いつの頃からか、以下のように考えるようになったのは不思議だ。誰の影響かネエ・・・
命は神(仏)に与えられ、善悪の別は人間が決める。神は(自然は)善悪については何も語らない。故に、人が人の生きる場所を奪ったり、人の命を奪ったりすれば、これは全て人間の仕業であって、神とは関係がない。命を奪えば殺人である。刑罰は虐待である。そう考えないのは、そう考えないと人間が決めたからである。
であるので、小生はかなり以前から徹底的な「死刑廃止論者」である。なので、例えば教育的体罰も含め、全ての体罰を禁止しようと提案しながら、その一方で刑罰としての死刑は認めると言う人物をみると、まったく信用できない。その偽善というか、二面性には腹が立つ。
ところで、日本社会では依然として死刑肯定論者が多数を占めている。と同時に、体罰は禁止しようというのが社会的な流れである。
《世論こそ神の声》だと考える立場は確かにある。朝日新聞のコラム記事『天声人語』のように
Vox Populi, Vox Dei
(人々の声は神の声)
そう見える時は確かにある。
しかし、常にそうなのだろうかと、深く疑う。
ごく最近の社会の様相をみると、むしろ
Vox Populi, Vox Diaboli
(人々の声は悪魔の声)
あるいは
Vox Populi, Clamor Diaboli
(世論こそは悪魔の叫び)
いや、いや
Publica sententiam diaboli susurro → これはミスか?
Opinio publica fama diaboli → まだまずいか?
Opinio publica vox diaboli suggestiones
(世論というのは悪魔がささやく声でございます)
こういえば、シェークスピアばりの演劇風台詞にもなろう。
それにしてもGoogle翻訳はすばらしいツールだ。
要するに、世論の転変すること風の如し。東西南北、いずれの方角からも吹く。転変として姿を変えるのは、神ではなく、悪魔であって、そうやって人間を騙すのである。神ではなくて、悪魔であると観ておく方が安全ではないか?
そういえば、古い話になるが、イエス・キリストを磔刑に追い込んだのは、帝政ローマの中央政府から任命された総督ピラトではなく、むしろ周囲をとりまく地元の民衆の声であった。多分、社会全体の大多数は直接の関係もなく、無関心で、声を出すこともしなかったのだろう。
民主主義とは人々の声に耳を傾けることから始まる。本当に声を聴くのがいいのか。声によるだろう。どんな声かも大事だろう。疑いは深まる。
中学生の頃だったろうか、判事をやっていた祖父にプロタゴラスが言ったという
人間は万物の尺度である。
こんな名句を知ったかぶりをして話したことがある。そうしたところ、祖父は
それは違う。正邪や善悪は人間が決めたいように決められるものではない。自然に道理として定まっているものだよ。
と諭されたことがある。
その時は、確かにそうだと自分の誤りに気がついた気持ちになったが、最近になって、小生の言い分もあながち間違いではないと思うようになった。
あと一言。上のプロタゴラスの名句。オリジナルの意味はポジティブなものである。これを小生はネガティブに解釈していたのだ。これ自体、かなり偏屈であった可能性はある。
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