2019年8月17日土曜日

メモ: 高校野球で登板を回避する選択について

一日二回のメモをアップするのは初めてだ。

夏の甲子園大会がだんだんと佳境を迎えている。本日も星稜・智弁和歌山戦のように延長戦の末に劇的な幕切れがあるなどどれも熱戦だ。

思い出すのは岩手県予選の決勝戦でエースが登板を回避して出場できなかった大船渡高校のこと。

投げすぎを心配したというのが理由だった。球数制限が検討される今日、自然な判断とも言えるが実際には賛否両論あるようだ。簡単にいえば「高校野球の段階で登板をしいて故障させてしまっては、将来必ずプロ野球で活躍するだろう逸材を潰してしまうことになる、その危険を避けたのです」と。そういう思考になる。

確かに将来のプロ入りまでを考えた上で今現在どうするかと考えるのは戦略的思考であり、理屈は通っている。

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しかし、世の中は一寸先は闇である。プロで活躍する前に運悪く交通事故に遭ってしまって投げられなくなるという可能性はゼロではあるまい。そうでなくとも球質や制球力がいま一つ十分でなくプロ野球で期待されたほどには活躍できないという可能性もある。

将来を考慮して現在は自重するというのは理屈に適っているが、予想通りの将来はやってこないかもしれない。「将来これこれの事をするつもりだから……」などと思惑をもたず、後先を考えずにチームメートと一丸となり全力で戦えたはずのこの夏の機会を自ら捨て去ったその選択を後になって後悔することにはならないか?

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人によっては「あの年の夏が自分にとっては最高の時でした」と、「その後は下る一方でした」という人もいる。人によっては「夏の高校野球は僕の人生で大事な一歩でした」という人もいる。人は色々だが、人生もまた色々だ。現在から将来にかけての人生を先取りして、将来を決めたうえで現在を決める。確かに経済理論では動学的最適化行動として合理性は証明されている。と同時に、先日も三鷹に棲んでいる小生の叔父と電話で話したのだが『〇〇君、ほんとに人生というのは思う様にはいかないものだネエ』、こぼすような、諦めているような、淋しいような独特な口調が受話器の向こうから聞こえていたのを思い出すのだ。

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