2021年5月22日土曜日

計画も、構想も、空想も、妄想も語れない老齢社会になったか

ずいぶん昔の事になったが、日本が「経済大国」になった証しであるかのように"Japan as Number One"と呼ばれるようになったのは、エズラ=ヴォーゲル氏が同名の著書を出版した1979年のことである。

1980年代の半ばには「海図なき航海」の時代であると言われるようになった。「言われる」というか、政府指導層の意識としてそんな風な変化が起こってきたということだろう。その当時に出版された新刊書籍の多くに、この「海図なき航海」というキーワードが使われていたのをAmazonで確認すると、今となっては懐かしさ(といささかの悔い?)を覚えてしまう。

しかし、「海図なき航海」と言っていた時代は、まだ航海をしているという意識が残っていたからマシであった。1992年には宮沢内閣の下で『生活大国5か年計画』が策定されている。つまり、キチンとした《目標》なり《展望》があったわけだ。

その後、バブルが崩壊する中で、先行きの見えない時代が続いたが、村山内閣、小渕内閣でも作り直された新計画を決定している。最後の総合計画は小渕内閣による『経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針』であった。計画期間は1999年から2010年であったから、「計画」としては意味がなかったのだが・・・

というのは、2001年には中央省庁が大きく再編成され、それに伴って、日本国から「計画」や「展望」という政策用語は駆逐されてしまった感があるからだ。一言でいえば「もう要らない」というわけだ。自信満々であったのだろう。あるいは橋本行革で決まっていたことだから仕方がなかっただけかもしれない。

ところが、現実には「計画などは要らない」と舵を切った後で、金融機関の不良債権、産業再生が待ったなしの状態となり、それが終わると世界規模のリーマン危機に襲われた。その3年後には東日本大震災とエネルギー危機が発生した。そして今はコロナ・パンデミックに苦しめられ、実質GDPの落ち込みはリーマン危機時を上回る規模になった。そんな中、菅首相は「2050年カーボン・ニュートラル」を世界に向かって宣言した。

足元の現実はといえば、コロナ禍の緊急事態宣言が続く中で、これまでの検査体制の不備、医療体制の不備、ワクチン開発・接種体制の遅れが顕在化しており、政府の行政に対して「場当たり」、「その場しのぎ」、「戦略不在」等々、色々な非難が集中し、もし強力な野党が存在すれば政権交代必至という状況になっている。

この10年、日本政府に何か計画なり、目標なり、展望はあったのだろうか?あったとして、それが明確に示され、社会でも話題となり、日本人の意識に浸透してきたのだろうか?

そんなものは、特になかったナア

と、個人的な感想ではあるが、そう思う。

「形あるもの」としての「計画」や「展望」が姿を消してしまったのと同時に、あらゆる意味で、政府から計画なるものが消えてしまった。そんな感覚だ。

19世紀末の日清戦争から、太平洋戦争の酷い失敗をはさみ、戦後の復興と高度成長、二度の石油ショックの克服に至るまで、マアマア有効に機能した「官僚主導国家・日本」なるモデルは、本質的な意味でもはや解体されて、もう実体としてないのだ、と。この事実をどれくらいの人が正しく理解しているのだろう?

「政治主導」を前提すれば、官庁が計画や展望を創る時代ではない。ではあるが、政治家集団である自民党にも計画はない。それを策定できる頭脳集団などもってはいない ― アメリカの共和党や民主党は関係の深い一流のシンクタンクをもっている。数ある野党をみても、真っ当な計画や展望をつくれる頭脳集団などもっていない(とみている)。政治家本人は選挙は上手だが、取り巻きは選挙運動のプロか政治家の卵であって、計画や展望などを作れる知識も才能もないはずだ(とみている)。現代の自民党は戦前の保守政党である政友会、民政党の政党モデルと五十歩百歩である。実に「自由、資本主義、法治主義」という価値観を共有するこの日本において、政党らしい政党組織がたった一つ「共産党」だけであるのは、まさに珍奇としか言いようがない — その共産党も党員の高齢化に悩んでいるそうだが。

つまり、日本社会の将来を情熱をもって構想する機関はいま日本のどこにもない。

家計簿をつけず、確定申告もせず、住宅ローンの借り換えや資産形成についても考えることを止め、毎日の通勤でいっぱいの生活を送ってきた、そんな感覚に近いのではないだろうか。

まあ、怖いと言われれば怖い。小生は旧世代に属するのでそう感じる。

まだ現役で公務、というか公的サーバントとしての雑用をこなしていた頃、友人と会ってはこんな愚痴をこぼしていた記憶がある:

小生: とにかく雑用が多いよ。半分は雑用だな。

友人: そんなに下らないのか?大体、雑用なんて『担当じゃない』って、断ればいいじゃないか。

小生:上の方から割り振られるんだよ。お前の所でやれってサ。

友人: どこでも下らない仕事はあるけどな・・・愚痴らないでやれば済む話しじゃないのか?「計画」を実行する中で苦労するなら、「やりがい」があるってもんじゃないか。楽に楽しくなんて、そんなものないヨ。

小生: 「計画」なんて誰がもってるんだ?

友人: ああ、そうか。日本には「計画」なんていらないってことになったわけか。自由主義、市場重視だからなあ。でも「構想」はもってるだろ?「将来構想」くらい、ただの凡人だって、考えるもんだぜ。

本ブログで何度も投稿しているが、日本という国では「現場」は頑張るが、「上」はダメだ、と。

世界最強の軍隊は、総司令官がアメリカ人、参謀がフランス人、前線指揮官がドイツ人、突撃する兵士は日本人で組織された軍隊であるそうだ。

中身のある状態から空虚な状態に向かって順にならべると、

  1. 計画
  2. 構想
  3. 空想
  4. 妄想

こんな順になるだろうか。

ここ近年の日本国に「計画」や「構想」はなかった。これは確かだ。

政府の政策目標は、予算と同じで単年度ごとに言葉を変え、品を変え、ただ時間が過ぎていった。

もっと淋しいのは、コロナ禍の1年の中でも、アフターコロナ時代の日本社会について「計画」はおろか、「構想」もなく、「空想」をすら語る人がいない。

つまり「夢」がない。

いまは毎日の「新規感染者数」に一喜一憂している。これからは「ワクチン接種数」にも一喜一憂するだろう。

大リーグの大谷翔平のホームラン数を併せると、令和時代の日本人は三つの数字に一喜一憂していることになる。

毎日、その数字をみては、一喜一憂する。うちのカミさんも同じだ。

せめて「妄想」でも話してほしいのだが、誰もが沈黙して、毎日の新規感染者数の変化に一喜一憂している。

思考は停止中である。

この秋に「デジタル庁」が開設されるが、マイナンバーの新規用途を宣伝するとか、便利になるとか、色々と「計画」(の如きもの)が漏れ伝わってきてはいる。しかし、この程度が「夢」というなら、既に夢を実現している国は海外に多数あるだろう。実現しているそれらの国が「夢のような国」ということなのか。

やはり日本国はいま思考停止中である。

《頭》がないのである。あるとしても弱い。だから兵に頼る。《手足》に頑張ってもらうしかないのである。

空想でもいいから考える方がよい。考えれば、それを語るだろう。語れば何かの欲望を刺激し、議論になるだろう。それが「将来構想」になり、「基本計画」が出来るかもしれない。

しかし、必須のファクターがどこかで足りず、十分なエネルギーが不足し、結果が出てこない・・・

力んでも、力んでも出てこない、まるで、老人性の「弛緩性便秘」の症状だネエ・・・こりゃあ、日本社会もいよいよ高齢化による体力減退で、ご臨終が近づいて来たってことですかい、と。不謹慎ながら、そんな連想が頭に浮かんじまいました。

結局、思考停止ということか、だから行動停止になっているのか?

う~ん、これは完全にボヤキだ。小生もいよいよヤキが回っちまったか・・・

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