2021年5月27日木曜日

インテリジェンスはデータからは得られない

 先日の投稿でこんなことを書いている:

ところが、日本の報道機関はこれを調べず、イギリスの通信社が調べて、本当の問題の所在を5月7日にまず英語で報道し、それを日本の新聞社の一部が日本語に訳して報道し、いま民間TV局が「ワクチンの打ち手不足」を話題にして、日本国内で盛り上がっている。

これを『日本にはインテリジェンスがない』と言う。やはり通弊は、国民性なのか、変わらないようだ。

日本社会、日本企業、日本政府が苦手としているのはインテリジェンスだ、と。 随分昔から耳にしている指摘だ。

そのウィークポイントを克服するのが「データ」であると。これまた、最近になって、色々な所で聴く言葉だ。

何か、データ収集力に弱みがあるという反省でもあるのだろうか?

***

小生は、これは違うのではないか、と思う。

データが手元に十分ある時、十分以上にある時ですら、データを素直に分析すれば、すぐに確認できることをも(手を抜いてか、無駄な手数はかけないという合理的発想からかは知らないが)確認せず、気がつかないままに放置してしまう。こんな傾向は小生がまだ現役で、雑用係だった頃から、身の回りに濃厚にあったような気がする。

データはあるのだと思う。しかし、データが教えてくれていることを軽視する。

情報の問題ではない ― 情報の問題であることもあるだろうが。情報について考える問題だと思う。つまり、頭の問題である。

不十分なのはデータ自体ではない。何を調べるかという頭の働きが足らないのだ。カネと労働を投入すればデータや情報は集まる。しかし、それはインテリジェンスではない。インテリジェンスの本質は、汗と労力ではなく、脳みそなのだと思う。

***

データを集めて細部まで念入りに凝った資料は作成する。しかし、時間をかけて丁寧にそろえたはずの資料が、《その時の役》には立つが、《結局は役に立たない》ことが多いのだ。

いまあるデータで結論を出す。結論には情報が欠けている前提が混じる。そこで次に何を調べるかが決まる。そんな一連の戦略的データ分析が、作動していない。作動はしているかもしれないが、フルに動作せず、邪念が入る。

そんな感覚がずっとあった。

理論といえば立派だが、結論や判断が最初から決まっている。データはそれに奉仕する。極端なケースでは、そんな状況すらあったりする。

***

データ解析で飯を食ってきたわが身としては、分析技法の進歩ばかりに気を使い、何について知りたいのかという探究の精神に欠けていた。それは知っているという安心感にどれほど安住してきたか・・・実に、後悔先ニ立タズ、である。

ただデータ解析が面白かった。小生にとって統計分析とは遊びに似たものであった。大いに楽しんだ一方で、何かを得たことは少なかったのは当たり前である。

う~む、これはボヤキとも、反省とも分からぬことを書いてしまった。なぜだろう。やっぱりヤキが回っちまったか。

今日はこの辺で。

0 件のコメント: