話題は次の報道だった。
天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)が指定暴力団山口組(総本部・神戸市)に対し、寺内で安置し ている歴代組長の位牌への参拝を拒否する通知を送っていたことが17日、分かった。延暦寺では平成18年、山口組歴代組長の法要が営まれたことが発覚。今 後の法要を拒否する方針を表明しながら、その後も少人数の参拝は受け入れていた。近年、暴力団排除の機運が高まり、ようやく“絶縁”に踏み切った格好 だ。
延暦寺では18年4月、初代~4代目山口組組長の法要が阿弥陀 堂で営まれ、全国の直系組長ら幹部約90人が参列。滋賀県警が前日に中止を要請したが、延暦寺は「慰霊したいという宗教上の心情を拒否できない」として応 じなかった。(出所: MSN産経ニュース2011.11.17 14:39配信)これに関して、次のように書いている。
そして最後にその時の疑問を提示している。小生がずっと縁を有している宗派は浄土宗であり、延暦寺は天台宗なのだから、考え方が異なるのは異なるのだろう。しかし浄土信仰を宗派として開 いた法然は延暦寺で勉学した。そもそも延暦寺は日本の大乗仏教の総合大学とでも言える存在で、歴史に名を残す仏教思想家の多くは比叡山出身である。だか ら、延暦寺と浄土信仰とは全く無関係というわけではない。倉田百三「出家とその弟子」は今でも中学生向けの推薦図書リストに入っているのではなかろうか?その最初の扉には極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の 正信念仏偈の仏句が掲げられている。この「出家とその弟子」という戯曲の主人公は親鸞である。親鸞が法然の弟子であり、現代日本でも最大の信徒を有する浄 土真宗の宗祖となったことは、歴史の授業で必ず登場する事柄だ。その親鸞といえば、どんな言葉を思い出すだろう?教科書にも登場しているので誰でも知って いると思う。善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をやである。善人が極楽浄土で救済されるというのに、悪人が救済されないはずがないという文意だ。決して逆ではない。悪人すら救済される以上、善人が救済されないわけがない、こう言っているわけではない。あくまでも、悪人こそが救済されるはずなのだという思想である。
さて、延暦寺は暴力団参拝を拒否するとのことだ。上に引用したような、悪人の魂をこそ救済しなければならないという思想は、この措置からは到底窺うことはできない。そんな考えは捨てたのか?もともと、そんな思想は天台宗にはなかったのか?
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不倫、家庭内とデートの二つのDV、覚醒剤、おれおれ詐欺、ブラック企業等々、現代型悪行が毎日報道されている。特に、組織暴力団が関係してくると、その人間は社会から抹殺される。法に反した以上はそれも当然であると世間も疑問に思わないようだ。
が、小生は極端なほどのへそ曲がりだ。
法に違反した人間は、事実上、社会から退出させる。復帰させない。法に反する事業を展開している「闇の事業主」には存在位置を与えない。裏社会なるものは許さない。あくまで否定する、と。
小生もこのロジックに反対はしない。ただ悲しく、情けなく、その器の小ささに失望するだけである。
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悪行を重ねる人間は悪行を重ねて生きるという正にその点でそんな運命を負って生きている。そのこと自体が汚辱であり苦しみである。畜生餓鬼の世界に沈んで生を送っているのである。だからこそ魂の救済の対象として真っ先に選ばれる。これが親鸞のいう悪人正機説の核心であると理解している。
悪行を重ねることなく、善い人生を送っている人は、人から親しまれ、友人に恵まれ、仕事でも成功し、家族とも円満に生を送る可能性が高い。であるが故に、その人はこの世において既に報酬をもらっているのであって、善人であるが故に来世においても救われる資格があると考えるとすれば、それは傲慢というものだ。
こんな思想は、日本の他力本願思想に限らず、バイブルの中にも窺われる。成文法を遵守しているか否かという視点とは別に、ドブ川のような空間で生きる人にこそ神の救いの手をみるという発想は国や民族を問わず広く人間社会にあるのだろう。
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本来は、成文法を遵守するという法治主義と信仰する神(唯一神からもしれないし、阿弥陀如来かもしれず、あるいは八幡神かもしれないが)という次元の違うこの二つの観点は、方向が重なり合わないX軸とY軸のように交差して、現実社会を規律づけていたはずだ。
ある面では法により統治し、別の時は宗教的感情から裁定する。そのバランスに苦心してきたのが現実の歴史である。どちらか片方に偏ると、この世は非常に生きづらくなる。 そう思っているのだな。
だから、暴力を旨とする反社会的悪人がもしも魂の救済を求めて六字の名号を唱えたいと寺を訪れれば、社会の法に反して生きているかどうかにかかわらず、阿弥陀如来による救済を願う権利はある、というよりその種の人間こそ真っ先に救われるべきなのであるから、寺は迎え入れるべきである。宗教はその種の人を受け入れることをこそ任務としている。それが憲法の定める信仰の自由でもある、と。そう思っているのだな。
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江戸期の大学者・新井白石は『読史余論』の中で、国家を覆すほどのエネルギーが宗教にはあった点をあげ、しかし織田・豊臣から徳川政権の下で概ね宗教的勢力を押さえ込むことに成功した。しかし、一向宗(=浄土真宗)だけは完全な押さえ込みに成功しないまま今日(=綱吉から家宣にかけての時代)に至っていると。そう書いている。
とすれば、(明治維新以後の近代化の激動の中でこう見ていいかどうか確信はないが)天台宗のような平安仏教や奈良仏教はもはや死火山なのかもしれないが、国内最大の信徒数をもつ浄土真宗はいまだ休火山であるかもしれず、誰かカリスマ性のある指導者が登場すれば、再び社会を動かすほどの熱狂に至る可能性はある。
格差拡大の時代の中でそんな宗教的熱狂の十分条件が整いつつある。そう思ったりしている。
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