アングロサクソン、典型的には英米の伝統的な道徳思想・社会哲学は何かを議論するなら、何をおいても「功利主義」を外すわけにはいかない。
ちょうど、ドイツ人の多くが共有する倫理観・社会観を話すとき、「無条件の絶対善である普遍的命令」を基礎とする「カント哲学」を無視できないのと同じである。フランス流の「国家理性」もそうである。
この功利主義だが、ベンサムが言った『最大多数の最大幸福』は高校生でも思い起こすに違いない。
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最大多数の最大幸福というのは、意志ではなく、結果であって、それも事前にありうる結果の中の一つなのであるから、まずは結果がどうであるかを重視するという功利主義の特徴がベンサムの言葉から窺い知れるわけである。
ただ、(小生の勝手な理解の仕方だが)これだけで終わるとやはり本質を逃がしてしまう気がしているのだ。
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最大多数の最大幸福という言葉の裏側には、多数の個人の一人一人の幸福がまず先にあると、そう前提されているわけで、その個々人の幸福の総量が出来るだけ多数の人に、極大化された状態で、実現されたときに、全体としては最善の状態に達する。こういう意味になる。
ここで「社会」という全体は、概念としては考えられるかもしれないが、そんなものはなくてもよいのである。
つまり、「功利主義」においては、個々人を超えた、なにか「社会」とか「全体」、あるいは「組織」なり、「システム」という実体が実存していて、社会的な最適性を評価する際には、社会が社会の観点にたって判断する、そういうわけではない。「政府」とは・・・町内会の理事会のようなものだ、と。そんな社会観が見えて来る。
善悪を評価するベースとしての「社会」というものは存在しない。最高善として《幸福》をおく — この点は古代ギリシア以来の哲学的伝統にしたがうものだが ―、その限りにおいて、具体的に存在するのは生きている個々の人間であって、生きている人間のみが「幸福」を享受しうるのであるから、全体が最適であるかどうかは個々の人間がどんな状態であるかという点だけに基づいて、評価するしか方法がない。合計概念か平均概念か、要するに統計的な概念を流用して全体最適性を評価するしかない。
この点に「功利主義」の本質があるのだと小生はずっと考えている。
これが極端になると、手段や方法自体には善も悪もなく、あくまで実現する結果がどうであるかが問題であるという、こんな議論にもなっていくわけである。結局、英米流だろうと、大陸合理論的であろうと、極端までいけば、「自分の考えを強行して失敗する」という可能性が等しくあり、どちらが優れた主義であるかについては、「まあ一長一短だよね」という辺りに落ち着く。
とはいえ、サッチャー元首相の
... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing!
彼らは自分たちの問題を「社会」に投げかけます。 では「社会」とは誰ですか?そんなものはいないのです。
「社会」という存在そのものを「そんなものはない!」と断言する元首相の理念には、おそらく日本人の大半は吃驚仰天したわけだ。しかし、これが「功利主義」の最も底深いところで、その本質を最も率直に語っていると思う。
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日本ではよく「社会に役立つ人になりたい」と話す。しかし、思うのだが「何が社会にとって役立つか?」という問いかけを発する時から、誰かが何かをしようとするときに「それは社会の役に立たない」という否定が生まれ、「あなたは社会には無用の人だ」という中傷にもなっていく。そうして、その社会は、多かれ少なかれ、抑圧的になり、同調圧力が生まれ、民主主義ではあるかもしれないが社会主義へと傾斜していくのである。
生きている人間を超えた存在としての「社会」を思い浮かべる国は、大なり小なり、《公私の公》をうるさくいう社会をつくり、自由を我儘だと見なす傾向を(どうしても)もってしまう。それは、そういうロジックを無意識に採っているからである。
自分たちが無意識にもっている社会観をありのままの姿で一度は暴露して、相対化し、まったく異質の思想と激論を展開することは、真に社会を近代化するうえで大切な事だと思う。
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