2019年5月5日日曜日

一言メモ: 先日投稿「国語力の貧困」に関する一案

「忖度」という言葉だが、元来の意味から乖離してマスコミでは負のイメージが与えられて、現代社会では、というよりもここ数年の世間で通用している。

たとえばTVのワイドショーに出てくるコメンテーターなども、『政策論争ではなく、忖度ばかりが得意な人が評価される、嘆かわしい』などと発言する。

元来、上役、のみならず関係者一同の胸中を忖度することの巧みな人は、得難い人材として高く評価されてきた。歴史を少し勉強すればすぐに分かることだ。いや、歴史というより、身の回りのなんでもよいから紛争が解決に至るまでのプロセスを細かに観察すれば納得するはずだ。

多分、マスコミは妥協を嫌い、トップや上役とも喧嘩できる人材が欲しいのだろう。そんな人は「剛直」と評される。

剛直な人の正反対の位置にいる人間は忖度の上手な人間ではない。「阿諛追従」をむねとする人材。小生の叔父の得意な表現を選ぶと「殿中の小坊主」、より簡単に「小坊主」。王朝時代の中国ならば「あの宦官野郎」というところの人物になる。学者が阿諛追従をこととするようになれば、いわゆる「曲学阿世の徒」という呼び名になる。吉田茂元首相がある東大教授を非難して用いた言葉として有名になった。「曲学」は「学を曲げる」、「阿世」は「世に おもね る」、という意味である。マスメディアが「忖度」という言葉を使う際、この「阿る」という言葉を使う方が正しいことは間違いない。「 へつら う」という言葉も類似語だ。

要するに<士>と<宦官>との対立的な二つのタイプがイメージとしてあるのはすぐに分かるわけだ。
あの「小坊主」がまた社長を喜ばせようと、甘いことばかりをほざきおって…。やっと決定した改革方針が覆されたぞ、何とかせんとナ……まったく売り上げが落ちてからは阿諛追従の輩ばかりが横行して、お先真っ暗だ!
まあ、そういう情景である。どこにでも「▲▲社の柳沢吉保」はいるものなのである ― 歴史的事実として、徳川綱吉の寵臣・柳沢美濃守吉保が阿諛追従をむねとする佞臣であったか、気難しい綱吉将軍の意中を忖度して幕政を調整する達人であったのか、この問題はまた別の話題である。

人材の劣化を問題視して「忖度」という言葉を使っているのは意識としては分かる。しかし、「忖度」がダメだと言い出せば現実の企業組織は活力を失い、より一層衰退するばかりだろう。

忖度と阿諛追従の区別さえも出来ないのは、小中学校、高校を通して、読書を十分にしなかったために決まっている話だ。基礎学力が不十分なまま、メディアと言う社会でも重要な仕事を割り当てられている例が多きに過ぎる点が、現代日本社会では最も懸念するべき問題だと思われる。

『カエルの面に水』かもしれないが、そのマスコミが好きな言葉が最も有効な警句になるかもしれない。
言葉が最も大事なのです
忖度がダメだというその人物こそ、誰かに対して阿諛追従をしているかもしれないのだ。善い行為にせよ、悪い行為にせよ、それぞれ名詞が与えられている。その行為を何と呼ぶべきか、手当たり次第に流行の言葉を使うという耳学問では、世に阿っているだけではなく、世を惑わせることにもなる。


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