2024年8月17日土曜日

覚え書き: 今夏で何読目か『濹東綺譚』の一節の現代性

本日8月18日は施餓鬼会である。カミさんが眼瞼炎か結膜炎になって具合が悪いので、寺にお布施を置いて、そのまま帰宅する。

前にも書いたことがあるが、夏が来ると、永井荷風の『濹東綺譚』を読むのが習慣になっている。

この夏も、何読目になるのか読んでいるのだが、実に飽きが来ない作品だとつくづく思う。読むたびに注意を引く下りがあって、それがまた現代日本社会にも(奇妙なことに)そのまま当てはまる事実であったりする。

ちなみに荷風が『濹東綺譚』を書いたのは昭和11年である。満州事変はもう起きているが、日中戦争はまだ始まっていない。ちょうど2.26事件が起きた年である。

そんな昔に、一人の作家が作中に書いた文章が、妙に現代性を帯びるなど、むしろ現代日本社会が退化していることの表われでもあろう。


以下は、具体例である。

まず前半部分。 

 日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多かたの実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川かもがわの芸妓は幕吏に追われる志士を救い、寒駅の酌婦は関所破りの博徒に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄とうざんの貧士に食を与え、三千歳みちとせは無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。

この部分は、現代にも通じるというより、現代社会からは消え去った昔の社会の奥深さを伝える所と言えるかもしれない。現代社会では、社会から日向と日陰の違いを全て消し、一様に法律とモラルを照射して、一様かつ平面的でノッペラ坊の清潔さを保ちたいと願っているように見える。そんな不自然な願いは達成不能に決まっているし、適切でもないのだが、僅かの「汚れ」を行政上の誤りであると批判するのが、現代流の価値観というものになっている。現代日本社会は、モラルとコンプライアンスの美名のもとで、いわゆる「密告社会」になり果ててしまった。自分と比べて少しでも物質的に豊かな消費をしている家族に対して「刑罰願望感情」を共有する社会になり果ててしまった。上の下りは、社会が常識的な逃げ道をチャンと用意していた時代を背景にしていることが分かる。

連続する以下の段落が本日の主旨である ― 読みやすくするため行替えをしている。

 ここに於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。このの人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊さしつかえはない。謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局はばかるものはない。ただひとり恐るきは操觚そうこの士である。十余年前銀座の表通にしきりにカフエーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞はこぞってわたくしを筆誅ひっちゅうした。

昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼等はわたくしが夜ひそかに墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐る可きである。

 昭和4年の4月に『文芸春秋』が担っていた役割は今の『週刊文春』が継承している。


昔の玉ノ井は今は東向島になっているが、これが東向島ではなく、新宿・歌舞伎町で、毎晩その界隈を訪問しては、とある店で時間を過ごしているのが、いまの文科官僚(?)であったり、警察官僚(?)であったり、はたまた有名都立高校の校長先生であったり、ノーベル化学賞を受賞した著名な研究者であったりしたら、どんな事態がメディア業界の中で進行するであろうか。

永井荷風が経験したのとほぼ同じ苦境にその人は陥れられ、許されない不行跡であるとして人格攻撃の的になり、万人が平等に有する人権の尊重などは脇に置き、「ありもしない犯行」の容疑ありとフレームアップしては連日報道されて世間を賑わし、ネットでも大いに盛り上がる。あらゆる誹謗中傷の洪水に巻き込まれ、そんな世間の圧力に耐えかねて当局もその人を捜査し、そして証拠隠滅の疑いありとして逮捕・拘束され、ついには何という事はない微罪で起訴されるに至って、(起訴は判決ではないにも関わらず)社会的に葬り去られる。最近年の具体例を思い起こしても、こんな可能性は決して小さくないと、誰もが思うであろう。

そして一度「しくじった」著名人は、過失か故意かを問わず、そもそも「しくじり」の実態があったのかなかったのかを問わず、10年経っても、15年経っても、人々の記憶に残り名誉を回復することが出来ない……


こう考えると、現代日本社会は戦前期・昭和初年の日本とほぼ同レベル、というより昭和初年には「日蔭」であろうが「逃げ道」を用意する常識と共感(?)があった分だけ、現代日本は昭和初年の社会より未満の低レベルにまで劣化していると言うべきかもしれない。

怖いネエ……

誰かが「暴走」している。昭和初年は一部の軍人と「飛んでる」思想家(≒現代日本のインフルエンサー?)たちが暴走していた ― 諺でいう「キチガイに刃物」とはよく言ったものだ(差別的表現は申し訳ない)。いま、現代日本社会で暴走しているのは、どんな人物群なのだろうか?マイクロデータさえあれば、クラスタリングをしてプロファイル分析をやりたい所だ。

おそろしや、おそろしや・・・

【加筆修正:2024-08-18】

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