2021年5月17日月曜日

マスメディアが日本語文化の破壊者なのか?

今日もまた日本国内のマスメディア批判ということで・・・


毎年夏が近づいてくると、何だか永井荷風の『濹東綺譚』を読みたくなって、もう何度も読み返したことは、前にも投稿したことがある。

その時節にはまだ早い。そこで、若い時に急に忙しくなって最後まで読み切れなかった三島由紀夫の『豊穣の海』を改めて読んでみた。これも先日投稿したことだ。

それにしても、感じるのは日本語の美しい言葉を、まるで汚い泥の中に投げ捨てるかのように、野卑な言葉づかいを繰り返している最近のマスメディアのことである。

たとえば、第1巻の『春の雪』は、映画化もされているように、誰が読んでも見事な物語構成が、絢爛とした文章でイメージ化されていて、その美しさにまず感嘆する。まだ序盤のところだが、第21章に次のような下りがある。

幼少時に綾倉家で過ごし京風、というか王朝文化の雰囲気に馴染んで成長してしまった主人公・松枝清顕に元薩摩武士の家系である松枝家の両親が困惑している個所である:

 両親にとって清顕は結局謎のような存在で、自分たちの感情の動きとはあまり隔たるその感情の跡を、追おうとしては道に迷う毎に、もう追おうとすることすら諦めてしまった。

・・・

侯爵夫妻の心の衣裳は、たとえさまざまな思惑があっても、南国風の鮮やかな、単彩であるのに、清顕の心は、昔の女房の かさね の色目のように、朽葉色は くれな いに、紅いは篠の青に融け入って、どれがどれとも見定めがつかず、それをことさら忖度しようとするだけで侯爵は疲れた。

ここにあるように、《忖度》という言葉は、所詮は心情を丸ごと共有することなど不可能な人間どうしが、それでも親しい人の微妙な心理の綾を推し量ろうとする優しい配慮のことである。

しかし、この何年かに汚い語感を付与されてしまった「忖度」という言葉を目にする若い世代の読者は、もはや上の文章を美しいとは感じられないのではないだろうか。

もしそうなら、日本のマスコミ各社が犯した罪の一つに数えていいだろう。

付け焼刃の勉強で自信をつけた無知文盲の徒と同じで、 阿諛 あゆ というべきときに、 忖度 そんたく という言葉を使っている。

コミットメントを伴わない「メッセージ」は本来のメッセージではない。違反者が得をするというアンフェアに目を向けなければ権限のある公職者は「要請」をするべきではない。このように、厳密な学問用語としても使われている「メッセージ」も汚れた語感を付与され、本来はニュートラルな行政上の言葉であったのに「要請」もまた無責任な逃げ口上というニュアンスを与えられた。

これらは、日本国内のマスメディア各社が国民共有の財産である《日本語》に対して犯した大罪の一つである。 小生はそう思っている ― マスコミ各社は政府が実行犯だと述べたてるだろう。が、日本語の正しい使い方に目を向けるのも言論界の仕事ではないか。ま、「言論界」という自覚があればの話ではある。

もし言葉に霊魂が宿るなら

汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

以前は美しかった日本語はそう言って悲しんでいるに違いない。 

よりにもよって

言葉がもっとも大事なのです

と、何かといえば強調しているメディアだが、やっていることは正反対のことだ。


いま小生が心配していることは《経済》という言葉だ。元は「経国済民」という洗練された統治理念を表現する言葉であったのが、コロナ禍一年の集団ヒステリーの中で、人の命よりカネが大事というゲスなイメージが付けられてしまったのではないかと(大いに)心配している。一体、TVのワイドショーで何度『また経済なんてことをいってる・・・人の命を何だと思っているんでしょう』という意見を聞いただろう・・・「経済学」を勉強するのは肩身が狭い、「経済政策」というと人命軽視、こんな語感が形成されてしまったとすれば、

もう日本は終わりだネエ

そう感じます。



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