2018年9月14日金曜日

怒れる世代ではなく、怒れる時代、ということか

全米オープンでも元(現?)女王のセリーナ・ウィリアムズ選手の激怒振りが話題になっている。同情されたり、揶揄されたり、批判されたりと、世界では賛否両論があるようだ。風刺漫画がオーストラリアの新聞に掲載されて、それがまた賛否両論を集めているようだ。

まさに議論百出の時代。というより、賛否の「否」の側に立てば、いまは「怒りのとき」ということだ。

その昔、「怒れる世代」という言葉が流行した。日本では学生闘争が吹き荒れ、路上ではフランスデモ、スネークデモ、火炎瓶と機動隊との衝突・・・小生もまたリアルタイムでTV中継をみたものだった。ストを遠慮するべき国鉄でも「順法闘争」で電車が全面ストップしたりした。その果てには「あさま山荘銃撃事件」があり、「連合赤軍リンチ事件」などもあったりした。

・・・あれから40年。いや半世紀がたったか。
気づく人は気がつく。「怒れる世代」とは「団塊の世代」とほぼ一致している。「怒れる爺ちゃん、怒れるばあちゃん」が多くみられるとしても、それはそういう世代なのだ。

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人が怒るときというのは、自分が「不当」に扱われているという感情が基底にあるものだ。

言葉にすると、(例えば)『僕は・・・なのに・・・』、あるいは『せっかく・・・それなのに・・・』という表現になることが多い。「不当である感覚」、それが怒りの核心にあることが、ほとんど常ではないだろうか。

セリーナ選手もそうだった。女性だから男性と別に扱われている。黒人選手だからこその風刺漫画になっている。「これは不当だ!」という怒りが根底にある。

人は怒りの感情に襲われる時、正義を意識するものだ。

法律でも「不当」という用語が使われている。「不当利益」とか「不当行為」がそうだ。<不当>という言葉は、正義の感情と法的規定が合致する、なので怒っている人には好都合な状況であることを教える、それ故に人は「不当だ」と感じると、何の遠慮もなく、怒りを世間に対して、意見の異なる人々に対して、ぶつけることができると考えている。

それが現代社会の特徴だと小生はみている。そして、こんな社会のありようは決して小生の好みではない。というより、見苦しくてウンザリする。

怒りの感情は抑制するべき煩悩であることの方が多い。経験上、そう感じている。

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古代ギリシア文明がグローバル化したヘレニズム時代、ストア哲学が流行した。異文化の世界がそのまま統合された世界で、最高に善なる価値はすなわち<幸福>であると論じられた。そして幸福に至る道として最も重要なのは<心の平穏>であると考えたのがストア派の哲学者たちであった。この学派は、のちになってローマ帝国のエリートを支えるモラルにもなり、東洋における儒学に近い役割を果たした。

16世紀の文人・モンテーニュは長大な『随想録』を書いたが、人間や世間のあらゆる側面についてクールに論評している。『徒然草』は枕元においてあるが、『随想録』もどこから読んでもいい便利な本である。
怒りは自己に悦び、へつらう感情である
この下り、小生は忘れていたが、どうやらこの句が好きな人も多いらしく、ネットの検索に引っかかってきた。

無学は悪の母である
これもまた『知は力なり』と同じ趣旨になるが、忘れたことはない。何か、というより何でも批評するのは、ネット時代の特徴だが(本ブログもそうだ、くらいは自覚している)、知識と理解に欠けた批評は社会の害毒にもなるということで、いま苦境にあるフェースブック、ツイッターが社会的責任を問われているのは、単に「表現の自由」という価値規範をいえば何でも通る時代ではなくなってきた。そんな社会的現実が伝わってくる。そういうことだと思う。これまた進歩の兆候であると言えばそうなのだろうが。

フェークニュースとか、悪意のあるデマが問題なのだという単純な思考ではだめだという気がする。SNSは確かに曲がり角を迎えていると思う。無論、ジャーナリズムも同じことが言える。ともに民主主義には不可欠のツールだとは思うが、衆愚政治の温床になるならない方が良い。

ペロポネソス戦争で敗戦したあとの民主国家・アテネの現実をみたプラトンが、哲学者による政治指導を夢見たのは、素人談義で国の重要事項を決めていく方が「正しい時代」とそんな方式では「危ない時代」との双方の時代があるという認識に裏打ちされていた。そんな風に小生は思っている。

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