もともと腸が弱い。小学6年生の時には、突然、左脇腹が激しく痛み、真っすぐに立てなくなり早退した。病院の診察は終わっていたが、偶々、社宅の階上に父の会社の勤務医がいたので、夜分ながら診察を請うと「大腸カタル」と言われた。注射をしてもらうとウソのように痛みが消えた。中学3年の夏には虫垂炎になった。手術を覚悟したのだが、母が医者に頼んで何とか投薬で収めることができた。その代わり、その年の夏季休暇はずっと布団の上で過ごした。微熱が続いたのだが、同じ棟の知人宅に同居しているお婆さんから赤い仁丹のような丸薬とお札を母がもらって帰り、その丸薬を服用して2、3日すると全快した。治る頃だったのかもしれない。10代も後半になると便秘が酷くなった。一度は病院に駆け込んで措置をしてもらったことがある。いま思い出しても恥ずかしくて汗が出る。
北海道の大学に転職して、ストレスの少ない仕事をしてきたことが幸いしたのか、何とかなってきたのだが、昨冬の暮れ、大腸の内視鏡検査をしてからまた便秘体質が戻ってきたようだ。3日か4日に一度は便秘薬のお世話になるようになった。ガスも増えた。
小林一茶の名句に
屁比べが またはじまるぞ 冬籠り
というのがある。
いまはもう5月である。
屁比べが まだ終わらぬぞ 風薫る
★
屁が多いのは父の遺伝だろう。胃腸が弱いのは母から受け継いだものだ。
両親とも健在なら90台である。
父が亡くなる前、小生がまだ東日暮里の下宿にいたころ、訪ねてきたことがある。4月から某経済官庁に入ることになっていたその2月頃であったかと覚えている。父は、その2年前の秋に胃癌が見つかって手術をしていた。その頃、名古屋の社宅で暮らしていた両親の下にしばしば帰省していたのだが、父の方から小生の下宿をわざわざ訪ねる気になったのは、どんな気持ちの変化であったのか。日暮里駅だと記憶しているのだが、父を迎えに行ったとき、あまりの痩せように愕然とした気持ちは、その時の父の風姿とともに、まだ明瞭な記憶として残っている。その後、小生の下宿まで歩き、多分、その夜は布団を並べるかどうかして、二人で寝たのではないかと思うのだが、どういうわけかその夜のことは覚えていないのである。食事に何を食べたか、何を話したか、何一つ覚えていない。覚えているのは、父を迎えに行ってみた時の父の姿、それだけである。
小生の採用先が決まったとき、父はまだ勤務先であるT社の名古屋事業場に在職しており、母によると息子の就職について同僚と話をしたそうである。父にとっては快事であったそうだ。父の病状が急速に悪化して、東京の大学病院に転院したのは、父が一人で小生に会いに来た春の翌年のことで、その時には父は既に会社を辞めていた。とすれば、その前の年、わざわざ名古屋から東京の日暮里まで来たその年の3月末で、父は会社を退職したのだろうか。小生と会ったあと、父は日本橋にある本社に寄って定年前退職の意思を伝えたのだろうか。もしそうなら、そんな意向を何気なく小生にも話したのではないかと思うのだが、何も覚えていない。
子にとって「父の記憶」というのは、どこか不思議で、とらえどころがないという感覚がある。不思議だ。
それでも、風呂に入ったあとなど、加齢で汚くなった自身の顔をつくづくと鏡で鑑賞することがある。そして、我ながら自分の顔がますます父の顔に似てきたことを痛感する。
父の顔を
粘土 にて作ればかはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……
粘土でつくった父をみて自分の顔をおもうのではない。自分の顔をみて父を観るのである。「おそろしき理法」に思いが至るのも当然だろう。
どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
(出所)高村光太郎『父の顔』
★
小生と二人の愚息との間には、上のように記憶に残るほどの場面はなかった。幸いにして、カミさんともども、元気でいる。だから、まだ日常が続いている。日常が続くのは、それ自体としてよい事だと思うが、鮮やかな印象が残る経験に乏しい、平坦である、そんな物足りなさがある。が、これも「歓喜は哀しみに通じたり」という言葉もあるので、平坦で思い出に残らないのは、文句をいうことでもないのだろう。
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