2018年9月1日土曜日

「無断録音」に感じる感覚には変化がない

検索欄に「盗聴」というキーワードを入れると、これまでの幾つかの投稿が出てくる。「盗聴」という問題に小生がかなり敏感であることを反映している。

その中にこんなものがある:

セクハラ防止が実行されなかった従来の日本社会は別に崩壊はしていない。それどころか、発展して、非常に洗練された文化をつくって、日本文化が世界市場で利益になる時代すらやってきた。が、盗聴や個人の自由の侵害を許すような社会が到来すれば、戦前期に経験したような恐ろしい社会になることは確実である。そこでは公益が万能であったのだ。公益を振りかざす社会ほど怖い社会はないということを、日本人は勉強したはずなのだが。
メディア産業の各社は本当にそう思っているのだろうか?

「公益」と「善」とは別物ですよ。公益に奉仕するものと信じて行動したところが、実はそれは悪行であった・・そんな事例は無数にありまさあネ。私たち日本人だって戦前期ニャア、そんなことをやらかしてましたよ。エッ! 覚えてない? 聞いたことがない? 忘れちまうには、まだ年数、たってないでしょうが。そう思いますがネエ・・・。ホントに、あなた方、大丈夫でンすか?

どれほど不愉快に感じようとも、人の話しはその人の話しとして聴いた方がよい。世の中そんなものだ。金正恩がどんなに嫌だろうと話を聞かないわけにはいかないだろう。嫌なことは聴きたくもない。そのような態度は国全体を変な方向へと導くものである、と。 
小生は、そう思うのだがネエ。

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パワハラ、セクハラ等々、種々のハラスメント問題で決定的な証拠となるのは、録音音声である。最近では裁判所でも無断録音の音声が証拠採用されるという。

が、小生は『イヤだねえ・・こんな世の中は』と感じる。

世間の意見の大勢は
弱い立場の人間が身を守るためには無断録音も仕方がない
こんなところだろう。

しかし「弱い立場」とはどういう立場だろう?課長が強く、ヒラは弱いのか?一概にそうは言えないだろうと思うのだ、な。

無断録音が嫌悪するべき「盗聴」にほとんど近似していると小生が思うのは、録音する側だけがその事を知っており、自分の音声が録音されていることを自分だけが知っているという事である。

もし第三者が盗聴しており、その事を話している二人とも知らないとすれば、その二人は思ったことを思うがままに口にする可能性がある。これは二人の普段の人間関係を伝える客観的証拠となるだろう。が、これは文字通りの盗聴だ。無断録音の場合は、当事者の片方だけが録音中であることを知っている。録音中に、そのことを知っている録音者側に「自分の身を守る」動機が働くのは間違いないところだ。これは(意図しないとしても)証拠編集行為と実質的には同じである。そのとき、「自分の身を守る立場」の側が「強い立場」にいるという理屈だ。なので、トラブルを公平に審査する材料としては偏りが混じることになる。そのバイアスを修正する必要がある。

というより、もっと強い嫌悪を感じるのは『自分の身を守るためには』という表現である。世間ではキラー・フレーズとして容認されているが、この言葉は必然的に極めて自己本位な言い方である。

そのうち最後には『スタンガンで相手を傷つけてしまったのは自分の身を守るために仕方がなかったのです』(相手はスタンガンを所持していることを知らなかった)とか、『自分の身を守るために学校にこっそりカッターナイフを持って行ったことは分かってください。あの子は虐められていたのですから・・・』(カッターナイフを持ってきていたことを相手は知らなかった)、『あの人を階段から突き落としたのは私の身を守るためでした』(階段から突き落とせば相手の生命の危険も予知できたはずだった)などなど、被害者意識を持つ側が自分の身を守る行動をとっても、それ自体は許容される行為であるという思想になる。

いくら正当防衛でもそれが罪にならないかどうかは慎重に審議される必要がある。たとえ「身を守る」ことが動機であっても、そこにはバランスのとれたフェアネスがなければならない。たとえ「やられたから、やりかえす」という報復感情が発露したケースであっても、それは言葉の意味からして「私刑」に当たる。すべての復讐は「私刑」であり違法、すなわち罪となる。親の仇であっても仇討は犯罪であるとは、明治維新直後の仇討禁止令にまで遡る法理である。

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要するに、
目的は手段を正当化しない
太平洋戦争は日本にとっては自存自衛、日本を守るためにとった行為である。そう主張していたのだ。しかし、それは極めて自己本位の行動であった。
自国を守るためには核武装することが必要で、核開発するのは自分たちの身を守るためなのです
北朝鮮の言い分に一理あるではないか・・・という理屈にもなる。

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あらゆるトラブルは、バイアスを修正しながら、客観的な視点から「責任割合」を判定しなければならない。お子様向けの「月光仮面」ではあるまいし、リアルな紛争で正義の側と邪悪な側が対立している状況は稀である。

というか、そもそも小生は「脅迫」や「暴行・傷害」とは別に「ハラスメント罪」という犯罪概念を設けようという方向には基本的に疑念を持っている。つまり、この種のトラブルは民事上の紛争として処理するべきだと考えているのだ、な。とすれば、有罪|無罪という二分類ではなく、普段の状況を整理して<責任割合>を確定することが最重要だと思っている。そのための「第三者機関」だと思うのだな。

ただ、その前提として道路交通法上の「安全運転義務」に類似するような「社会的交際倫理」、「指導倫理」、「ビジネス倫理」のようなものを法的に規定しておく必要は(理屈上)出てくるかもしれない。道路交通のあるべき状態を規定しないなら、交通事故の際の責任を定める基礎が固まらないのと同じことだ。

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自分でも分かることは、自分が相当の保守派であり、かと思うと世間の常識に追従することを嫌い、常に異論をたてるへそ曲がりであるということだ。

多分、職業病なのだと思う。

「大学」という場で講義を何年も担当していると、一方的に長話をする癖がつく。研究を商売にしていると非常識な新奇な提案なり、仮説なりを話しては自己満足する癖がつく。多くの人と和することを大事に思わなくなる。そんなことをする人は、平凡でイマイチな人と見るようになる。

研究を職業にしていると、大多数が信じている多数派意見が何であるかを理解し、承認していること自体が、研究では比較劣位の原因になることがある。異論をたてないといけない。皆が認める常識を否定し、くつがえすことが原則としてプラスに評価される。こんな仕事をずっと続けていると、医者には医者の、銀行マンには銀行マンの体臭が身につくように、固有の言動パターンというものが身についてくる。へそ曲がりになるのは、仕方がないのだ、な。

・・・というより、生まれつきの性格もあるかもしれない。

『人が右に行ってるなら、ボクは左に行きたい』と言っては父を吃驚させていた ―― 父は現場が好きで、多人数の人と一緒に仕事をするのが好きだった。親子とはいっても、キャラクターは全く違う。KYは小生にとってはホメ言葉である

だから、現にやってきた仕事と勤務先が心から気に入ったのだろう。その意味では幸せ者である。

― もちろん仕事で大きな成果を出すには、小生にはイマイチである才能も大事だ。才能よりも性格がポイントだという人もいるが、振り返ってみると、性格はみな似たり寄ったりなので、才能が最後には勝負を決める。性格がマッチしているのが第一として、才能と、それから体力、というか健康も不可欠だ。が、これはどんな仕事でも同じだろう。そう感じるのが小役人から研究に移ってずっとやってきた末の結論だ。


またまたスポーツ界(体操界)で発生したパワハラ問題についてもそうである。ま、今回の特徴は「指導する」側が無断録音していたのだが・・・、なぜ無断録音などしたのだろうとは思う、不審なことである。

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