カミさんによれば、この1年間、日本政府がコロナと戦う中で失敗したことが三つある、という。
- いまでも検査を無料で受けることができない。毎日、受けたいときに受けることができない。
- いまでも発熱した時に、病院でみてもらうことが出来るのか、分からない。風邪を気軽に(?)ひくこともできない。みんなコロナの検査を受けていないので、病院に行くのも心配だ。
- いまでもワクチンがいつ受けられるのか、ハッキリしない。ワクチン接種の案内もこない。
確かに、このように箇条書きにすると、どれも致命的なエラーだ。ある人は、『これは一定の戦略的(?)方針の下でやっていることで、これこそ感染症対策の日本モデルなんだよ』と語る人もいたりしたが、この1年、やること為すことが狙い通りに運んでいないことは、余りにも歴然としている。
小生: だけどサ、2と3は分科会の専門家の責任じゃないよな。医療体制は、政治家じゃないと、再編成できないことだし、ワクチンだって日本医師会が手配することじゃないよ。
カミさん: 責任とか、そういうのじゃないよ。出来てないってこと。
小生: まあネエ、菅首相は7月末には全国の高齢者のワクチン接種を終えると言ってるけど、TVに出ている大学病院の先生は「絶対、ムリ!」って断言しているからナア。
確かに、政治と言うのは《結果責任》である。
まあ、成程、集計された感染者数は欧米に比べて少ない。しかし、その感染者数が少ないという点とは別に、何か目標を期待通りに達成した政府のオペレーションはあるだろうか? どれもこれも悪戦苦闘だと思うが違うのだろうか。「自粛」を要請して「自粛」の成果が得られたのは、政府のアクションではないという理屈だ。日本国民の不満は、決して「強権」や「独裁」に対する不満ではない。こと感染症に関して、その「無能」がひどい。それが不満だ、小生にはそう感じられる。
不満の6割は「無能」な政府と省庁・自治体に、3割は「仕事をしない」国会に、1割は「人畜無害の」野党に。「上層部」の中の責任分担となれば、マア、こんな感覚だろうか。
トノ: ワクチンの方は大丈夫か?
家老: ご安心くだされませ。滞りなく準備を進めておりますほどに。
トノ: 頼んだぞ、ワクチンこそ頼みじゃからな。7月末には何とかなるであろうかの?
家老: みな粉骨砕身、全身全霊をこめて没頭しております。ご心配には及びませぬ。
トノ: 諸外国には思わぬ遅れをとった・・・無念じゃ。一度、前線に出向こうかのう・・・
家老: 殿は泰然とされてこそ殿、万事、それがしどもにお任せ下されませ。メディアには、心配はないとお伝えになって、国民を安心させて下されませ。
トノ: そうか、あいわかった、頼むぞ。
家老: ハハア
亡くなった野村監督の言であるが『勝ちには不思議の勝ちがあるが、負けに不思議の負けはない』。同じように、失敗には失敗の理由がある。
テレ東の「ワールド・ビジネス・サテライト」で言っていたが、有事の際の医療体制のあり方について、来年度から検討を始め、(早ければ)再来年度からでも実施に移したいという「意向」を政府関係者は話しているそうだ。
外国はワルツか、コサック踊りのリズムで旋回している横で、日本は能舞台で悠然と舞っている。そんな風情がする。
コメンテーター氏が『やるなら今でしょ!』と喝を入れていた。(万が一にも!)負けないように、24時間、実行中のオペレーションの成果を検証し続け、(必ず!)勝つための方法を見出すことが担当者の為すべき仕事である。この肝心要な職業意識が、現時点の公的機関では衰退してしまっているのだろうか? 随分前に離れたので、もう想像ができない。これもジェネレーション・ギャップであろう。
もし本社企画部に『いまやっている戦略が失敗だとキチンと確認されてから失敗の原因を分析するのが筋じゃないですか?』などと言うオトボケが紛れ込んでいれば、そんな人物は直ちに最前線の営業現場に移ってもらえば良いトレーニングになる。というより、失敗すれば自分たちは終わる、自分たちで検証するつもりかという覚悟の話しになるわけだ。今回のコロナ禍で一体いくつの笑い話がアフター・コロナになってから生まれるのだろうか? 一寸期待している。
今年の1月までの成り行きをみていて、こんな予測をしていた:
しかし、敢えて予想しておきたい。日本政府はワクチン接種体制造りでも、どこかでエラー、凡ミス、目詰まりを連発するような気がしている。
感染対策で数々の凡ミスを繰り返してきた政府が、ワクチン接種だけは迅速に、ミスを犯すことなく、間違いなく推進できるとは、どうにも思われないのだ。もし嬉しい誤算になればこれほど幸せなことはない。
予測では《政変》もありうると書いていたが、もう5月。4月は何事もなく過ぎた。日本政府は、今日も「もうしばらく自粛を頑張ってください。そして、ワクチン接種までもうしばらく待ってください」と話している。そして、憲法記念日の今日、改憲の際には、パンデミックなどに備えて「緊急事態」を明記する必要があるのではないかと話している。いま、そのパンデミックなのに・・・
どうやら憲法が悪いから、感染症対策も出来ないと言いたいようだ。
しかしながら、日本政府は(その原因はよく分からないのだが)たとえ緊急事態条項が憲法に明記され、国民の私権を意のままに制限できるようになったとしても、想定外の事態においては、周章狼狽し、確たる方針を示せず、ヤッパリ的外れの命令を連発するであろう。これは1930年代から敗戦までの歴史が立証している事である。これが「下ではなく上が弱いという日本的弱点」ということなのだろうか。
どこかの、誰かに権限を集中することを常に拒絶する日本社会の特性がその根本原因(の一つ)であるのは間違いないが、なぜそれほど権限集中を嫌がるのか、単に戦後日本だけではない、戦前期の日本においても、東条英機内閣が太平洋戦争を始めた非常時において、なお日本の統治構造は権限を分散させていた。江戸幕府の権限分散もまた甚だしいものがあった。その以前の時代も推して知るべし。どんな時代状況にあっても、決して権限を誰かに集中させないというのは、統治システムの欠陥というより、むしろ日本人が主体的に選んでいる、その損失を覚悟してまでも何かを担保している。そうとしか理解できないと思うのだが、では日本人はなぜ権限の集中をそこまで嫌悪するのか、その理由が小生には分からない。
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