも多く合格者を出したのは、87年の灘32人である。東京大とのダブル合格が可能だった年だ。(中略)

 「この年、灘は例年以上に優秀な生徒が多かったようです。理3合格者はほぼ全員、京大医に受かっています。このなかには、伝説的な秀才・・・O君、(中略)O君は、駿台予備学校の東大実戦模試を中学3年で受けて理3合格A判定、高校1年で総合2位、2年で総合1位をとった。

 灘の教員がこう語っている。

 「教員生活40年になりますが、彼のような生徒に出会ったのは初めて。灘高でも10年に1人の逸材です。・・・」(「週刊サンケイ」1986年11月20日号)。

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/b89067733638f55edbea0c6ab7ea1494d4ef707c?page=2

な~るほどネエ、「天才」ではなくて、「逸材」ですかという印象なのだが、大体、こんな事が「天才」に関する記事になるのだろうか?

あかんナア

という感覚を覚えるのみ。 

ニュートンやアインシュタイン、エジソンもそうだと伝わっているが、極めて「脱俗的」で「昼行燈」のような子であったらしいが、そもそも学校の筆記試験の達人に「天才」は(ほとんど)いないはずである。

秀才が勤勉に勉強すれば解けるはずの問題が出題されるのが試験である。そこでミスもなく満点をとったからと言って、その生徒が天才であるという証拠にはならない ― 早熟であるのは確かだが。

これが普通のロジックだと思うが、いかに。

モーツアルトが音楽の天才であったのは事実だと思うが、「天才」という点ではメンデルスゾーンの方が一枚上だったそうだ。「万能の天才」だった(とも言われている)。長寿に恵まれなかった点もモーツアルトと共通している。しかし残された作品群を聴く限り、メンデルスゾーンがモーツアルトを上回る超天才だと感じる人は(音楽家、音楽愛好家を含めて)意外と(?)少ないのではないだろうか?

まして、知識・技量を吸収している弟子である時分に「彼は天才だヨ」と師をうならせる人物が、ホントに天才であると後に判明するケースは、レアケースだと思っている。天才を天才だと見抜く師の力量もまた天才的でなければなるまい。勤勉で早熟な秀才はすぐに分かるが、つぼみの頃の天才を見抜く眼力をもっている人は少ない。

2024年8月17日土曜日

覚え書き: 今夏で何読目か『濹東綺譚』の一節の現代性

本日8月18日は施餓鬼会である。カミさんが眼瞼炎か結膜炎になって具合が悪いので、寺にお布施を置いて、そのまま帰宅する。

前にも書いたことがあるが、夏が来ると、永井荷風の『濹東綺譚』を読むのが習慣になっている。

この夏も、何読目になるのか読んでいるのだが、実に飽きが来ない作品だとつくづく思う。読むたびに注意を引く下りがあって、それがまた現代日本社会にも(奇妙なことに)そのまま当てはまる事実であったりする。

ちなみに荷風が『濹東綺譚』を書いたのは昭和11年である。満州事変はもう起きているが、日中戦争はまだ始まっていない。ちょうど2.26事件が起きた年である。

そんな昔に、一人の作家が作中に書いた文章が、妙に現代性を帯びるなど、むしろ現代日本社会が退化していることの表われでもあろう。


以下は、具体例である。

まず前半部分。 

 日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多かたの実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川かもがわの芸妓は幕吏に追われる志士を救い、寒駅の酌婦は関所破りの博徒に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄とうざんの貧士に食を与え、三千歳みちとせは無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。

この部分は、現代にも通じるというより、現代社会からは消え去った昔の社会の奥深さを伝える所と言えるかもしれない。現代社会では、社会から日向と日陰の違いを全て消し、一様に法律とモラルを照射して、一様かつ平面的でノッペラ坊の清潔さを保ちたいと願っているように見える。そんな不自然な願いは達成不能に決まっているし、適切でもないのだが、僅かの「汚れ」を行政上の誤りであると批判するのが、現代流の価値観というものになっている。現代日本社会は、モラルとコンプライアンスの美名のもとで、いわゆる「密告社会」になり果ててしまった。自分と比べて少しでも物質的に豊かな消費をしている家族に対して「刑罰願望感情」を共有する社会になり果ててしまった。上の下りは、社会が常識的な逃げ道をチャンと用意していた時代を背景にしていることが分かる。

連続する以下の段落が本日の主旨である ― 読みやすくするため行替えをしている。

 此ここに於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若もしくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。この他たの人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊さしつかえはない。謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局憚はばかるものはない。ただ独ひとり恐る可べきは操觚そうこの士である。十余年前銀座の表通に頻しきりにカフエーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙こぞってわたくしを筆誅ひっちゅうした。

昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼等はわたくしが夜竊ひそかに墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐る可きである。

 昭和4年の4月に『文芸春秋』が担っていた役割は今の『週刊文春』が継承している。


昔の玉ノ井は今は東向島になっているが、これが東向島ではなく、新宿・歌舞伎町で、毎晩その界隈を訪問しては、とある店で時間を過ごしているのが、いまの文科官僚(?)であったり、警察官僚(?)であったり、はたまた有名都立高校の校長先生であったり、ノーベル化学賞を受賞した著名な研究者であったりしたら、どんな事態がメディア業界の中で進行するであろうか。

永井荷風が経験したのとほぼ同じ苦境にその人は陥れられ、許されない不行跡であるとして人格攻撃の的になり、万人が平等に有する人権の尊重などは脇に置き、「ありもしない犯行」の容疑ありとフレームアップしては連日報道されて世間を賑わし、ネットでも大いに盛り上がる。あらゆる誹謗中傷の洪水に巻き込まれ、そんな世間の圧力に耐えかねて当局もその人を捜査し、そして証拠隠滅の疑いありとして逮捕・拘束され、ついには何という事はない微罪で起訴されるに至って、(起訴は判決ではないにも関わらず)社会的に葬り去られる。最近年の具体例を思い起こしても、こんな可能性は決して小さくないと、誰もが思うであろう。

そして一度「しくじった」著名人は、過失か故意かを問わず、そもそも「しくじり」の実態があったのかなかったのかを問わず、10年経っても、15年経っても、人々の記憶に残り名誉を回復することが出来ない……


こう考えると、現代日本社会は戦前期・昭和初年の日本とほぼ同レベル、というより昭和初年には「日蔭」であろうが「逃げ道」を用意する常識と共感(?)があった分だけ、現代日本は昭和初年の社会より未満の低レベルにまで劣化していると言うべきかもしれない。

怖いネエ……

誰かが「暴走」している。昭和初年は一部の軍人と「飛んでる」思想家(≒現代日本のインフルエンサー?)たちが暴走していた ― 諺でいう「キチガイに刃物」とはよく言ったものだ(差別的表現は申し訳ない)。いま、現代日本社会で暴走しているのは、どんな人物群なのだろうか?マイクロデータさえあれば、クラスタリングをしてプロファイル分析をやりたい所だ。

おそろしや、おそろしや・・・

【加筆修正:2024-08-18】