2020年3月15日日曜日

一言メモ: 「世論」を知るにはフィルタリングが必要だ

「ネット世論」とは
ネット世論=投稿合計-デマ投稿
として定義されるだろう。

ネット投稿のかなりの部分は個人ベースで公開されているブログが占めている。今ではツイッター、フェースブックなどSNSの投稿がブログの情報量を超えているかもしれない。

本来、ブログとはウェブログ(WebLog)であって、簡単に言えば「紙に鉛筆で書く日記の代わりに、ネットにメモをして保存した作業日誌」のことである。だから、他人の目に触れるものでは本来はないし、ましてブログを不特定多数の人々に読んでもらって、世論を喚起したい、そんな狙いをもって書かれるものは「ブログ」ではない。

このブログも100パーセント、メモである。公開しているのは、限定公開範囲を設けるのが面倒くさいからだ。

旧世代に属する小生は、広く社会に公表する書き物なら、原則として(編集局長かレフェリー等による)審査を受けるべきだと思っている。理由は簡単で、書いていることが嘘か本当か分からないからである。書いた内容の真偽に書き手は責任を持つべきだと思っている。伝聞なら「〇〇氏からの伝聞だ」と明記すべきだと思っている。そうすれば情報元が保存されるからだ。

学問分野では「自由な議論」が不可欠だが、自由だからといって誰でもいつでも意見を公開できるわけではない。例えば、マシンラーニング分野の専門家が頻繁に利用している無査読論文公開サイト"arXiv.com"がある。論文の体裁をとればサブミットできるのだが、しかし余りに低品質で信頼できないと判定されれば既に投稿された論文であっても削除される仕組みだ。

情報提供を業務とする企業・組織は、明らかなデマは情報ではないが故に、デマと判定する投稿は削除するべきだというロジックはここから出てくる。フェースブックもこの方向に沿って努力するようになった。「表現の自由」とは「嘘をつく自由」とは違う。

いまSNS企業に求められているのは、自社のネットワーク品質のマネジメントである。「表現の自由」と「公益」とが対立している。どのような方法で「社会的な絆」を守るのか。守るためにバランスをどうとるのか。これが経営課題になっている。そんな先鋭的な問題意識はまだ日本国内では成熟していない。

★ ★ ★

「△△とは本当か?」というタイトルの投稿は大半が低品質である、そんな印象が小生の中では形成されている。これがバイアスであったり、偏見であれば、むしろ幸いなことだ。かと思うと、「……、やはり最悪の事を考えておく必要がありますから」と言いたいだけの記事も結構ティピカルである。「真の意味で」最悪の事を考えているなら、そもそも呑気に文章などは書いている余裕もないわけである。

こんなパターン化された投稿の元サイトに辿って行って、そこに多数の広告が掲載されているとすれば、それは閲覧数を目的とした営利動機による執筆であることは明白だと判定し、中身は読まない。

そんな<ほぼほぼデマ>に接すると、せめて「いいね」や「賛成/反対」などの評価ボタンがないかと探すのだが、大体においてそんな評価の機会は備わっていない。

ブログは、本来は世論を形成するツールではなかったはずだが、もし世論形成に寄与する目的で投稿をするなら、投稿を受理するサイトはその投稿を評価する仕組みをつくっておくべきだ。この辺の違いがブログサイトを差別化するファクターになるに違いない。

社会の中の活動は、それが企業活動であれ、フリーマーケットであれ、違いが差別化の因子となり、優勝劣敗が進むものである。これが偶には『悪貨が良貨を駆逐する』ケースもありうるわけで、デマの拡散とは即ち「情報における優勝劣敗の例外的ケース」に該当する。なぜこんな事象が起きることがあるのか。これもまた学問的には面白いテーマだろう。

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