何かといえば「戦略」が重要であると強調されている。最近よく聞くのは、例えば
あなたのこの意思決定は「戦略的」ではないですね
もっと「戦略的」に議論をするべきです
そもそも政府がとっている行動には「戦略」がない
そもそも「戦略」という元来は戦争用語である術語がなぜこれほど日常生活でも使われるようになったのだろう?小生、感覚的にはあまり好きではない。
「戦略」という言葉にはそれほど重要不可欠な意味があるのだろうか? 誰もが戦略的に生きるべきなのだろうか?
どう生きるかで「ベキ論」を語っても意味がないが、そう言いたくなる。
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ずっと以前にはこれほど「戦略」という言葉は使われていなかった。
むしろ「戦略」という言葉につきまとうのは、「損得計算にさとい」、「計算高い」、「こすい」、「老獪」、「腹黒い」、「策士」という負のイメージであったほどである。
それが、言葉としては随分出世(?)したものだと思う。
ずっと以前は、足元で何をするかについては『△△に関する当面の対処方針』というペーパーを起草したであろうし、今年度中から来年度にかけてどんな考え方で進めるかであれば『△△への対応に関する基本方針』をまとめるところだろう。その上で、何か新法を制定する必要があれば、基本方針に基づいて担当課が法案をまとめるだろうし、もし基本方針に収まり切れないような課題があれば、多分、『△△に関する総合計画』とか、その当時の流行語を使えば『△△問題の解決に向けてのアクション・プログラム』という名称の文書がまとめられ、各省庁で合意形成し、そのあと閣議で決定していたに違いない。
「戦略」という言葉も、「戦術」という言葉も、一切使われることはなかったと記憶しているし、それでなにも困る事もなかったのではないだろうか。
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「戦略」とか、「戦術」という元来は戦争用語であった術語が、日常でも愛用されるようになった背景としては、特に1990年以後に経済学分野において『ゲーム理論』が新しいメイン・ストリームになったことを挙げてもいいような気がする。
今日、盛況を極めている非協力ゲームを実質的に創始したナッシュ、及び理論的彫琢を加えたハルサニ、ゼルテンの3氏にノーベル経済学賞が授与されたのは、1994年のことである。その以前から、既にマクロ経済学のミクロ的基礎が議論されるようになっていて、そのミクロ経済学でも、主体的な行動の非常に基礎的な部分で従来とられていたような市場制約下の最適化行動という視点よりは、複数の主体が相互に影響されながら戦略的行動をとる場合の帰結をゲーム論的に理解する、そんなアプローチがより主流となりつつあった。
ゲーム論では、関係者が「プレーヤー(Player)」と呼ばれる。各プレーヤーが選択する行動方針を「戦略(Strategy)」という名で呼ぶ。有名な「囚人のジレンマ」も私的合理性と全体合理性が乖離するゲーム論の例題の一つである。タフ・コミットメントやソフト・コミットメント、直接効果や間接効果もそうである。戦略的補完性(Strategic Complements)や戦略的代替性(Strategic Substitutes)という言葉を初めて耳にした時には、経済学という学問もずいぶん変わってきたと感じたものである。
そしていつの間にか、TVのワイドショーでも「戦略」という言葉が頻繁に使われるようになった。
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確かに、企業にとって「戦略」は重要だ。企業にとっては「目的」はしばしば明解である。シェアをとりにいくか、利益、ひいては株価を最大にするか、企業成長を極大にするか。目的に応じて最適戦略は決まる。
一方、人が人生を生きるこの社会において、何か明確な「目的」はあるのだろうか?いま、日本社会で「経済活動=仕事」を目的とするべきか、「コロナ感染対策」を優先するべきかについてすら、合意は得られそうもない。
まして人が生きていくうえで「戦略」を大切にすることが正しいのだろうか?
戦略とは、目的を特定化した後、後ろ向きに、つまり「未来志向」で、たとえば10年間の最適戦略をたてるなら、10年後の目的変数を最大化するには9年目にはどうするか?9年目に最も有利な位置を占めるには8年目にはどうするか?以後、順に逆向きに計算して、今は何をすれば最も有利であるか、このように考える思考が《戦略的思考》である。
こんな「計算高い人」を人は好むだろうか?
まさに三島由紀夫が『豊穣の海』第1巻の『春の海』で述べているように
理智があれほど人を信服させるのが難しいのに、いつわりの熱情でさえ、熱情がこうもやすやすと人を信じさせるのを、本多は一種苦々しい喜びで眺めた。
理智の人物である本多繁邦が主人公・松枝清顕が選ぶ非合理な人生になぜか協力するときの一場面である。
見直したよ。貴様にそんな一面があるとは思わなかった。
本多が非合理な友情から熱情をこめて富豪の子息に自動車を貸してくれと頼むとき、その友人は理屈ではなく、その心情に感心して、依頼を応諾したのである。
人間とはこんなものだろう。
つまり、「戦略」は目的が明確な民間企業でこそ、真っ当な議論が出来るが、そもそも目的があいまいな現実の社会では戦略的思考は展開困難であり、まして人生においては「戦略」を計算高く語るよりは、純粋な情熱を示すほうが、よほど他者の協力を得られる、というものであろう。
「最適戦略」とは《目的が明らかな場合に》ロジックのみから導き出される結論なのである。
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昨年の3月頃、突然降ってわいたような新型コロナウイルスに対して、政府(及び医療界)がとった目的は
死者数を最小化する
というものであったと記憶している。以後の基本方針(=戦略)は、この目的を達成するうえで最適な方法という観点から決定されたと思われる。
社会的PCR検査への消極的姿勢は、この目的から導かれる系であったわけで、病院に入ってくる新規コロナ患者数をコントロールしながら — 感染確認を可能な限り早期化するのではなく — 医療資源は(コロナ、コロナ以外の病因に寄らず)重症患者の命を救うために投入する、こういう思考ではなかったかと(勝手に)みている。
もし、この段階で失敗があったとすれば
死者数を最小化するために医療資源を潤沢に整備し、必要に応じて拡充する
という一文が明記されなかったことだろう。もし「拡充」という一語が入っていれば、担当課はそのために必要な法令の策定作業に入ったはずである。
現実には
死者数を最小化するために、感染者数の最小化を図り、そのために経済活動を自粛させる
つまり、言葉通りの「死者数最小化」ではなく、《既存の医療資源を所与》として死者数を最小化するという行動をとったわけだ。
現実には、欧米に比べて「さざ波」程度の感染者数であるにもかかわらず、医療崩壊が現に発生し、死者数も増加しつつあるわけであるから、当初の目的が十全に達成できているか怪しい所である。
昨年来の政府の行動は、死者数最小化という与えられた目的を追求するうえで
最適戦略が採用されなかった
と批判されても仕方がない状況になってしまった。これが「戦略の検証」であって、やはり必要な作業だと思う。
とはいえ、日本国内における2020年の年間死亡数は11年ぶりに対前年で減少となった。
死者数を最小化する
当初の目的は(過剰に)達成されたことにもなる。
が、これをもって、政府の「コロナ対策」が大成功であったと考える人は少ないだろう。目的変数に対する間接効果を計算に入れていた人物はいなかったはずだ。いわゆる「不幸中の幸」の類だろう。
いずれにしても、「死者数最小化」という目的を前提として、初めてその目的に応じた「医療戦略」や「防疫戦略」を語ることができるわけで、そのとき現実社会にある他の多くの目標は考慮していないのである。
もし他の目的をも同時に追求することが課題になるとすれば、目的変数を「死者数」で測定することが当然の前提になるのかどうかも、必ずしも明らかではないだろう。
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経済も不可欠 — 毎日の食事、水道、ガス、電気などは不可欠である以上、完全な経済封鎖は実行不能である。公衆衛生も不可欠。更に言えば、安全保障や公共インフラの維持保全も不可欠、教育も不可欠、コミュニティの維持も不可欠、etc.、この社会には数多くの「不可欠」がある。この最初の二つだけでも、どちらをどれほど重要視するかというウェート付けには《価値観》が混じる。その価値観を日本社会で統一するなどは出来るはずがないし、するべきでもないのである。
国民を超越した「国王陛下」がいるわけではない普通の国において
こうこうするのが国にとっては最善というものであろう
こんな「御意」というか、「ご綸言」を発して、求めるべき目的を示してくれる国家機関はないのだ。
要約すると、新型コロナウイルスが日本に上陸した時点で、何をもって日本社会の「最適戦略」と考えるか、そんな議論にまともな結論などは、そもそも得られるはずが無かったということである。
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よく「政治にもエビデンスを」と言われる。政治も科学だと言われる。論理が通っていなければならないと言われる。民主主義国では「権力」ではなく「科学」を。
こんなスローガンが、今になって唱えられる場面が増えている。しかし、これも「ひいきの引き倒し」というものだ。そもそも、経済学、社会学にせよ、社会科学は真の精密科学ではない。小生が学生であった頃は、データに基づいた実証的分析から複数の《政策のメニュー》を提案し、いずれの選択肢を採るかは、政治に委ねるという政策決定プロセスの理想型が授業でも講じられたが、こんな理想は一度も実行されたことがない。大体、政策シミュレーションで前提するべき与件は余りにも多数ある。何を制御できる政策変数とするかはアドホックで根拠などはない。仮に法制上の変更も「政策」に含めると、変更後のデータはないので、時間が経過した後でなければ政策効果は評価できない。まして制度変更の効果を科学的に事前予測するなどは、言うは易く、行うは難し、である。
政治は統治という場における戦争と似ている。だから引き合いに出すが、エビデンスがあってから対処するなら、それは時機としては遅すぎる。行動に論理を通せば当たり前のことしかしない。正解を直観で知ることが勝負の場では決定的だ。データがそろって科学的分析ができる頃には勝敗は決まっている。理屈は誰にでも語れるのである。理論に精通しても、名曲は作れないし、名画はやはり描けないのだ。
小生はへそ曲がりだ。だから思うのだが、目的を明確化することすら現実の社会において、困難、というより不可能なのだ。目的も明確化できないのに、政治に「戦略」などありうるはずがない。しいて言えば、何をもって社会の目的とするかは、その時の民主的政権に委ねる。その意味では
君主制ではなく民主制を選ぶということ自体が、その国の基本戦略である。そして、その目的は最大多数の国民の幸福の実現にある、と。
そう考えている。かなり功利主義的な立場だ。幸福を享受可能な主体は、企業、法人を除外した一人一人の個人であるから、企業、組織ではなく、個々人を最優先に政治の対象としなければならない理屈である。(多分)多数派ではないだろう。
このように基点を確認したうえで
組織は戦略に従う
というのが基本ロジックであるから、戦略を遂行するのに最も効率的な組織を編成する。こういう理屈になる。
あとは設計次第だ。確立された理論などはない。
だからこそ、歴史に残る外務大臣・陸奥宗光は
政治はアートなり。サイエンスにあらず。
このように語っているのだろう。
つまり、政治に、合理も不合理もない。上手と下手があるだけだ。そう思っているのだ、な。
であるからこそ、政治家なる人物に求められるのは、知識よりは信頼、理屈よりは情熱が、より重要な要素であると思っている。
人は、いかにも賢い人を信頼するのではなく、課題解決に真の情熱を持っている(ように見える?)人物を信頼するものである。
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ついでながら、付言すると、
英米が民主主義国によるコロナ克服の成功例になりつつあるが、
- 違反者への罰金に裏付けられたフェアで厳しいロックダウン
- (当初は制約があったようだが)PCR検査の拡大、無料化による感染者の隔離・保護
- 潤沢な資金支援で加速させたワクチン開発と人海戦術によるスピーディな接種
この三本柱で愚直に押してきた英米の政府行動は、確かに「対コロナ戦略」であった。しかし、最初にいかなる社会目的を設定し、どのような論理で、上のような政策体系が最適戦略であると結論付けたのか?
ロジックではなく、政治家の直観であったのではないか、と。小生にはそう見える。
というより、実は素人の常識にもかなう政策を素直に選んできた。素人であっても自然に発案するようなポリシー・ミックスになっている。アメリカとイギリスをみていると、そう思われるのだ、な。
この点に、英米における、退廃していない、狭い専門家の領域に閉じこもっていない、(まあ、多々問題があると指摘されてはいるが)基本的には健康な公的部門の活動をみる思いがするのだ。
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