旧里や 臍の緒に泣く としの暮れ
がある。確か『笈の小文』ではなかったかと記憶している。
この句自体はずっと好きであった。
が、実に迂闊なことに、「としの暮れ」とは芭蕉が旧里である伊賀上野を訪れた暦の上のことだと思っていた。
旧里の家で自分が誕生した時のへその緒を見て、亡き両親を偲ぶ心情がこめられている、と。そう理解してきたのだが、もう一つの意味もある。
自分の人生もまた、年が暮れていくように、こうして暮れていく。年の暮れという言葉には、自分の晩年を意識する芭蕉自身がいる。月並みに言えば「来し方、行く末」を思い、親を思い、漂白に暮れた自分の人生を振り返って、生あるものの儚さに涙をこぼす。まさに諸行無常にして歳月匆々。それでもなお、自分はいま現世におり、生きている。そんな「もののあはれ」に感じる心情もまた感じとれるのだ。
そういうことではないかと、気が付いた次第。
夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
一場の夢のような人の生を思う心情は共通している。芭蕉の句に流れる意識は時間である。永井荷風の随筆とも相通じるモチーフだ。
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これ以上書き込むと理屈っぽくなる。今日はこの辺で。
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