2021年7月24日土曜日

断想: 『世論こそ神の声』と常に言えるとは限らないのではないか

いつの頃からか、以下のように考えるようになったのは不思議だ。誰の影響かネエ・・・ 

命は神(仏)に与えられ、善悪の別は人間が決める。神は(自然は)善悪については何も語らない。故に、人が人の生きる場所を奪ったり、人の命を奪ったりすれば、これは全て人間の仕業であって、神とは関係がない。命を奪えば殺人である。刑罰は虐待である。そう考えないのは、そう考えないと人間が決めたからである。

であるので、小生はかなり以前から徹底的な「死刑廃止論者」である。なので、例えば教育的体罰も含め、全ての体罰を禁止しようと提案しながら、その一方で刑罰としての死刑は認めると言う人物をみると、まったく信用できない。その偽善というか、二面性には腹が立つ。

ところで、日本社会では依然として死刑肯定論者が多数を占めている。と同時に、体罰は禁止しようというのが社会的な流れである。 

《世論こそ神の声》だと考える立場は確かにある。朝日新聞のコラム記事『天声人語』のように

Vox Populi, Vox Dei

(人々の声は神の声)

そう見える時は確かにある。

しかし、常にそうなのだろうかと、深く疑う。

ごく最近の社会の様相をみると、むしろ

Vox Populi, Vox Diaboli

(人々の声は悪魔の声)

あるいは

 Vox Populi, Clamor Diaboli

(世論こそは悪魔の叫び)

いや、いや

Publica sententiam diaboli susurro → これはミスか?

Opinio publica fama diaboli → まだまずいか?

Opinio publica vox diaboli suggestiones

(世論というのは悪魔がささやく声でございます)

こういえば、シェークスピアばりの演劇風台詞にもなろう。 

それにしてもGoogle翻訳はすばらしいツールだ。

要するに、世論の転変すること風の如し。東西南北、いずれの方角からも吹く。転変として姿を変えるのは、神ではなく、悪魔であって、そうやって人間を騙すのである。神ではなくて、悪魔であると観ておく方が安全ではないか?

そういえば、古い話になるが、イエス・キリストを磔刑に追い込んだのは、帝政ローマの中央政府から任命された総督ピラトではなく、むしろ周囲をとりまく地元の民衆の声であった。多分、社会全体の大多数は直接の関係もなく、無関心で、声を出すこともしなかったのだろう。

民主主義とは人々の声に耳を傾けることから始まる。本当に声を聴くのがいいのか。声によるだろう。どんな声かも大事だろう。疑いは深まる。

中学生の頃だったろうか、判事をやっていた祖父にプロタゴラスが言ったという

人間は万物の尺度である。

こんな名句を知ったかぶりをして話したことがある。そうしたところ、祖父は

それは違う。正邪や善悪は人間が決めたいように決められるものではない。自然に道理として定まっているものだよ。

と諭されたことがある。

その時は、確かにそうだと自分の誤りに気がついた気持ちになったが、最近になって、小生の言い分もあながち間違いではないと思うようになった。

あと一言。上のプロタゴラスの名句。オリジナルの意味はポジティブなものである。これを小生はネガティブに解釈していたのだ。これ自体、かなり偏屈であった可能性はある。

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