2019年5月17日金曜日

失言や暴言はその時代、その時の国民次第である

維新の会に所属する衆議院議員である丸山議員が北方領土に関連して発言した内容が世を騒がしている。

国会議員の失言、方言は今に始まったことではない。しかし、今回の発言は単なる「放言」ともどこかが違っている。

そもそも丸山議員は、東大を出て(出たからどうだというわけではないが)、経済産業省に勤務していた(だからどうだというわけではないが)。まあ、正解のある問題に人よりも速く正確に解答をひき出すという能力は十分以上にあるはずの人物だと推測できる。

その人物が、戦争をするしか北方領土を獲り返す術はないのではないかと、どうやら考えているらしい。「サービス」というより、どうやら本音であるらしい。この点で、「ぢ頭」が悪いが故に言葉の選択を間違えるという放言、失言とはどこか性格が違っている。

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賛否両論、色々と出ているようだ。刺激性のある発言なので当たり前だ。

確かに、ロシアは「第二次世界大戦の結果として日本は現状を認めるべきである」と主張しているのだから、「だとすれば、もう一度戦争をして日本が勝てば、どちらの固有の領土であるかという話はする必要がなくて、北方領土はすぐに取り返せるっていう理屈ですよね」と考えてもそれは純粋論理にはかなっている。

そして、純粋論理にかなうなら、国会議員は発言の自由を保証されるべきであるというのも、一つの理屈である。

公務員である国会議員は現行の日本国憲法を遵守するべきであるという見方もあるかもしれない。しかし、これを文字通り貫くならば、国会は憲法改正を発議することが不可能になってしまうだろう。国会が改憲を発議できないなら、国民は憲法を改正できないという結論になる。これでは現行憲法を神聖視するのと同じになる。民主主義ではないという理屈になるのではないか。

憲法改正を発議できる国会と国会議員は、たとえ現行憲法と矛盾する考え方であっても、自らの信念を表明する権利はもっていると考えるべきだという理屈は確かにある。

何が「正論」として世間に受け入れられるか? それは時代ごとに激しく変わるし、現に変わってきた。歴史を通して、またつい最近に至っても、何が正しいかという見方は変わっている。

国会議員は変化する社会の中で、提案をする自由を与えられているべきだと思うのだ、な。「天皇機関説」が長らく標準学説であったとしても、それを真っ向から否定する「天皇主権説」を述べても学者が仕事をしていることに変わりはなかった。戦前においてすらそうだ。であれば、自由を重んじる戦後日本社会においては、もっと自由であってもよい。国会議員もそうである。これも理屈だろう。

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ただ戦争をするという場合、ロシアと戦争をするのだろう。そして自衛隊が戦争をするのだろう。負けた時のことについて提案はしたのだろうか。米国が参戦してくれるかどうかについて予想を述べたのだろうか。中国の出方について何か考えはあるのだろうか。

多分、何も構想はないのだろう。

ちょっと聞いてみただけサ…、考えを知りたいだけサ

つまりは「無責任」なのである。無責任な国会議員という存在は論理的にありえない。その意味では、議員辞職を勧告されても仕方がない。

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もう一つある。

自分にとって正しいことであれば、誰にそれを言うとしても自分の言い分に人は耳を傾けるべきである。ここも間違っていた。

おそらく、自分が何かをいえば、人は尊重してくれていたのだろう。しかし、その状況は偶々の成り行きであった。

平和的手段で「北方領土返還」に人生を費やしてきた人たちに言っても通る話しではなかったのだ。言ってはダメだ、と。この種の事柄を理解する才能には決定的に欠けていた。

今回の発言をもって国会議員の品位を貶めたとは小生は思わない。この種のことを国会議員は一切発言するべきではないとも思わない。ただ、議論ができない人である。理屈がとおれば、人の感情を傷つけても許されると(どうやら)考えているらしい。

つまりは「鈍感」な人物である。こういうタイプの人は政治家には適性がない。

以上を総合すると、丸山某という議員は「論理的」である反面、「無責任」かつ「鈍感」という要約になる。やはり、まずい。この種の人物が権限をもつと、周囲の人たちを不幸にするだけである。戦前期の帝国陸軍には山のようにいた。何故だか知らないが、日本式エリート養成法の下では、こんなタイプが量産される。これだけは間違いがないようだ。

寧ろ「鈍感さ」が長所となる職業、例えば学者や研究者、著述業を志すべきだろう。

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