2021年7月29日木曜日

覚え書き: 暑い夜の読書の感想

東京五輪が始まってみると、マスコミの五輪論調もガラっと変わって、案の定、世間からはその変わりぶりが余りにもエゲツナイというので、色々と批判、非難があがっているようだ。

ヤッパリね

という現象はずっと昔から多いもので、内容はその時々で様々に変われど、同じパターンの現象が単純に反復されるのは、不思議な感じがする。『学ばないネエ』というわけだが、だからこそ

歴史は繰りかえす

という経験則も出てくるのだろう。《人間性》の本質は、いくら科学技術が進歩しても、結局は同じであるからこそ、そうなのだろう。

ただ、世の中の考え方なり、思想は変転として変わってやまない。

変転としてコロコロ変わり、一周して元に戻り、戻った事にも気がつかない。そんなことすらあるのが《世間》というものである。


暑い夜に本を読むことが増えて、以前読み終わった『日本の近代④ 「国際化」の中の帝国日本』(中公新書)のページをめくり直したりすると、多くの個所に線を引いている。

せっかく線を引いているが、サッパリ、頭に残ってはいないナア、と反省しきりだ。この忘れっぽさ、これもまた『歴史は繰り返す』ことの主たる要因の一つに違いない。

例えば、政治の現実と憲法とのギャップが意識されはじめ、「憲法論争」の芽が出てきた明治の終盤、それでも堕落した現状、立ち返るべき明治維新という観念には変わりがないという時代に対して

このような立ち返るべき原点としての明治維新という歴史観が転倒されるのは、ずっと後になってからである。1930年代のマルクス主義による日本資本主義論争の中で、講座派が提示した明治維新像がそれである。そこでは明治維新はブルジョア革命として不徹底な革命であり、そのことが日本をまともな近代社会として成立させなかったという歴史観が示されている。半封建的な遅れた日本、近代社会としてゆがんだ日本、何より駄目な日本の原点としての明治維新という考え方である。これがいかに革命的な歴史観の転倒であったかは・・・(40~41頁)

こんな風に記述してある。

確かに、明治維新をどう評価するかで、「講座派」と「労農派」が激しく論争を繰り広げたのが「日本資本主義論争」であった。昭和10年前後のことである。

ごくごく最近になってから明治維新像を書きかえるような新刊書籍が書店の棚に並んでいたりする。これも長い時間の中では「お久しぶりでございます」の一例である。

戦後になってからずっと、日本の小中学校が使う教科書では、明治維新肯定論一色であった。それほど素晴らしい明治維新の遺産が毀損されたのは、昭和になってから台頭した陸海軍の横暴によるものである。そんなとらえ方である。が、新しい時代はすべて前の旧い時代から現れてくる。新しい時代がまずいなら、前の時代に原因があるに決まっている。そこを考察して、らせん状に深めていかなければ、私たち日本人が自分たちをどう観るかという歴史観は、変転として変わりつつ、長いサイクルを描いて元に戻る、そんな単純反復になるに違ない。「進歩しないネエ」とは言われたくないものだ。

そういえば日本資本主義の父・渋沢栄一って旧幕臣だったよね、福沢諭吉も西周も高松凌雲もそうだ。小栗上野介の先端性はすごいんだヨ、その小栗を処刑するなんてネエ、器が小さいんだヨ、そういえば小栗の盟友・栗本鋤雲もドラマに出て来てるネ。大体、川路聖謨とか、岩瀬忠震とか、永井尚志とか、勝海舟はもちろんとして勝を見出した大久保忠寛とかサ、幕府の人材の厚みはすごいものがある。やっぱりサ、人材としては進んだ幕府、遅れた倒幕派だったんだネエ、江戸に進駐してきた官軍を芋侍といってバカにした江戸っ子の心根はごもっともなるものがあったのサ・・・

こんな見方は、これからも時代が変わる中で、形を変えながら《繰り返し、繰り返し》現れるであろう。

《失われた20年》というキーワードを使ってずいぶんその時点、時点の政府を非難する論調が多かったのを覚えているが、「失われた20年」の原因は絶好調であった前の時代に潜在していたに決まっている。突然ダメになったわけではない。なぜそんな問題意識が(世間で)広がらないのか、釈然としない気持ちであったのは、いまでも覚えているのだな。

これだけは変えたくない

という意識が強かったためだろう・・・

三島由紀夫が転向したプロレタリア作家として著名な林房雄を(案外なほど)高く評価していることを『作家論』(中公文庫)で読んで驚いたのだが、森鴎外をどう観ているのかも寝る前の読書で最近知ったことだ。

鴎外の『青年』が、意外なほど面白くて、世間の「つまらない」という評判とはずいぶん釣り合ってないなあと感じていたのだが、

中年の鴎外は、トオマス・マンがいみじくも言ったように

老年は男性的なものであり、若さは女性的なものである

という、人間精神のふしぎな機構を知りはじめていたのであろう。私はこの作品が、『坊ちゃん』などよりも、現代の青年にもっともっと読まれるべきだと考えている。(22ページ)

こう書いているのをみて、

そだ、そだ

と頷いたものだ。 もっとも『坊ちゃん』をどう位置づけるかは、江藤淳が『近代以前』の中でも考察を加えているくらいで、中々深みのある問題ではある。が、いずれにせよ、『坊ちゃん』は中高生が読んで感想文を書くには、意外なほど手ごわくて、底が深い小説であるのは確かな所だ。

鴎外の『青年』のほうを推薦しているのをしって、一寸嬉しかったので、書き留めておく次第。


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