ヒトには誰でも「ウソをつく自由」がある。なるほどそれも表現の自由の一種かと問われれば、そんな自由も否定はできないと思う。というより、現に人は何度もウソをつきながら生きているのが現実だ。
フランスでは先ごろ人は誰でも「人を侮辱する自由」があると言い出した。となると、「名誉棄損罪」は撤廃されずばなるまい。
しかし、
例えば『菅・新内閣は米中対立の板挟みになり短命に終わる』と・・・こんな種類のヘッダーがいまネットには多数あふれていたりする。
何でも表現したいことを自由に書いて公表すればよいわけだ。しかし、ズバリ一言で言えば、この種の書き込みは書き手にとっては真面目かもしれないが、情報としては《ノンフィクション》と《フィクション》の境い目で、言葉の表現ではあるが情報としてはウソに近いとも感じるのだ、な。もちろん人によりけりだが。
もちろん「ウソ」であっても「フィクション」であっても「侮辱」であっても表現の自由を認めるなら構わないのである。「モノ書き」はすべて「創作」だ。書くのは自由だとすれば、ウソを書いても、真実を書いても、どちらでもよいのだ。
要するに、どう書くかがポイントで、結局は「マナー」の話しになるのかもしれない。
当たり前だが本ブログも例外ではない。書いている小生本人からして、「最初に書きたかった事とはずれて来たなあ」と、書いている途中からオノレの文章力の拙さにあきれる思いをするのが日常だ。やはり、どう書くかという「マナー」だけが重要なのかもしれない。
***
「マナー」と書いたが、「マナー」と書いてそれですまない話かもしれない。
例えば『AはBである』といまここで書くとして、ある人は『AとBとは違うのにAはBであるという意味合いはなんだ?』と頭をひねるだろう。別の人は『Aは何を表し、Bは何を表すのか?AとBに当てはまる例は無数にある』と穴埋めクイズだと受け取って楽々と答えを出すだろう。かと思うと、『こんな駄文の意味は何もなし、考えるだけバカバカしい』と無視するだろう。短い一文ですらこうなる。読むのに5分もかかる文章であれば、読む人ごとに別々の解釈をする。つまり書くにしろ、話すにしろ、受け手がどう理解するかは、理解したい人が理解したいように理解するのである。必ずそうなる。
つまり、本当は真剣な議論や会話はとても難しいはずで、書き方にしろ、読み方にしろ、誤解を招くことなく、誤解することなく、書いたり、読んだりできる人は、極めて少ないのが現実である。
ウソやフィクションと言っても、「そうは言っていない」、「そう話してはいない」という意味で読み手、聞き手にとってはウソであった。作り話であった。そういう関係性である。
***
ここまで書いたところで一つの到達点に来た感じもする。今日の投稿はここで終わっても良い切れ目だ。それでもSNS時代の「言葉の過剰」に最近感じていることはあるので、それをメモしておきたい。
一般に「予測」を書くなら、全ての可能性をリストアップし、それぞれの可能性の確率を主観的確率でもマアよいのでそれを書き、『可能性としては〇〇になる確率が最も高いと思われるが、▲▲あるいは◇◇という結果も無視できない可能性をもっている』と、こんな文章表現をとらなければならない理屈だ。『〇〇になる可能性がある』と書いておきながら、「多分〇〇になるだろうと、君はそう予想しているわけだネ」という確認に対して、『いえ、そうは書いてません、可能性があると言ってます』と、もしこんな応答をするならその学生のレポートは《不可》になる。
新内閣はすぐにツブレルと予測してもよいが、その可能性があるということと、確実にそうなるという予想では意味が違う。どちらでもよいが、政界の一寸先が闇であることは株価予測が原理的に不可能であるのと似ているところがある。ま、簡単に言えば、『何があるか分かりませんぜ』と言っておけばよいわけだ。それを将来予測であるかのように大仰に書いているところから、これもフィクションだと分かる。
無数に公開されているそんな発言の大半が、上のような意味で「ウソあるいは欺瞞」であるとしても、表現の自由が尊重されるべき価値であるなら、多数の発言が「視える化」されている状態こそ社会的には望ましい。建前ではそうなるわけだ。が、小生はかなりの偏屈者であるので大いに疑問を感じる次第。
***
絶対的に望ましい価値は、例えば戦前期・旧制高校で流行した表現を使えば《真・善・美》。要するに、社会を豊かにするのは時代や国を越えて普遍的に共感されるこれらの価値であって、表現の自由そのものではない。もっと本質的には幸福に結びつかなければならない。表現の自由が尊重されるべき理由は、それ自体の価値ではなく、表現の自由を保障することによって社会が「真実の否定、善意の抑圧、美の破壊」へと進む最悪の事態を避け、進歩へ向かう可能性を高めると、そう信じられているからである。
が、「信じられている」ことと、メリット・デメリットがどう検証されるかはまた別の問題だ。
言葉をビジネスツールにしている業界は「表現の自由」を連呼しているが、それは一般ビジネス界が「営業の自由」を主張するのと同じである。井戸端会議に精をだす奥さん達にすら100パーセントの「表現の自由」はないのが現実だ。どれほど営業の自由を主張しても、例えば金融業や学校経営、病院経営等々に営業の自由はない。すべて「自由」はそれ自体としてではなく、もたらす結果によって正当化されている。功利主義から判断されている。
その意味では「表現の自由」はより高い目的を達成するための方法である。有効だと信じてきた方法であっても、拙い使われ方が目立ち、望ましい結果とは遠ざかっているという判断がなされれば、方法の有効性そのものを再評価するのは当然の成り行きだろう。
菅・新内閣と同じく、日本社会もその他外国の社会も、将来の事はすべて原理的に「一寸先は闇」である。何が起こってもおかしくはないという浮世の原理は、現に2020年が五輪の年ではなく、新型コロナ禍の年になっているという眼前の事実からも立証されることである。