2018年9月15日土曜日

一人当たりGDPとは逆に、幸福の生産性は下がっている?

今朝、目覚める前の頭の中で白居易の詩の有名な一句が思い浮かんだ。
日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聴
香炉峰雪撥簾看
ノンビリと朝寝をする冬の朝。カケ布団を何枚も重ねて心地よい温かさだ。 ン、遺愛寺の鐘の音が聞こえて来るなあ・・・雪でも降ったのかしらん。窓のスダレをあげてみてみようか。

こんな詩句を創っている人が不幸であるはずはない  ―  当時、白楽天は都から地方に左遷されていたが、芸事に熱中していると人は不運を忘れてしまうものである。

いくら世界帝国であった唐王朝の時代であったとしても、科学は未発達、生産技術は現代の目からみれば劣悪であったはずだ。

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小生は小学校4年の一学期で愛媛県から静岡県に転校した。父が三島工場に転勤したので家族で引っ越していったのだ(現代では単身赴任しているところかもしれない)。

松山港を夜に出港する関西汽船に乗り(たしか「こがね丸」という船だった)、翌朝大阪港につく。大阪駅に移動し、そこから東海道本線の「特急つばめ号」に乗車する。いよいよ入線するとき、構内放送で『9時36分発、東京行き「第一つばめ」が到着します』という案内が流れたのが今でも耳に残っている。その「特急つばめ」だが、当時の国内最速であったものの、大阪から東京まで大体6時間かかっていたはずだ。小生たち家族は、沼津で下車し、そこから普通列車で三島まで一駅のったから、結局前夜の乗船から丸1日弱はかかったことになるだろうか・・・。

それでも白楽天が生きた8世紀末から9世紀初めの時代よりは余程ましだったろう。江戸時代に四国・松山から伊豆・三島で旅をすれば、半月でも足りなかったのではないか。実に昔は不便であり、生産技術、医療技術、輸送技術は遅れていた。

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しかし、旅行に日数がかかるのであれば、すべての事はそれを前提に予定化されていたはずだ。

父が松山から大阪まで出張するときは必ず大阪に一泊した。帰るときには土産を買って帰ったものである。今なら特急で岡山までいき、新幹線で大阪に移動し、仕事をすませるとその日のうちに松山に戻るはずだ。

効率化されるというのは、単位時間内に多くの財貨サービスを生産できるということであり、一定のアウトプットに必要なインプットを節約できるということである。故に、技術の進歩を通して効率化が進めば、より多くのGDPを生産することができる。

いくら効率化するとはいえ、より多くの財貨サービスを生産するには、より多くの生産要素を必要とするのは、長期的には避けることができない制約である。

効用や満足度は、同一人物であっても時点が異なれば直接に比較することはできない。とはいうものの、不便であった時代に松山から三島まで移動した小生たち家族と、飛躍的に便利になったいま小生が感じている幸福度は、さして変わらないことを明確に意識する。

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昔もいまも、1日は24時間であり、7時間くらいは寝るものだ。社会全体がスピーディであれ、スローであれ、人間一人が1日過ごして得られる幸福にそれほど大きな違いはないように感じる。人間はそんな風に出来ている。

物的生産性が低かった昔と、生産性が飛躍的に向上した現代と、そこで生きている人たちが感じている幸福度は、直接的に比較するロジックはないのだが、あまり違いはないように感じるのだ。それは亡くなった両親や祖父母と話したことからも憶測されるのだ。戦争と平和という国際的な環境の違いはあるが、人は、どんな時代であれ、文化をつくり、社会をつくって、そこで生きるものである。

現代では40歳になってから子供ができる家庭も多いが人生は80年だ。昔は人間50年だった。結核にでもかかれば20代、30代で身罷る人もいた。ゼロ歳で期待される平均寿命は50年未満だったろう。その分、結婚は早く、最初の子供が生まれるのは20そこそこ。人生50年未満で20歳、人生80年時代には40歳。昔も今も人間社会の基本設計に大きな違いはないという一面だ。

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こう考えると、一定の幸福度を達成するのに、現代日本人は多くの商品を必要とし、多くの資源を消費しているのに対し、昔の人たちは少ない生産で満足し、資源を浪費することも少なかったことになる。

消費する資源当たりの幸福生産性という概念を定義できるなら、一人当たり幸福生産性は長期的に低下トレンドをたどっている。こういう見方もありうるかもしれないネエ・・・と。

むしろ、それぞれの国に生きる人たちにとって、幸福度を向上させるのは物的な豊かさというよりは、砲弾が飛び交う内戦で命の危険を毎日意識している状況を解決する、テロリストの標的になっている状況を解決する、独裁者によって支配されることがない、盗聴と密告が当たり前の社会になるのを防ぐ、近隣の住民との相互信頼を築けるか等々であって、つまり幸福とGDPとは本質的には実は深くは関連していないように思われるのである。

マア、会社が倒産すれば生活に困るわけで、経済と幸福とが全く別物でないのは確かだが・・・。それに、何かに怒っている人は幸福ではないと思われる。

『昔はよかった・・・』というのは年寄りの繰り言で、馬鹿々々しい愚痴の典型として引き合いに出されることが多いのだが、より多くの商品を消費しながら、その物的な豊かさに見合うだけの幸福を作り出しているのか?この問いかけに対して、現代に生きる人間は沈黙せざるを得ないのではないか?

目がさめる前の頭は、普段とは違った回転の仕方をするものだ。


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