2020年5月29日金曜日

現時点の労働市場の客観的指標は・・・

有効求人倍率が1を超えれば、求職よりも求人が多い。人出不足であるということだ。

本日公表された4月の有効求人倍率は1.32倍で、4年1か月ぶりの低水準となった。が、しかし1倍を大幅に超えており、なんと数字の上ではまだなお人出不足状況が続いているというわけだ。

これは現在の心象とは大いに違っているのではないだろうか。

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有効求人倍率が1未満から1を超える状況に改善したのは2013年(平成25年)11月である。リーマン危機後の2009年8月には0.42という水準にまで悪化していた。それが民主党政権から安倍政権に交代し、経済状況は一変したのであった。

ちなみにリーマン危機は2008年9月に勃発したという何となくの印象があるが、実体経済のピークはそれよりずっと前、2007年第4四半期にあり、有効求人倍率は2007年11月には既に1倍を割ってしまっている。

今回は現時点でまだ1.32倍という高さにあるので、就職難が本格化する1倍未満になるのは、まだかなり先のことだろう。

鉱工業生産指数は4月に9.1パーセントの減少となっている。何度も書くが、需要が急減した分野では生産減、需要が急増した分野では増産難、素原材料調達難が続いているためだ。だから生産トータルが減るのは当たり前である。

が、市場メカニズムが機能すれば、いつまでもこんな不均衡が続くことはあり得ない。

いずれにせよ労働統計は遅行指標だ。不況はこれから深刻化する。需要供給の不均衡を一刻も早く解消するという発想が不可欠だ。

不況なら総需要を増やせばよいという発想では、今回の事態には対応できない。これまでもマクロ経済政策の効果は不十分である、むしろ負の副作用が目立つと指摘されることが多かったが、今回の経済問題では更にはっきりとそう言える。

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いまの安倍政権で問題解決できるだろうか?

長すぎたからダメだということにはならない。それを言うなら、ドイツのメルケル首相はもう15年近く首相職にある。今回の新型コロナウイルス禍では一層支持率を上げている。

やはり理念と発想がカギなのだろう。

小泉政権時代と安倍政権時代と、二つの時代は似ているようで大きく異なるところがある。それは、横紙破り的な起業家が小泉政権下では(中には行儀のよくない人たちもいるにはいたが)次々に世に現れてきたが、安倍政権になってからは株価が上昇する割に新規事業者が現れなくなったことである。ま、亜流のような小型の人物は時に出てはいるのだが・・・。

日本経済もどこか<目詰まり>を起こしている。

新規事業者が既存の業界秩序を壊しにくくなっている。政府がふだんの威勢のいい言葉の割には創造的破壊を支援しなくなっている。

その意味でも、現政権はふだん使っている大げさな言葉の割には、相当に保守的な政治をやってきたことに間違いはない。そう思われるのだ、な。

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関連した無駄話を一つ。

時折、思うのだが、ライブドアの堀江氏。経営上の微罪は追加課徴金などの形で処罰されていたとしても、あのまま100パーセント、やりたいことをやってもらっていたら、今頃は日本の社会経済はどうなっていただろうか?そんな風に夢想することがままある。

リクルートの江副、ものいう株主の村上、そして日産を再生させたゴーン・・・。ケーススタディに書きたくなるような人物は、事件の当事者として摘発され、粉砕されてしまった人が多い。これも「日本的目詰まり」を象徴する歴史ではないかと感じるときは多い。アメリカでは、ゲイツも、ジョブスも、ベゾスも、ザッカーバーグも、その他無数の起業家も、ビジネスマンがビジネス上の事で逮捕はされていない、というか「まずない」。トランプ大統領から目の敵にされることはあっても、「容疑者」にも「犯罪者」にもなっていない。

日本では(高潔な)政治家がとにかく「偉く」、TV画面を賑わすのである。経済界の大物が政治を語り、国家を動かすという情況は、多くの日本人にとって我慢ができない。現在の日本はなるほど民主的だとは思う。が、どこか真の民主主義と違っているのではないか、とも感じる。そう感じるのは、政治家のフィクションに喜悦し、ビジネスマンの事業欲を卑しむ、山の彼方に夢をみたがるそんな国民性を感じてしまうときである。現実よりも理想を尊いと感じる世界観は、民主主義の現実とは本当は相性が良くないのじゃないかと、小生は考える。マア、「誰のおかげでメシを食って行けてるのか?」と、そんな冷めた現実感で、ビジネスよりも政治に期待する「国民感情」のことを耳にするにつけ、自分の家族よりも人様を本気で大事にするつもりなのかと、何かバカバカしい思いを禁じ得ない今日この頃であります。

公私の私より公私の公、と。そんな国民精神の中で、イノベーションを拡散させていこうというのは、よほど公私の私を理解できる政治家でなければ、やっていけますまい。ジャパニーズ・パラドックスかなあ、これは。何度も挑戦しながら、解決に失敗してきた日本経済上の難問だと思う。


2020年5月26日火曜日

断想: 表現と責任、匿名と無責任について

言葉の暴力については、本ブログでも多数回、話題にしてきた。また一つ、覚え書きを追加したい。


街中のヘイトスピーチに対しては2016年に「(通称)ヘイトスピーチ対策法」が成立して以来、市町村が条例で罰則を設けて規制する例も出てきている。しかし、外国出身者等へのヘイトスピーチは規制されるが、日本人に対するヘイトスピーチは放置されている。このアンバランスもずっと指摘されている。

女子プロレスで活躍する若手レスラーが、某民間テレビ局で放送している(一見)ドキュメンタリー番組の中で演じた乱暴な振舞いが、現実世界とゴッチャになって負のイメージを形成してしまい、耐えられぬほどのネット・バッシングの嵐に見舞われて、帰らぬ人になるという事件が起きた。

本質は「自由」をどう理解するかにある。

近代社会では職業選択は自由である。しかし、最初に選んだ職業に失敗しても、助けてくれる所は職業安定所くらいだ。職業によっては、これもない。自由とは保護される権利を意味しない。

「表現の自由」は憲法で保障されている。ところが、<自由>には<責任>が論理必然的に伴うことが、意外に学校では教えられていないのかもしれない。隷属と責任は両立しない。責任は自由から生じる。なので、「表現の自由」が戦後日本社会で保障されているが故に、だからこそ自分の表現がもたらす結果には責任がある。基本的な理屈はこうなる。こうなるはずであるし、べきでもある。もし学校で教えられていないとすれば、それは国語は漢字の勉強、歴史は年号や人名を覚える勉強という具合に、授業が暗記科目になってしまっているからだ。受験中心の弊害である。自由と責任の不可分性など道徳を正規授業化するまでもない。丁寧に読書をしていればすぐに心に浸み込む常識である。

自分の暴力的な言葉で人が傷つくとき、そのことに責任を感じるのは当たり前の感情である。実際、責任があると考えるのが健全な常識だろう。御免ネで済む場合もあるし、すまない場合もある。これまた当然である。とすれば、法律上もそうあるべきでしょう。

要は、言葉の暴力をどのように、どの程度にまで処罰するかである。

ま、この辺の話題については、ネットの中傷もあるが、メディアの暴力もこれに近いところがある。この辺りはこれまでにも何度か投稿している。単純に反復しても仕方がない。

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それより、匿名性と無責任との関係をメモしておきたい。

ワイドショーや報道番組を視るにつけ思うのだが、テレビ番組の編成方針、人物配置、内容などなど、実質的にチーフ・プロデューサーが(事前に)決定する範囲は広い。ドラマの番宣では主演や主要人物が登場することが多いが、本当は演技をする俳優や女優と共に番組の制作を担当しているチーフ・プロデューサーも一緒に登場するべきだろう(映画では監督が必ず舞台挨拶に登場する )— また嫌な「べきだ」を使ってしまった。

特に、虚構ではなく「リアリティ」についてニュースを報道する情報番組では、「作り手」が信じている特定の思想や価値観が混在して語られているというその事が実は語られていない。すべて人の作品は「誰かが作ったもの」である。作り手の思想が混在しない純粋に非主観的な作品は存在するはずがない。特に、それ自体として存在するモノではなくソフトな文化的作品である放送番組においては、作り手と作品は一体である。放送番組を作るプロデューサーは顔を見せて、中心テーマや着想などを視聴者に伝えておくと鑑賞者(=視聴者)には分かりやすい。

最近は、最初に引き合いに出した事件の舞台となった番組のように「リアリティ番組」というか、「情報番組」というか、「一見・ドキュメンタリー番組」が視聴者に受けているようだが、これらも作り手がそのように作っているという虚構性が視聴者には実は届いていないかもしれない。所詮は、テレビ番組も、新聞記事も、メディアの作品は、ある意味ではすべて「書き手・作り手が作ったもの」である。この否定できない事実を、時には公衆に強調しておくことは、メディアの良心というものではないだろうか。どんな人物であるかを知らない人の本は、小説であっても、学術的な本であっても、すんなりと頭に入りにくいものだ。読み誤ることも増えるものだ。真意が伝わりにくいのである。

放送番組も映画と同じくソフトな文化作品だ。作り手の顔が見えている方がよい。

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匿名は無責任のためのツールである。文化産業で匿名性の陰に隠れることは弱さの証明でもある。責任を引き受ける覚悟がなければ表現をするべきではないのではないだろうか。

文化産業には知識産業も含まれるし、情報産業もその一部である。

匿名性が許容されている場としては、規格大量生産が行われる農場や工場などがある。確かに安全性が承認されている商品は大量生産するのが効率的だ。しかし、そんな匿名性が支配する場というのは、チャップリンの『モダンタイムズ』を観るまでもなく、そこで活動している個々のパーツが企業組織に埋没し、一人一人の社員の無責任性が貫徹される場でもあって、そうであるが故にチャップリンはそれを冷笑し、非難するのであって、それこそ非人間的な社会システムそのものなのである。チャップリンが加える鋭い文明批判の標的そのものである。匿名参加は便利であるが、ここを見逃してはダメだろう。責任は従属の下では生じない。責任は自由な個人に発生する。基本的な命題はここでも再確認される。

名無しの権兵衛さん、あなはここで何をやっているの?

こんな詰問に回答できなければなるまい。もちろん様々な答えがありうる。が、匿名に隠れた「意見表明」を「世論」と呼ぶべきではないという指摘は、一理あると言えば確かに理屈は通っているようでもある ― 「世論」ではないと一刀両断に切り捨てるのも極端であるとは思うが、かと言って、どう考えておけばよいのか、迷うところがある。

TV、新聞、SNSなど現代のメディア産業が『モダンタイムズ』を地で行くような非人間的な文化産業になっていなければ幸いだ。

<世論>だと思い込んで参加してきたことが、実は作られた<群集>だったかもしれませんぜ。最悪のケース、お上による<群衆管理>の対象となるべきでもありましょう。踊るも、踊らされるも、踊っている身には分かりませぬ。リスクは避けるべきでありましょう。剣呑、剣呑・・・

今日は最初から最後まで<べき、べき>の話がやけに多くなってしまった・・・。

2020年5月24日日曜日

一言メモ: 安倍政権の怪我の功名

新コロナ型ウイルスに関する米誌"Foreign Policy"の論評『日本の奇妙な成功』が結構評判になっているようだ。かと思うと、英紙"Financial Times"など複数の海外メディアが日本の「コロナ事情」を紹介して、「これは政府の成功というより日本国民の成功伝説となる」と、まあそんな見方で説明したりしている。

安倍政権の<怪我の功名>である、これは。

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実際、今春から始まったコロナ禍の中で、政策対応に参加した専門家集団の評価はともかくとして、内閣・中央省庁の対応ぶりはまったく誉められたものではなかった。ズバリ言えば、運・鈍・根とは100パーセント異質の<鈍・遅・苦・少>が当てはまる、あきれ果てるほどの低レベルであったことは、海外諸国と比べるまでもなく、現時点の内閣支持率にそのまま表れていると言うべきだ。

ただ、

中国が武漢市を都市封鎖して、その後の拡大をピシャリと食い止めた成功を目の当たりにして、特にヨーロッパのイタリア、スペインなどの惨状を見るにつけ、「感染症拡大に対応するには、共産党が主導する体制に比較優位がある。自由主義国家はこの点では劣るのだ」と、こんなコンプレックスを西側諸国は感じてきたと憶測するのだ。

新型コロナウイルスを効果的に抑え込むには、やはり中国のような独裁国家、中央集権国家がホントはいいんだな、という認めたくない事実がここにある、そんなガックリ感があったことは否定できないと思う。

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ところが、

日本では、政府は政府らしいことをほとんど何もせず、後追いで対応し、ユルユルの「自粛要請」でお茶を濁しながら、マスク配布や動画アップなど阿呆な失敗ばかりを重ね、それでも国民が自由意志をもって外出自粛を続け、爆発的感染を回避した。

「中国の体制的優位」は自画自賛に過ぎないことが立証されたというわけだ。

これほど共産主義・中国にとって当惑する事実はない。

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その意味では、個人の自由と人権を重視する欧米主要国にとって、「日本の成功」ほど有難いデータはあるまい。「政府に強大な権力を与える必要はない。むしろ無能でも、阿呆でもいいんだ。重要なのは自由な国民による意志決定なのだ」という「市民社会」の政治哲学に自信を持ち続けてもよいということだから、これほど有難い証拠はない。

欧米主要国は安倍政権がもたらした「実績」、というか「奇妙な成功」を感謝の気持ちで視ているに違いない。

2020年5月23日土曜日

ほんの一言: こりゃあ、昔の帝国陸軍の感覚だネエ

これも今の新型コロナウイルスと同じく、組織にとっては一つの「ストレステスト」かもしれない。東京高検検事長の「賭けマージャン」。

懲戒ではなくて、訓告処分にとどまったのが「軽すぎる」と。世間全体が騒然となっているのは気持ちとしては分かる。が、処分は「みんな」で決めるのではなく、然るべき人(ないし人達)が決めるものであり、決める人を信じられないならその人に不信任を提出すればよいし、信じられるなら了解するべきである。趣味的には嫌いな表現である「べきである」と、いま書いてしまったが、何かを「べきする」なら、まさに今でしょう。

こんなやり取りがあったようだ:
「唯一、説明してないのは最高検察庁の稲田検事総長でしょ。この人は何にも説明してないんだから。その人が(処分を)決めてる訳ですよ、訓告を。少なくとも組織の長なんだから、黒川さんを監督する責任もある。あるいは処分を決められる立場なわけですよ、実際決めてるわけです。その人が全く表に出てこない。こんな事が許されていいはずがありませんよ」と稲田伸夫検事総長の説明責任を求めた。
出所:Yahoo! ニュース「スポーツ報知」、5月22日16:37配信

 これが政治評論家のT氏の発言。これに対して、元特捜検事のW氏。
訓告について検事総長が決めたかという事には、私のこれまでの知識によると、処分については法務省の人事課などが決めるという事なので、検察というよりも法務省の関係部署の方でまずは決めるという事が、通常ではないかと思います。
天皇の認証官である高検検事長の処分を「人事課」が決めるというのは、「人事課長」が決めるということだが、これは流石にないでしょう。人事課長が「原案」を担当してつくるというなら分かる。しかし、ナンバー3をどう処分するかの時、ナンバー1やナンバー2の意向を「忖度」せずして、一介の課長が原案をつくるということはちょっと考えられない。

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ただ、帝国陸軍の参謀本部でも作戦立案は、一介の課員が作成し、それに課長がチョコチョコと加筆し、あとはその原案がトップまで一気通貫。小生がずっと昔に勤務していた部所でも、確かに下が創った文案が一番上まで行ってしまう雰囲気があったことはあった。

怖いネエ・・・日本の中央官庁は、いや日本の会社もそうなのかもしれないが、よくいえば「日本的現場主義」、悪く言えば上が下に忖度する「下克上」は、まだまだ立派に生き続けているのかもしれない。

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というか、想定外の「満州事変」の際、軍律に明白に違反した石原莞爾・関東軍参謀を当時のメディアがやけに誉めそやしたそうだ。それで彼は「ヒーロー」になった。この例からも分かるが、マスコミが世間に忖度し、公的機関の現場はマスコミが気になり、上はそんな下に忖度して、部内の支持を得ようとする。世間はそんな上を部内の信望が厚いと誉める。ま、財貨サービスの「経済循環」ではないが、忖度のリレーが日本では顕著であるように感じる。もしも日本人が得意とする「おもてなし」が、「忖度」と表裏一体の心理活動であるなら、これは案外に根が深い「日本病」なのかもしれない。

小生が勤務していた大学にも外国出身の教員が多いが、周りに忖度はせずズケズケと意見を主張するところはあると思う。もちろん日本人にもそんな人がいるから一概にはいえないが、少なくとも外国では「忖度のリレー」は(ないとは言わないが)少ないのではないかネエ。「おもてなし」もレベルが低下すると、阿諛追従、おべっか、御機嫌取りといった言動に落ちてしまい、「卑屈のアピール」ともなりかねないので、要注意だと思う。

2020年5月22日金曜日

ほんの一言: このタイミングで露見とは・・・

東京高検検事長の「賭けマージャン」が露見した件:

いわゆる『週刊文春』へのタレコミ。これは陰謀だろう。賭けてもいい・・・アッ、賭博は法律的に禁止されていたか。「賭博罪」であるな。剣呑、剣呑。カミさんともヨシ無キ事にカネを賭けては遊んでいるもので。

幼稚園児の頃から、勝ったら奪う、負けたら取られる。メンコやB玉で勝負事はそんなものだと思ってきた。20代の昼休みにはパチンコの短時間勝負が息抜きとなったが、あれもどう言いつくろっても「賭博」であった。数千円からウン万円くらいで日常的に勝ったり負けたりする人がパチンコ好きには多いのではないかネエ。競馬や競輪もその辺りでしょう。最近は株式投資の妙味がわかってきたので、遊びのギャンブルはしなくなったが、「株」もせんじ詰めれば立派な「賭博」ですな。勝ったときの利益が税務当局にはガラス張りで、税を納めて国に貢献しているから「賭博罪」にならないだけである。

ま、繰り返しになるが今回の件はズバリ「陰謀」だと思う。動機をもつのは誰か?黒幕は誰か?少なくとも3人はいるでしょう、得をするのは、いや4人か・・・。こりゃあ、ミステリーの読みすぎかも。

それにしても、「どうなっているのか」ではなく、「どうあるべきか」ばかりを語るメディアは、報道というより説教である。

公共の電波でモラルを説くのはもういいので、まずは「取材」にエネルギーを使ってほしいものだ。対面取材が多少「密」であっても小生とは無関係ですので。

2020年5月18日月曜日

思い出: 宮仕えが嫌になったときのこと

ずっと昔、小さな某官庁で小役人をしていた頃の話だ。

その役所の月間広報誌の編集をしていたのだが、上司がよく口にしていた言葉は
総理がこの役所を解体しようと思えば、こんな役所はすぐなくなるヨ
何度も耳にしたが、小生は、まったく現実感を感じることなく、上司のその言葉をただ聞き流していた。多少の不愉快な感情をもちながら、「役所は国家行政組織法(と設置法、いずれも当時のこと)で定められているじゃないですか」と反論した。

かと思うと、小生の1年後輩で同じセクションで仕事をしていた人物がいた。
この役所の仕事は、何か「実業」というより「虚業」という感じなんですヨネ
とよく言っていた。そう感じていたのだろうが、器が小さい小生はその感覚を共有できなかった。定期的に報告する作業結果が新聞の1面を賑わせることもあったのに、自分の仕事に自信すら持てないのかと、どこか軽侮する感覚をその後輩にもったものだった。

その頃の小生は、若く未熟で、日本国のことを「弊国」(ヘイコク)と自称する先輩の心意気をむしろ好ましくも感じていたのだ、な。

ま、そんな組織は日本の他の場所にはもう残存してはいなかったろう。

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小生の感覚が文字通りに「コペルニクス的転回」をしたのは、ある個性の強い議員が大臣になって、組織全体がその大臣に振り回されてしまったときである。

"Civil Servant"(=公僕)であったはずが、実は"Minister's Servant”(=大臣の使用人)であるに過ぎなかった現実が露呈したわけである。
君たちが実証的分析の結果だと称する結果も、その結果に基づく提案も、国民が認めなければ意味がないのだ。実行など不可能だ。それが民主主義なんだヨ。
このブログで何度か引用している言葉はこの時のことだ。

会社の役に立ちたいと願っていたのが、実は特定の▲▲長の個人的利益に奉仕するために仕事をしてきたと感じるときに、素朴な20代の志は雲散霧消するのかもしれない。それが成熟というものかもしれない。そこから本物の人生が始まるのかもしれない。

小生は未熟だった。

概念や理念は現実には存在せず、存在するのは具体的な人間と人間関係、それとカネとモノであるという剥き出しの真理を知らないまま生きてきていた。甘かったネエ、ホントに・・・。

そんな時に、大学のある先輩と再会して、研究者としての生き様を視るようになった。方向転換をしたいと思うようになったのは、それからである。

北海道のこの町に移住してきて何年かたった頃、国際関係論を専門にしている旧友に
イギリスに習って、中央省庁は、その時の政治課題にあうように勅令で自由に改廃統合できるようにするのがいいんじゃないか・・・あ、勅令は日本では無理だから、政令になるか・・・
などと、そんな風な話をするようになっていたから、人間の考え方というのは変わるものである。変わった分、「そんなこと、言わない方がいいよ」とか、「世間では通らないヨ」とカミさんから注意されるようになった。

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人は人を騙し、また利用し、利用して捨てる。が、学問は人を捨てない。人が学問を捨てるのである。そんなことを言う人が多い。

研究にもカネが要るのでそれほどこの世界も単純ではない。が、それでもなお、学問は人を裏切らないという事実は今でも、というか永年やってきた今だからこそ、間違ってはいなかったと断言できる。

この数日、「リラ冷え」だと言われるのに毎朝、鶯が近くに来て囀っている。ずいぶん上手になった。八重桜が満開でライラックもいまが盛りだ。肌寒いが海の色はもう暖かい。幸福以上の目的を追求すれば、幸福は得られないという単純な理屈が目の前にある。


2020年5月16日土曜日

民度が高いと自慢している間に損ばかりしてますぜ

現在のコロナ不況は、需要ショック、供給ショックの双方を評価する必要があるが、タイプとしては<市場機能不全症>であって、故に市場調整メカニズムをフルに活用することが問題解決への最大のキーポイントであると小生は観ている・・・という点は何度も投稿した。

たとえば、先日メモった株価見通しではこんなことを書いている。

今年のコロナ不況では、需要全体が消失したというより、必要な商品が売られていない一方で、売られている商品は買い手がつかない、需給調整不全症型のスランプが進んでいる。増産に手間取り所得が増えない業種がある一方で、販売不振で減産しているため所得が減る業種がある。なのでGDPがマイナスとなる。前にも書いたがこんな要約になる。故に、市場調整機能が作動するように政府が参入・資格・開業規制を緩和し、生産要素が円滑かつスピーディに移動するインセンティブを刺激できるなら、それが問題解決としては最も有効で副作用のない王道である。

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カミさんがいいものを見つけたというので、みてみると「Coolmask」という商品だった。マスクと熱中症予防とのバランスがいまテレビで話題になっているので、さすがに先を読むのが得意な日本企業だと感心した。

早速、ネット通販で購入したのだが、よくみると「韓国製」であった。

これでは、超過需要が発生して大きなビジネスチャンスが到来しているにもかかわらず、日本では雇用もビジネスも生まれない。韓国にカネが流れていくだけである。

これでは日本が食い物にされるだけではないか・・・と感じた次第

何もそれがいけないと言いたいわけではない。ただ、日本企業の環境即応力が弱く、韓国企業のビジネス感覚が一枚上手だと、いまのそんな力関係を改めて感じているだけだ。

レナウンが倒産する一方で、夏向けのマスク一つをとっても外国勢に需要を奪われてしまう。いつの時代も優勝劣敗が経済の現実であった。優れた側が生存競争で残る。電波を介した井戸端会議で「こんな風であって、いいんでしょうか?」、「こんな世の中は正しいんでしょうか?」などと、不平や愚痴を言っている間に、勝負には負けている。『こりゃあ、ダメだあ』と感じるのは小生だけではあるまい。

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ホテル、航空会社、高級アパレルが不振に喘ぐ一方で、衛生用品を増産したライオン、ユニ・チャームは空前の利益、スーパーが好調な一方で、デパートは極端な不振だ。一年前には予想もしなかった激しい生存競争が唐突に、予告もなく始まり、進行中である。新型コロナウイルスとの戦いも衛生上の戦争であるが、誰が破滅するか分からないという意味では、経済戦争もいまの現実である。

ナイトクラブやカラオケバーが1年前と同じ空間設計で営業を再開するとしても、利益の天井はずっと低くなっているだろう。先行きの目途はたたないだろう。資金繰りを手当てしたくとも、店舗拡張をしたくとも、金融機関はリスクが高いと感じ融資を簡単には引き受けないだろう。それより、コロナ後の環境に即応した新たな店舗デザインと運営スタイルを提案する店は、金融機関側の関心を刺激し、融資を真剣に検討するだろう。

この20年間、少子化という環境激変の中で大学サバイバル競争が進み、今では勝ち組と定員割れの負け組とに2極分化した。それでも国際化の流れの中で、世界の中では日本国内の大学全体が負け組になる心配がある。まだまだ環境への適応が足らないのだ。

環境の激変は、経営者の経営能力をテストする<ストレステスト>であって、能力の乏しい経営者はその市場から退出することを迫られる。資金が退出を促すように流れ始めるので、抵抗することは難しいのだ。また、政府も経済合理的な流れの変化をせき止めるようなことをしてはいけない。

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100年前のスペイン風邪大流行では4000万人(某TV局は1億人と桁数をあげていたが)の犠牲者が出たが、それでもなお近現代史における1920年代という時代は第一次大戦を終えた「戦後」であり、感染症の惨事ではなく慢性的な経済不安によって特徴づけられている10年間だった。ちょうど、日本の幕末という時代は、コレラの大流行で20万人から30万人の犠牲者が出たということより、開国をし徳川幕府が瓦解した時代として記憶されていることと相似の関係にある。こんなことも何かを示唆しているのだろうか。

ウイルス禍そのものも確かに大事件だが、それによって引き起こされる世の中の変化がもっと本質的に人々の暮らしを変える。人々は社会の大きな変化を記憶し、終息した疫病は忘却するのだろう。その大きな変化は事後的にはウイルスとは直接の関係はないことが多いものだ。もともと望ましい変化で人々もそう思っていたのだが、旧い慣習に抑えられて主流とはなれずにいた方向であることが多い。環境変化は、もともと脆弱化していた旧いシステムに対する最後の一撃となる。その意味では、ウイルスは新しい時代の産婆役(?)を担う ― まさに悪役が転じて正義の味方になるという話だ。極端にいえば、小生にはそんな風にも思われるのだ、な。

経済問題はモラルの問題ではないし、政治で解決しようとすると副作用が大きい。そんなこと位は歴史を通しても分かっているはずだ。

経済問題の解決に「民度」などは無関係だ。社会科学を活用するかどうかだけである。

大体、公衆の電波に乗せてモラルを振りかざすのは、社会をギスギスさせるだけで、合計として社会は良くなっているのか、悪くなっているのか、よく分からないと小生は思っている。


2020年5月14日木曜日

抜かずの宝剣?それとも無能?マイナンバーカードの怪

一人一律10万円の定額支給金。この二か月、巣籠り生活を続けている小生も遠慮するつもりはない。そして、いまという時代、オンライン申請が効率的だと思っていた。何年か前にマイナンバーカードを申請して面倒でもe-Taxにして良かったナアと思っていた。

ところが、昨日来、マイナンバーカードを使ったオンライン申請の向こう側では自治体の職員が申請内容と住民基本台帳とのデータ照合を手作業、というか二人一組で目視、読み合わせをしてやっているという呆れ果てるような実態がテレビで報道され、文字通り吃驚仰天してしまった。

ひょっとすると、郵便申請の方がオンラインより速いかもしれないと伝えられているから、正に<3然>、つまり唖然・呆然・慄然の三重奏となった。

そもそも「マイナンバーカード」それ自体が、住民基本台帳データをカード化した「住基カード」の発展形である。なので、世帯主がマイナンバーカードでオンライン申請すれば、小生のカミさんは何という名前で、マイナンバーは申請内容と一致するかしないか等々、一瞬のうちにスクリーニングされて、あとは申請内容から銀行振込口座を作業用ワークシートにコピペするだけ。これまた(どうせエクセルだろうから)VBAで自動化していれば瞬時に自治体の仕事は終わるはずだと。こう考えていた。

ところが、実態はそうでなかったわけだ。その理由は、マイナンバーカードと住民基本台帳データベースが連結使用できるケースとして、災害は想定されているが、今回の新型コロナ感染は「災害」には該当せず、だからオンライン申請しても住民基本台帳データベースにはアクセスできない。そういうことである。連結するためには、法律を改正しなければダメだ、と。政令や省令ならすぐ改正できるが、法改正となると国会でやらんといかん。「こりゃあ、あかん」というわけだ。

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「政治(家)主導」なんて所詮はこんな程度サ、などと斜に構えるだけでは何も解決しない。確かに、もし20世紀のボトムアップ式官僚行政に任せきっていれば、この位の作業は祖語なくできたろう。この点については確信する。そもそも官僚組織にとって一律的なプロセスは最も得意な分野である。ただ、普段からそれが出来る法制、権限、システムを作りあげて磨いておかなければならず、以前なら省庁間を総合調整するための官庁として行政管理庁、経済企画庁などが存在していた。要するに、一律定額支給といった事務は日本政府にとってはツボにはまる得意中の得意だった。たとえば「防災」もルーティン化すれば「日常」になるわけで、この辺が日本独自の<集団的匠の技>だと言えていたような気がするのだ。それが「政治(家)主導」になってからはネエ・・・と言っても今更はじまらない。

もし国税庁に申告している銀行口座番号にもアクセスできるなら、給付金をオンライン申請時に「国税庁データの参照を承認」欄にチェックを入れさえすれば、住民基本台帳とのデータ照合、国税庁データベースから振込口座を取得、この二つが瞬時に完了し、市町村の担当職員は出来上がったワークシートをただ開いたうえ、あとは振り込み手続きを実行するのみ。というか、市町村を経由する必要もなく、総務省から直接的に振り込みまで済ませることができる理屈である。

小生: 安倍首相がさ、『今回の新型コロナ感染を災害に準ずる事態と解釈し、災害対応として許可されている行政手続きを進めることといたしました』、ただこの点だけ閣議で決めて、記者会見でそういえば済む話しヨ。それが出来ないんだネエ。 
カミさん: だって法律で決めてるんでしょ。 
小生: 解釈を変えたって言えば、それで済むよ。今度のコロナ、災害みたいなものだからね。国民も「そりゃ、そうだ」って、反対はしないよ。ま、野党は「また、解釈変更か!」って騒ぐだろうけど、政府有利の展開だろうね。このまま放っておくと、「バカ殿」になるのは間違いないネ。
カミさん: バカ殿? アハハハ・・・気の毒だよ、一生懸命やってるのに。 

こんな話を今朝もしたわけだが、このままでいくと、『結局、安倍政権がやったことは集団的自衛権で解釈改憲、秘密保護法や共謀罪をつくって、あとはアメリカから武器を大盤振る舞いで買ったことだけ』、そんな総括になってしまうかもなあ、と。『学校のオンライン授業は、所詮は急な話しで、準備もまだまだ』、『マイナンバーカードは非常時に使うために設けた制度であるのに、今回の新型コロナでは準備不足で役立たず』。まあ、観光に力点をおき、TPPやEPAも締結できたが、どちらかと言えば地味なPCR検査体制の弱体ぶりには気づかず、新型インフルエンザ流行後も公衆衛生の司令塔を設立しないままであった。

【5月18日追記】巷の指摘では消費税率を2回も引き上げ財政再建に貢献した点が挙げられている。しかし、「安倍政権による消費税率引き上げ」は民主党政権時の野田内閣が自民党・公明党と3党合意した「社会保障と税の一体改革」の一環であって、いわば前政権から引き継いだ政策合意を実行したという役回りだ。それどころか、2017年4月の景気拡大期に訪れた絶好の機会に税率をあえて上げず、2019年10月という最悪のタイミングで10%に上げたことで、既に始まっていた景気後退をより悪化させている。これまた政策判断上の大きなミスであるのは否定できない。

今回のドタバタ政治喜劇は、世界の中で笑いものになるだろうが、真面目に「政治家と官僚の仕事の分担、線引き」を深く考える絶好のチャンスになれば、これも怪我の功名だ。

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マスクや防護服、消毒用アルコールなどなど、もう2,3か月も経ったのに必要な物は何もなしの「ナイナイ尽くし」に加えて、安倍政権の8年間、実は『あれもやってない、これもやってない』であったのか、と。長すぎたサボリのツケの請求が一気にやって来た感がある。

功罪相半ばするというより、罪の方が多かったかもねえ、10年も経てばこんな評価が定着してしまうかもしれない。

ところが、
日本は新型コロナでは「勝ち組」なんだよ。「超優等生なんだよ」。死者数も致死率も格段に低い。政治は結果が全てだ。もう少し政府も称賛されていいはずだよ。それが評判が悪いなんて、まったく理解できない。
こんな思考をする人もいるようだ。

日本の死者数の少なさ、致死率の低さは「日本の奇跡」と呼ぶ人も海外には多いらしく、その原因について様々な憶測をよんでいるらしい。カミさんは「そんな風に考える人が理解できない」と言っている。これが普通の人の感覚であろう。人は色々、である。

まあ、野球でいえば「先発ピッチャーが打たれて、投手交代が遅れるうちに大量失点したうえに、チャンスでは代打が凡退。こりゃあダメだあと思っていたところが、8回になって相手が出してきたクローザーが大乱調。奇跡的な逆転満塁ホームランで逆転勝ち」。試合後のヒーローインタビューには監督が出てきて、「今日は冷やひやしました、何とかなると思って、こらえたのが勝ちにつながりました」と。どんな展開であっても、結果がすべてだと言いつつ、自分の采配が良かったと宣える人もたまにはいるから、上のような思考には驚かないが、「変なおじさん」に分類されてしまうのは確実だろう。

2020年5月13日水曜日

一言メモ: 特定警戒地域と解除区域との間の人の移動を止められる?

政府による緊急事態宣言が一部解除される見通しだ。

ところが今度は、解除される34県と自粛が継続される東京都、北海道ほか「特定警戒都道府県」との間で予想される越境移動をどう規制するか。これが問題になっている。

まあ、当たり前の問題提起である。

解除される地域は「特定警戒都道府県との往来はこれまでどおり自粛するように念を押してくれ」と政府に要望しているようだが、お願いしても耳を傾けない人々は政府が何を言おうが罰則なき要請に従うはずがない。

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こんな問題が生じると、法律専門家は「やはり罰則規定が必要である」とか、「入県を拒否できる権限を知事に付与する」等々、すぐに法的権限の議論を始めたがる性向をもつ。

確かにルールを明らかにするのは行政の透明性を確保するうえで欠かせない。

しかし「これこれ、このように行動してほしい」ことがあるならば、命令よりもインセンティブを刺激するのが最も効果的である。命令に服さないこと自体に快感を感じる人物は一定数いるものだ。そんな人には自らそのように行動するように動機付けをすればよい。

移動を抑制したいなら、移動コストを上げればよいのだ。そのための手段なら様々ある。

例えば、

JR、私鉄の運賃体系をより一層、必要なら極端に距離累進的にする。たとえば東京ー鎌倉なら臨時的に片道運賃を現行の940円から約1.5倍の1500円に上げる。東京ー名古屋であれば、片道乗車券運賃を現行6380円から外出規制期間中は約3倍の2万円に引き上げる。一方で、各駅停車3区間なり5区間以内等であれば運賃を据え置く。そうすれば、不要不急の遠乗りは自らの意志で避ける。遠方から出かけてくる人の数は減るだろう ― 完全にシャットアウトするには入県を拒否する権限がいるがそんな事が必要だろうか。

ビジネス目的の人は定期を使うはずだ。定期がない場合でも商用なら大口契約を臨時に結べばよい。通勤や通学目的の定期代は据え置きにすればよい。バスも同じだ。高速料金も大型トラックを据え置く一方で、普通の乗用車は料金を距離累進的に引き上げればよい。路上の違法駐車取り締まりが必要な点は言うまでもないことだ。何なら駐車禁止区域を臨時的に拡大する、県内住民にのみ駐車票を発行してもよいだろう。

まあ、とにかく方法なら幾らでもある。

最初の非常事態宣言が4月7日に出された時、安倍首相は『交通は止めません、これまで通りです』と語っていたが、人の越境移動を制御することが求められている時に、移動コストを「これまでどおり」とするのは経済的ロジックに矛盾している。モラルに訴えるのは社会がギスギスするだけであり愚策である。

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価格に手をつけると、『カネでヒトの行動を縛る』と言って、政策の品性が低いなどと非難する人が多いが、自分で考えて決めるよりは権力から命令されるほうがいいと考えるなら、そちらの方が品格が低いというものだ。

どうやら政府の「新型コロナ諮問委員会」に経済専門家が入るということだ。

最初からエコノミストが入るべきで遅きに失した感があるが、人々の行動を望ましい方向に誘導する工夫が出てくることを期待してもよいだろう。

2020年5月9日土曜日

印象派的な株価見通し

株価を予測するとしても『おそらく横ばいでしょう』という以上のことを語ることは理論的に不可能である、というのは周知の「効率的市場仮説」からも明らかだ。

なので、数字が徐々に明らかになってくるはずの惨憺たる経済状況を踏まえて、今年の夏から秋冬にかけて株式市場をどのように展望しているのか?この問いかけには「まあ、分かりませんよ」という以外に答えはない。

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とはいえ、新型コロナウイルス禍で実体経済の損傷は大きい。エコノミストによっては1929年の世界大恐慌以来の惨事になるだろう、と。実際、昨日公表されたアメリカの失業率は14.7パーセントで、第二次大戦後で最悪の数字となった。ちなみに世界大恐慌時のアメリカでは1933年に25パーセント超の高さに達し、実質GDPは29年のピーク比で27パーセント程度まで低下した(例えば資料はこれ) — 失業率は実体経済に対して遅行性をもつ経済データである。NY株価は、1932年7月8日にダウ平均が41.2の底値をつけるまで1929年9月のピーク比で実に89パーセントの下落を演じた。

これを考えると確かに恐ろしい。

ただ、

1929年の大恐慌はカネの流れが破綻し、『何を作っても売れない』という需要消失型のパニックであった。

今年のコロナ不況では、需要全体が消失したというより、必要な商品が売られていない一方で、売られている商品は買い手がつかない、需給調整不全症型のスランプが進んでいる。増産に手間取り所得が増えない業種がある一方で、販売不振で減産しているため所得が減る業種がある。なのでGDPがマイナスとなる。前にも書いたがこんな要約になる。故に、市場調整機能が作動するように政府が参入・資格・開業規制を緩和し、生産要素が円滑かつスピーディに移動するインセンティブを刺激できるなら、それが問題解決としては最も有効で副作用のない王道である。

その意味では、今回のコロナ不況は1929年の大恐慌とは原因も病態も異なった「経済の病」である。

ということは、1929年の世界大恐慌と同じ処方で経済政策を立案しても効果はそれほど期待できない、まあ効果ゼロではないにしても、問題を本質的に解決できず、税金の無駄に終わる可能性が高い。こうも言えるだろう。

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こう考えると、今は公衆衛生・医療専門家の意見を聴いている政府が、今度は経済学者の意見に耳を傾けるようになると仮定すれば、実は現在の経済的危機は「突然の戦争状態」に放り込まれた国がどの程度のタイムラグで新たな環境に適応するか、その競争である、と。その認識にいつ至るのか。小生にはここがポイントであると思われるのだ、な。

戦争経済では必ず完全雇用が実現する。勝つためにはいくら生産しても間に合わないからだ。いつ新たな需給均衡に達するか、可能な限り速やかに新たな価格体系と産業配置に到達するとして、それはいつなのか?できるのか?問題はこの点に集約されている。

もちろん"Return to Normalcy"、新たな正常状態にどうやって軟着陸するか。これも解決するべき問題である。

コロナ前の正常状態からコロナ後の新・正常状態に一挙に移ろうとするのは無謀である。目の前の医療上の、公衆衛生上の問題を解決するための生産基盤を整えなければ、いつまでも危機の本質が解決できず、泥沼的状況が続くだろう。

つまり、長期戦略(戦略というのはそもそも長期的なものだが)が不可欠なのである。

3月上旬には下のようなことを書いた:
当面1か月、3か月、1年、ワクチン製造の目途がたつまでの2年程度までに分けて、<緩慢な感染拡大>と<死亡数の極小化>を担保するための戦略見通しがメディアを通して伝えられるだろう。
「長期戦略見通し」には、当然、経済戦略が不可欠なパーツになる。コロナ前→感染拡大と集団免疫獲得プロセス→コロナ後という3つのフェーズがある。「不況対策」とか、「救済措置」ばかりを論じるのは、実に近視眼的で、矮小化そのものだ。

実は、「安倍一強」と揶揄される現政権にそんな「長期戦略」がきちんと策定できるのか。十分なスタッフが質量ともにあるのか。甚だ不安である。


そこで今は以下のように今後の株価を展望している。印象派的にならざるをえないが。

この問題解決へ道筋ができるまでは日本の株式市場はV字型回復は無理で、せいぜいU字型、従来戦略の破綻で茫然自失しているかのような政府の姿勢によってはL字型の推移もありうると。今後の日本の株価動向は三択ではなく、二択で見るべきか、と。そんな印象だ。

2020年5月6日水曜日

一言メモ: トップ外交の時代に発生したウイルス禍という政治課題

新型コロナウイルスの武漢起源説ではないが、「安倍一強」という言葉の起源もどうやら政権の外側だろうと推察される。というのは、どの企業でもそうだが、主流派が自らを「▲▲一強」と自称するほどのノー天気ぶりは、ちょっと考えられないからだ。

その「安倍一強」という形容句が、発生源であったはずの外側からみて誉め言葉であったのか、貶し言葉であったのか、やっかみや妬みか、はたまた或いはからかったり冷やかしたりするための揶揄言葉であったのか、実は小生にはまったく分かっていない。

ただ、新コロナ型ウイルス蔓延という現況の中で、まさに今は定着した「安倍一強」という政治スタイルがそのまま負の側面となって首相の足を引っ張り始めている気配である。権力の盛衰史としては史上に頻出する、その意味では非常に分かりやすいパターンである。もともと日本では強力な法的権限を体現する官職ではないという剥き出しの事実が露呈しているとも言える。「一強」とは言っても、憲法や直接選挙で武装したハードな統治システムではなくて、あくまで人間関係に基づくソフトなリーダーシップであったのだ。なので、日本では「●●一強」が消失するときは破壊や闘争を伴うことなく一瞬にして消え去ることが多い。

小生が子供の頃から知っている総理大臣は、(といっても遠くから見聞きするだけのことであったが)、どの人物も現首相のような政治スタイルではなかった。「一強」でもなかった。

国内行政はトップセールスでは動かない分野だ。司令長官が直接命令できる海軍スタイルではなく、泥臭い陸軍スタイルの実務が要求される。伝染病対策においても、総力戦を遂行するには、それが出来るシステム構築から始めて資源を動員し汗をかかなければパワーが不足し結果を出せない。

相撲のスタイルにも「四つ相撲」、「押し相撲」の別があるように、トップの政治スタイルにも取り組むべき政治課題との相性があるのかもしれない。

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史上空前の「イザナギ景気」を演出した佐藤栄作元首相は超長期政権を築いたが、1972年6月に退陣を表明する前の政権末期は、津波のような大混乱に襲われていた。前年71年8月の「ニクソンショック」。国際通貨システムの調整で1ドル=360円時代は終わり円ドルレートの大幅切り上げをのまざるを得なかった。高度成長は終焉を迎え、国内経済は不況入りした。翌年72年2月には日本の頭越しに「米中国交回復」が現実となり仰天した。国内経済は円高不況に沈み、72年5月に沖縄が米国施政下から本土に復帰し「沖縄県」となる中、世相は"anybody but Sato"、「佐藤以外なら誰でもいい」という雰囲気に変わっていった。

何事にも始まりと終わりがあるのは仕方がない。

一寸先は闇である。株式投資では買うよりは売る方が難しい。仕事は始めるよりは止める方が難しい。

2020年5月5日火曜日

断想: 医療専門家が「新しい生活様式」を提案することについて

新コロナ型ウイルスの感染防止のため緊急事態宣言が5月末まで延長されることになったが、同時に専門家会議から「新しい生活様式」の提案もあった。

この「新しい国民生活提案」に対して、経済学者、政治学者、法律専門家等々、主に社会科学系の専門家から批判が噴出(?)、というか評判がとにかく悪いようだ。テレビのワイドショーMCにも受けが悪い。一言でいえば『余計なお世話!』ということだ。

気持ちは分かるが、医者が患者の生活習慣のあり方まで立ち入って細かな助言や指示をすることは日常茶飯事である。「社会の医師」をもって自ら任じている公衆衛生専門家が「新しい生活のあり方」を指示するとしても、何も出過ぎたことを提案しているという意識はないだろう。

詰まるところ、ウイルス蔓延で市場メカニズムの変調が目立つ中、実効性のある経済政策を何ら提案、立案できずにいる経済専門家、その他の社会科学者は、ただただ悔しいのだろう、と。妬みとまでは言いたくないが、小生にはどうもそう思われるのだ、な。

そもそもエコノミストの出番であるべきなのだが、「問題解決能力」がないのか、「本気」になっていないのか、解決案をさっぱり出せないところに、医学部保健学畑で学んだ公衆衛生専門家が「社会医学」の観点から「国民生活のあり方」をドンドン提案し始めているわけだ。少壮世代に属する経済学部出身のエコノミストには必ず焦りがある。

『伝染病の蔓延は、自然災害もそうですが、経済学でいう外生変数でありまして、その発生メカニズムについては経済学は関知しないのでございます。ただ外生的要因の変化がいかなる経済的影響をもたらすか。それは正に経済問題でありまして、定量的評価を行うことは可能でございます』。マア、そんな言い方になるだろうが、その定量的評価も公的レベル、学会レベル、専門家個人レベルいずれにおいても、信頼できる数字は何も公表されていない ― 少なくとも小生は寡聞にして知らない。

メディアが迫るでもなく、誰がどんなことに取り組んでいるのかも含め、何も分からない。せいぜいが実質GDP成長率に対する下押し圧力の概算くらいで、これならIMFなどの国際機関、日本国内のシンクタンクが公表しているようである。が、現在のように不足している物資と売れない商品が混在している需給状況ではGDP全体への影響を試算してみても計算自体が怪しいものだ。適切な経済政策の立案に役に立つかどうか疑問である。「不況」と言っても需要ショックだけではなく、供給ショックも同時に起きているのだ。

現在の状況が、社会の危機であると同時に、経済学など一部社会科学系分野の専門家にとっても危機であることは、間違いない。隣の畑で仕事をしている人の提案を非難するのではなく、自分の畑で仕事をして自分の提案をするしか信頼を得る途はない、というのが基本的な理屈で実に単純な話である。

★ ★ ★

ずっと昔、明治時代にはコレラの大流行が2回発生した。西南戦争が起きた明治10年(1877年)から12年(1879年)にかけての時期、及び明治19年(1886年)前後で、それぞれ10万人超の死者が出ている。致死率は60%を超えていた。この間、1884年にはコレラ菌が病原であることをドイツ人、ローベルト・コッホが発見している。

現在の新型コロナ・ウイルス禍に比べればゼロの数が幾つ違うか数えなければならない程だが、それでも日本近現代史の中でコレラ大流行のことは幕末ならトピックに入るが、明治以降も大問題であった事はあまり知られていない。

というのは、病原が判明したからという点もあるが、もっと大きな問題があったからで、それは日本人の国民病と言われた「脚気」への対処で論争が起こったからだ。

Wikipediaには以下の解説がある:
陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人 (4.6%)、戦傷153,623人 (15.4%)、戦地入院251,185人 (25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異なる[50])。戦地入院のうち、脚気が110,751人 (44.1%) を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)を併せると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した・・・
海軍では「食事改革」が実行されていたため脚気患者が戦争中ほとんど発生しなかったことは周知の事だが、その食事改革の端緒については以下の記述がある(出所は上と同じ):
ビタミンの先覚的な業績を上げたのが、大日本帝国海軍軍医の高木兼寛であった[14]臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。
英米流の帰納的推論、つまり統計的発想がここにはある。そういえば、統計学を勉強した人であれば「職業としての看護」を確立したフロレンス・ナイチンゲールを誰でも知っているはずだ。野戦病院の死因別死者数を放射状多角形グラフにして「データの視える化」を始めたのはナイチンゲールである。

ローベルト・コッホに学んだドイツ帰りの鴎外・森林太郎が、脚気病原菌説を採り、生活習慣病であるとする海軍側と鋭く対立し、結果として日露戦争中の災禍を招いてしまった責任を、鴎外はずっと感じ続けたようである。

病気の蔓延が社会システムの機能に対する大きなリスクである以上、感染防止の観点から公衆衛生・医療専門家が「社会のあり方」、「生活のあり方」、「食生活のあり方」、「働き方のあり方」等々について、提案をし、改革を進めようとするのは、当たり前のことである。

あらゆる科学分野は社会問題の解決という土俵の中で競争関係にある。競争に敗れた学問分野は信頼性を失うだけのことである。

★ ★ ★

こんな社会的雰囲気であるので、世間の中で「コロナ鬱」が高じるのは仕方がないことかもしれない。

昨日は、室内のマグネットサイクルで自転車こぎをしながら、ベートーベンの交響曲2番を聴いた。

本当に久しぶりで、本ブログにもメモしたように、昨年10月頃からYoutubeやAmazon Prime Musicでモーツアルトのあらゆる作品を聴きまくっていたのである。往年のLPは高価な買い物だったが、今は実質無料である。ほぼ全作品をネットを通して聴いて鑑賞できるのだから進歩した世の中になったものだ。

そんな風だったから、モーツアルト以外の作品を聴くことはほぼ全くなかったのだが、昨日はさすがにベートーベンを聴いてみようという気になった。第2番は偶数番号の交響曲ではお気に入りで、4番、8番よりずっと好きである。6番『田園』の方が傑作であるとは思うが、2番は大傑作である第3番『エロイカ』の序幕のような曲想も感じ取られ、何よりも若さがあるのだ。

このところ、モーツアルトでずっと聴いてきたのは同じピアノ協奏曲でも20番や27番ではなく、どちらかといえば無名な13番、14番、17番である。若いころには知らなかったヴァイオリン協奏曲の第3番、第4番も大のお気に入りになった。学生の頃には毎日のように聞いていたピアノソナタの代わりに「ヴァイオリンソナタ」(=ピアノとヴァイオリンのためのソナタ)を愛聴するようになり、中でも35番ト長調は小生にとってなくてはならない曲になった。どのモーツアルトにも言えるのだが、聴いていると単に音を素材にした純粋芸術作品というより、血の通っている生命を感じる。自在に瞬転する転調と曲調の揺らめく様は、何かアクロバット飛行に同乗しているようでもあり、空を飛翔する自由な命を耳で聴いている感覚にはまってしまうのだ。そこには人間がいるのだ、な。決して「神の作品」ではない。「人間の音楽」だ。そう思ってしまう。

そこがとても好きだ。

ベートーベンを聴きたくなったのは、亡くなった母が好きだったからである。

聴いていて感じるのはやはり血の通った存在感である。単なる音を素材とする工芸品ではない。ベートーベンその人の生命がそこにはある。ただ、どういえばいいのか、ベートーベンの交響曲から感じられるのは自由に飛翔する感覚ではなくて、前に前にと進む感覚というか、命が生まれて伸びゆく感覚というか、とにかく違うのだ、な。だとすれば、ベートーベンが生きた時代の社会精神があったとして、その社会精神に浸されながらベートーベンは仕事をしたと言えるのかもしれない。

どちらにしても、芸術家もまた「時代が育てた人間」である。

「コロナ鬱」で萎れて駄目になってしまう人間もいれば、強烈な動機を得て成長する人間もいるだろう。萎れる人を救済することも大事だろうが、動機付けられ成長する人間を支援することの方がもっと大事であるだろう。